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愛国者がテロリストになった日
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歴史
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第五章 斜陽

『愛国者がテロリストになった日』
[著]早坂隆 [発行]PHP研究所


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混迷する日本の政治


 一九〇〇年六月、清国において「義和団事件」が発生。「義和団」を称する秘密結社が始めた排外運動は、やがて諸外国との国家間戦争へと拡大した。

 国際社会は、日本やロシアをはじめとする連合国軍を編成し、清国に派兵。清国の宣戦布告から二カ月も経たずして、連合国軍は北京を制圧した。

 敗れた清国は、事後処理に関する「北京議定書」により、天文学的な賠償金の支払いを義務付けられた。合わせて、北京や天津における外国軍の駐留権も認められることとなり、もはや清国は独立国としての体裁をなさず、「半植民地」とも言うべき状態に陥ったのである。

 片や日本では、伊藤博文が九月十五日に立憲政友会を結党。伊藤は初代総裁の座に就いた。政党を立ち上げることによって、立憲政治をより円滑に機能させようと伊藤は企図したのである。結党の翌月に当たる十月には、立憲政友会を中心とした第四次伊藤内閣が成立したが、与党内には激しい派閥抗争が蔓延(はびこ)り、政権運営は絶えず安定しなかった。

 明治三十四年(一九〇一年)五月、伊藤は内閣総理大臣を辞任。閣内不統一がその理由である。


 義和団事件の終結後も、ロシアは満州に軍を駐留させたままだった。ロシアは朝鮮半島に南下する姿勢を露骨に強めていた。

 十二月、伊藤はロシア政府と交渉するため、首都・サンクトペテルブルクを訪問。ウラジーミル・ラムスドルフ外相と会談した。しかし、ロシア側に歩み寄りの姿勢は見られず、交渉は決裂した。

 ロシアのこうした動きに対抗する形で、明治三十五年(一九〇二年)一月三十日、日本はイギリスと同盟を締結。日英同盟である。

 日英同盟を推進したのは桂太郎内閣であるが、ロシアとの妥協の道を模索していた伊藤は、この同盟が齎す成果について懐疑的だった。日英同盟の成立は、確かにロシアへの大きな「備え」となる。しかしながら伊藤は、ロシアを刺激することによって生じる新たな不安定要素の拡大に危惧の念を抱いていた。

 実際、日露関係の更なる悪化は以後、避けられないものとなる。

 ロシアは清国との条約において、満州からの段階的な撤兵を約束したが、実際のロシア軍はその後も駐留を続けたのである。

喧嘩と博打


 安重根(アンジユングン)(よわい)も二十を超えた。

 彼は尚もカトリックの信徒として布教活動に努めている。

 だが、いざこざも絶えなかった。キリスト教に対して警戒心を持つ者も少なくなかったのである。

 安重根は、とある金鉱の管理者をしている(チユ)という男と、布教の在り方を巡って対立した。朱はキリスト教に否定的な意見を有する人物だった。

 某日、安重根はその金鉱へと赴き、朱と激しい口論となった。論争はやがて、杖や石を手にした金鉱の坑夫たちが安重根を取り囲むという事態にまで発展。安重根の筆によれば、坑夫たちの数は「四、五百人」に及んだという。そこで安重根は、腰から下げていた短刀を右手で抜き、左手で朱の身体を捕えて、次のような口説(くぜつ)を大声で発したという。
〈お前が百万の衆を(たの)むとしても、お前の命は私の意志のいかんにかかっているのだ。だからお前はどうすればよいか自分で考えて行動をとれ〉

 このような安重根の行動に怖れを抱いた朱は、()むなく部下たちを退けさせたという。

 先の安重根の発言内容は、彼自身が綴った自叙伝からの引用である。短刀を使って周囲を威嚇するという彼の態度は、窮地における自己防衛の意味があったとしても、宗教に携わる者のあるべき姿とはとても思えない。


 また、安重根は友人から引き継ぐ形で「万人禊」という一種の頼母子講(たのもしこう)の総代にもなった。
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