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(2021/11/26 追記)

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日本がもっと好きになる神道と仏教の話
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ルポ・エッセイ
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2 「神仏習合」による心の基軸

『日本がもっと好きになる神道と仏教の話』
[著]竹田恒泰 [著] 塩沼亮潤 [発行]PHP研究所


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13 日本人の生活のほうが欧米人より宗教的

竹田 ここまで述べてきたように、日本人にとって自然は極めて豊かで、身近なものでした。この大自然の摂理を捉えようとしたところから、「神道」は始まった気がします。天地万物に霊魂を見いだし、大自然の仕組みを知ろうとしたのです。
塩沼 日本人が生き方を見いだすときには、やはり、神道というものが根本にありますので、私たちの生き方にも様々な影響を与えているでしょう。それに加えて、仏教が朝鮮から日本に伝わり、欽明天皇が非常に感激し、臣下に相談するのが賢明と考えました。

 ある臣下は、新しい宗教を取り入れて他の文明国の例にならおうと言い、ある臣下は、それはいけない、異国の神を拝んでは、日本の神様が怒ると言って、両者が争いましたが、仏教が日本において重要な役割を担うようになりました。この時代、日本における仏教の確立者が聖徳太子です。
「神道」という言葉は、中国の『易経()』に出てくるもので、「大自然の原理・原則」といった意味で使われています。もともと日本では、「神道」ではなく「神の道」と言いました。『後漢書』には「神道」という言葉が「墓所に至る道」といった意味で出てくるという話も聞いたことがあります。だから神道は、もともとは名前すらなかったのです。あとから付けたのではないでしょうか。
竹田 仏教が入ってきたので、区別する必要があるということで、名前を考えたと聞きました。それまでは当たり前すぎて、名前が付いていなかったようです。神道が宗教かというのも、よく議論されるところです。「神道は、もう日本人の習慣なのだから宗教ではない」という人もいます。宗教の三要素とされる「開祖・教典・戒律」も、神道にはいずれもありません。

 ただ、よくよく調べていくと、「宗教」という言葉自体、明治維新後につくられたもので、英語の“religion”を訳した和製漢語です。“religion”は、もともとラテン語で「大いなるものに恐れを抱くこと」といった意味だそうです。これは、まさに神道そのものです。

 人間の力ではどうしようもない大きな存在に対し、敬意や畏敬の念を抱くのが「宗教」であるなら、日本人ほど宗教的な生活を送っている国民はいないのではないでしょうか。神道こそ、宗教の宗教たる根本ということにもなります。

 日本の家庭には神棚や仏壇がありますが、これはヨーロッパではあり得ない話です。彼らは先祖を祀る施設を家の中に置きません。お墓はありますが、日本人が盆や正月に行くように、何かあるたびに墓参りをする人は少ないです。日本人の場合、神棚や仏壇に毎朝手を合わせることから、一日が始まる人も多くいます。

 そう考えると欧米人よりも、よほど日本人のほうが宗教的な生活を送っているのです。「大いなるもの、根源的なるもの」に畏敬の念を抱くという点でも、日本人がやっていることは十分、宗教的です。日本人には、「お天道様がいつも見ている」「お天道様の見ているところで、悪いことはできない」といった感覚があります。このあたり、日本人はもっと自信を持ってよい気がします。

 もし日本人が「宗教活動をいっさいせずに暮らしなさい」と言われたら、とてもできないでしょう。正月にお屠蘇を飲めませんし、お節料理も食べられません。初日の出も拝めないし、初詣ももちろんできません。七草粥も「どんど焼き」も餅つきも全部ダメで、雛祭りや端午の節句、花見、七夕もできないのです。
塩沼 「お天道様が見ているよ」と言われても、誰かが監視の意味で見ているというような考え方にならないのが日本的です。母親が慈しみのまなざしで見ていてくれると感じるのが、この国の伝統的信仰心を象徴しているような気がします。

 私は、山の中で一人つぶやいたことがあるんです。
「この大自然というものは、一人ひとりの存在のために微妙でかつ素晴らしいバランスでもって私たちをつつみこんでくれている。人間がどのような知識や技術をもってしてもつくりあげることができない世界につつまれている。いったい誰が何のためにつくったのだろうと考えると自然に天を仰ぎ手を合わせて、ありがとうございますと感謝してしまう。考えてもわからないことを、何でどうしてといつまでも執らわれているより、いまここに存在している自分に感謝し、生きていきたい」と。

注 易経

 中国周代の占い書。儒教の経典である五経の筆頭にあげられる。

14 自然を「神」とするから融通無碍な考えも生まれる

竹田 大自然に「神」が宿ると捉える日本人にとって、神の世界は「歪み」の世界だと思います。大自然はシンメトリー(対称)ではありません。富士山のようにきれいなシンメトリーを描くものもありますが、基本的に自然は歪んでいます。岩にせよ、木にせよ、自然な歪みがある。

 これに対し、欧米人にとって神は全知全能ですから、その世界は歪みのない「直線」でつくられている。それが究極の姿と考えるのです。そして、人間もできるだけ神の世界に近づこうとし、城や庭園なども直線が組み合わされた形になっているのです。

 また欧米人は、社会の変化を直線的に考えます。「いまの営みの先に答えがある」と発想する。近代文明は「人間社会は直線的に進化するもの」という欧米的思想に基づいて進んできたといえるのです。

 一方、私たち日本人の場合、先祖が神ですから、先に進むほど神から離れます。答えは過去にあり、だから建国の精神や神話の精神に立ち返れば、答えが見つかると考えます。そこが「いまの営みの先に答えがある」「人間は直線的に進化するもの」と考える欧米の思想とは、意識の方向が逆なのです。
塩沼 欧米には欧米の文化や宗教があります。たとえばキリスト教を国教とする国では『新約聖書』に書いてあることを信じるからキリスト教徒になります。またユダヤ教徒からしてみたら、自分たちの聖典を『旧約』と呼ばれるのは納得しかねる。もともと『聖書』は一つという考え方をします。

 私たち日本人は、ほぼ一神教の世界から外れておりますので、「神がこう言った。だからこうしなければならない」という原理原則が決まっているような考え方には、なじみがありません。
竹田 それこそイスラム教の「豚を食べてはいけない」、ヒンズー教の「牛を食べてはいけない」といった戒律も、日本人から見れば不思議です。あれらも本当は解釈で異なる部分が多く「モハメッドは、豚を食べることを禁じていない」という説もあります。しかも彼らに「なぜ豚を食べてはいけないのか」と聞くと「そういうものだから」と答えるだけで、その意味を知りません。

 イスラム圏の人と食事をして困るのは、豚肉を食べてはダメなだけでなく、豚肉エキスを使った料理もダメなのです。彼らは、ちょっと匂いをかいだだけで「豚肉エキスを使っている」とわかるそうです。原材料を調べるとやはり書いてあるので「食べられない」となる。

 これが「仏教の教えで『殺生はしない』とあるから、動物の肉をいっさい食べない」というなら、一つの考えとしてわかります。しかし豚だけ、牛だけ拒むところに何の意味があるのか。おそらく誰かが書いたり解釈したことが、いつの間にか固定し、絶対化してしまったのでしょう。それを守る意味を誰も知らないのに、ただ「守るために守っている」のです。

 日本人はキリスト教やイスラム教のように「他の神は認めない」という考え方を取らないし、ヒンズー教のように、理由もわからないまま「牛を食べてはならない」という行動に出ない。極めて融通無碍(ゆうずうむげ)で、世の中の出来事や状態をありのままに受け止めます。

 それでもイスラム教やキリスト教が日本に広がらないのは、日本人が排除しているのでなく、向こうが「唯一絶対の神」にこだわるから、溶け込めないだけです。

 象徴的なのは「七福神」でしょう。七体の神様のうち、純粋な日本の神様は恵比寿()だけです。毘沙門天はもともと、ヒンズー教のクベーラ神、寿老人は道教の神である南極星の化身の南極老人、布袋は実在したといわれる仏教の僧侶など、いろいろな宗教の神々が入っている。そのような神様を日本人は自然にありがたがり、参拝するのです。だからキリスト教やイスラム教が「八百万(やおよろず)」の発想を持てば、いつでも受け入れられるはずです。
塩沼 一定の考え方に執らわれることなく、どんな問題にも滞りなく対応できるように、ユダヤ、キリスト、イスラム、ヒンズー、また仏教など、世界の宗教のそれぞれの考え方をグローバルな観点から知識として、捉えておく必要があります。それぞれの民族の固有の文化、信仰、歴史を知ることにより、逆に日本というものが見えてくるものです。

 富士山にしても、日本にあるから美しい富士山として存在します。もしアメリカに富士山をもって行っても、どこかちぐはぐな感じになってしまいます。逆に、ヨーロッパのお城を京都にもって来ても景観を崩してしまうでしょう。世界中いろいろな意見がある中で、互いに意見を尊重し、教え合うことにより、真理を共有することができます。たった一人で真理を完璧に表現することは不可能ですので、互いに助け合う精神が広がっていくことを心から願っております。そして、そういう考え方ができる日本人が何らかの形で世界に貢献できるなら、とても喜ばしいことです。

注 恵比寿

 兵庫県西宮市の西宮神社からえびす信仰が発展し、漁民や船主から崇敬を集めて招福神となった。

15 「我々は生かされている」という発想

竹田 ただここへきて我々は、伝統的な日本人の感覚から離れて西洋人化し、「自然を支配する」感覚を持ちはじめている気がします。

 分子生物学者の村上和雄先生からお聞きしたのですが、遺伝子には三十億もの文字情報が書き込まれているそうです。大変な情報量で、いったい誰がこれを書いたのかというと、人間でないことはたしかです。それを村上先生は「サムシング・グレート」、つまり「何か偉大なもの」と呼んでおいでですが、キリスト教的な発想では「神」でしょうし、神道的な発想では「宇宙の意思」や「大自然の意思」となるでしょう。これらを総合すると、「神々の意思」ということにもなると思います。

 人間が生まれてきたこと、つまり「私」という人間が生まれ、ここに生きている。遺伝子に膨大な情報が書かれていて、それに基づき受精が行われ、細胞分割が始まり、人間としての形ができあがる。こんなことが偶然に起こるはずがありません。何かの意思があり、それによって「我々は生かされている」と考えるほうが、腑に落ちます。
塩沼 私も以前、村上先生から「これだけ科学が発達しても、人間は大腸菌一つ、つくれないんですよ」という話をお聞きしたことがあります。やはり「偉大なる何か」があるということなのでしょう。

 自分にも親がいるように、そのまた親を辿っていったならどんな存在と出会うのだろうか、この自分を含めた大自然をつくりあげた存在があるとすれば、必ず意思があるはずです。ときに優しく、またときに厳しい神秘的な存在に対し、心のどこかで何かつながっているような感覚を得るときがあります。そして他を思いやることを知り、感謝とか反省という心でもってルールを守れば、大自然とうまく共存できるのではないでしょうか。

 歴史上、大自然とか、神とか仏とかという存在が、見返りを求めたことなど聞いたことがありません。それはなぜでしょう。それはおそらく親の心を持った存在だからではないでしょうか。親が子を、子が親を思う愛情こそ、信仰の結晶、人類の宝であると思います。

16 善、悪を問うか

竹田 大自然すべてを「神」と捉え、「八百万の神」という考えを持つ日本人は、ときに怨霊すら「神」と考えます。

 たとえば全国にある天満宮は、もともと菅原道真(注1)公の怨霊を祀ったもので、あれは怨霊信仰です。平将門(注2)もそうで、岐阜の御首(みくび)神社、東京の築土(つくど)神社、神田明神、茨城の国王神社などは、将門の怨霊を祀ったものです。
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