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「昭和史」を歩きながら考える
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ルポ・エッセイ
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第一章 「昭和史」のなかのわたくし

『「昭和史」を歩きながら考える』
[著]半藤一利 [発行]PHP研究所


読了目安時間:1時間23分
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戦後史のなかのわたくし




一 昭和二十八年

 昭和二十八年(一九五三)春、わたくしは大学を()えて文藝春秋新社(現・文藝春秋)に入った。月給一万二千円であった。ビール大瓶百三十円、もりそば二十円、とんかつ並一皿(ライス別)百三十円のころである。初任給が高いほうの部類であったかどうか、いまになると見当もつかない。

 前々年の二十六年九月、対日平和条約がサンフランシスコで調印され、連合軍による長い日本占領が終わり、二十七年四月に国家主権をとり戻して、やっと戦後日本は独立している。まず国家独立の実感として胸に響いたのは、羽田空港の返還と記憶している。飛べるものはすべて連合軍機のみというそれまでの七年間、「この空はわが空ならず秋の空」という俳句がずっしりと胸にこたえていた時代が終わった。やっと日本人のパイロットによって日本の飛行機が日本の空を飛べる、日本の空が戻ってきたんだよなあ、と、すっきり晴れ上がった空を眺めながら、やたらに嬉しく思えたものである。それと、キャメルやフィリップ・モリスなど、それまで吸いたくても吸えなかった外国タバコが自由に買えるようになる。値段はいくらだったか忘れた。ちなみに日本のピースは十本入り四十円であったことは覚えている。

 わたくしの入社、つまり社会人の一員となったのは、そんな風に“この国のかたち”が大きく変革したときということになる。

 ついでにいえば、この年の二月にテレビ放送がはじまり、三月にソ連の独裁者スターリンが死に、六月にはイギリスの女王陛下の戴冠式(たいかんしき)が行われた。七月に朝鮮戦争の休戦協定が板門店で調印と、世界もどことなく落ち着きをみせはじめる。わが独立国日本でも、高校以上の課外にこれまで禁止されていた剣道の復活が認められる。ただし、自然にでる掛け声はよいが、無用の発声はいけない。つまり戦争中の肉弾切り込み部隊がだしたような声をだすと審判が注意し、きかないときは反則負けとなった。

 どこかチグハグながら日本人が少しずつ威張りだしたとき、雑誌編集者となったわたくしは、群馬県桐生市に住んでいた作家の坂口安吾さんを訪ねた。原稿を頂戴してすぐ帰るつもりであったのに、一行も書いていない。こうなったら(もら)えるまでは離れぬぞと、安吾宅に一週間もこっちが缶詰めとなる破目となった。そして毎晩酒を()みながら(安吾さんは冷や酒、わたくしは燗酒(かんざけ))安吾大先生の、古代史にはじまって戦後日本論までの、天衣無縫、奔放不羈(ふき)の名講義で徹底的に鍛えられた。
「街はすべて焼け野原。食う物もなく()せこけた人間が眼ばかりギラギラ光らせて、ヨロヨロと畜生道餓鬼道(ちくしようどうがきどう)をうろつき歩きながらも、われら日本人は破れ電車に命懸けで乗り、シャカリキになって働きだした。生きとし生けるものは誰もが生きぬくために、ともかく元気をだした。尻尾(しつぽ)を巻いた負け犬はほとんどいなかった。そしてやっといまの独立にたどりついた。さて、これからこの国はどうなると思う?」
「そりゃ、もうぐんぐん発展するでしょう」
「バッカダネー」

 この「バッカダネー」が安吾さんの口癖で、何度、頓珍漢(とんちんかん)な受け答えをして、この言葉を浴びせかけられたことか。
「そうはうまく問屋が(おろ)さんと思うよ。戦争に負けてさんざんな目にあったからって、人間はそう簡単に変わるもんじゃない。人間は元来そういうものなんだ。悲惨も残酷も非情もすぐに忘れて、元の木阿弥。またぞろわれら日本人は世界に冠たる優秀民族だなんて、獅子吼(ししく)する人間がいっぱいでてくるにきまっている。そしてまた亡びるなんてことになる、そう俺は予言してもいいね」

 正確ではないが、この趣旨の安吾さんの話を聞きながら、昭和二十一年発表の『堕落論』の一節を、わたくしは想いだしていた。
(しこ)御楯(みたて)といでたつ我は。大君のへにこそ死なめかへりみはせじ。若者達は花と散ったが、同じ彼等が生き残って闇屋(やみや)となる。ももとせの命ねがはじいつの日か御楯とゆかん君とちぎりて。けなげな心情で男を送った女達も半年の月日のうちに夫君の位牌(いはい)にぬかずくことも事務的になるばかりであろうし、やがて新たな面影を胸に宿すのも遠い日のことではない」

 このリアリズム! 戦後日本をどういう国につくり直すのか、皆目見当はつかないが、安吾直伝のリアリズムだけはわが精神に(たた)きこんでおかねばならぬ、と社会人になりたてのわたくしは思ったことであった。

二 昭和三十五年

 わが師といえる安吾さんは二年後に急逝した。その翌年の昭和三十一年七月に発表された経済白書(「年次経済報告」)は総論の“結語”にこう書いている。
「貧乏な日本のこと故、世界の他の国々に比べれば、消費や投資の潜在需要はまだ高いかもしれないが、戦後の一時期に比べれば、その欲望の熾烈(しれつ)さは明らかに減少した。もはや『戦後』ではない」

 経済問題にうといわたくしは、もう戦後は終わったといわれてもピンとこなかった。しかし、設備投資を主要な需要とする経済成長がGNP一〇パーセントの伸びを達成し、「神武景気」が到来したのだと説明されて、少しは納得した。要するに、戦後の飢餓と貧困と混乱のなかで営々として働いてきたわれら日本人も、夢と自信とをもっていいのだなと思ったのである。

 いま考えればたしかに、このとき日本は戦後の悪戦苦闘の復興経済からテイクオフし、自信に満ちて高度経済成長の道を歩きはじめていたのである。

 ところで、「もはや戦後ではない」のもともとの名付け親の評論家中野好夫氏のお宅をその年の秋に訪れて雑談をかわしたとき、中野さんは妙なことをいった。自分がいいだした「もはや……」が妙な方向へ歩みだした現状を評して、
「神武以来の好景気とはいっても、日本固有の経済的強みや政治的政策があって生まれたものとはどうも思われないな。わが家の家計簿の帳尻をみても、さっぱり異変らしいものはない。それにしても、大いに自信を持つことは結構だが、ロクな政治らしい政治一つ行われないで、しかもこの好景気到来とは、日本人は案外幸福者なのかもしれんね」

 と語って海坊主のような中野さんが豪快に笑ったのを思いだす。そして、勤勉な日本人は焦土から立ち上がって、とにかくここ十年間みんなしてセッセと働いて、あれよという間に生活的な不満を解消して楽になり、景気よくはなっている。とはいうものの、新しい国づくりのほうはまだ放ったらかしのままなのかもしれないな、と反省も交えて思ったことであった。

 その新しい国づくり、つまりどういう国家をつくって国際社会の一員となっていくかについての、戦後日本のいわば分水嶺(ぶんすいれい)となったのが、昭和三十五年夏の六〇年安保闘争であったと思う。このとき“戦後”は完全に終わりを告げ、自由・平等・平和・民主主義・社会主義という思想的に混合されたかたまりが整理されて、国の進む方向があっさりと一つにまとまった。哲学者の田中美知太郎氏がいうように、あの政治的大騒乱は「一切の戦後的なものの一種盛大な葬式」であったのである。

 わたくしは当時三十歳、『週刊文春』編集部員でトップ記事を書いていた。熱狂するよりいくらか冷めた眼で騒乱を望見していた。五月十九日から六月十八日までの一カ月間、東京の中心部が革命の坩堝(るつぼ)のなかにあるかのように荒れ狂った。が、直線距離で一キロほどしか離れていない銀座の社屋にあって、わたくしは国会議事堂前の激突を毎日テレビで眺めていた。若い社員のなかにはデモに参加したものもいたらしいが、革命とはこんな派手派手しい押しくらまんじゅうで起こるものではない、武器一つももたずに、と達観していたことを覚えている。

 案の定であった。岸信介内閣の強行採決への怒りではじまった大衆蜂起は、岸内閣退陣とともにあっという間に退潮していった。“戦後”という時代のガス抜きが終わったのである。あらためて考えるまでもなく、あのとき中心となった若者たちは、戦後民主主義の土壌のなかで教育をうけた世代である。戦前の大日本帝国にたいする嫌悪感や反発心をひとしく植えつけられている。太平洋戦争勃発時の東条英機内閣の閣僚が、首相になって議会政治をないがしろにし、ふたたび軍事路線を歩もうとしているという認識、そしてそのことへのヒステリックな反発が原動力になっていた。それゆえにその元凶が退陣となって、あらゆる怒りも抗議もさあーっとおさまっていったのである。

 騒乱が(しず)まって議事堂付近では、催涙弾のあとであろうか、硝煙がたなびき目がチカチカしているとき、わが編集部では編集会議がひらかれ、次号の第二特集として「デモは終わった、さあ就職だ」というテーマがきまった。「半藤、それをお前がやれ」と命じられて、わたくしは目を白黒させた。でも編集長に「これが正しい時代の見方なんだよ」と説得されて、そうかいなと思いさっそく取材に走った。

 取材をすすめてみて、ほんとうにびっくりした。戦前の紀元二六〇〇年(昭和十五年)のときの「祝いは終わった、さあ働こう」というスローガンを思いだし、それと同じだ、安吾さんのいうとおり戦争に負けても日本人はちっとも変わらないんだと、しみじみと考えさせられた。

 その年の六月二十七日号の『週刊文春』をもちだせば、いまでもその記事を読むことができる。下手くそな書きっぷりで読み直すことなんか御免なのであるけれど、あえて久しぶりにひらいてみると、「かつての就職地獄をヨソに、全国最高の秀才を集めた東京大学の法・経学部は、いまや就職シーズンに突入した。それも学生が会社を選ぶという形で……」といった(うた)い文句で、なんと五ページのルポである。すっかり忘れていたが、読み返してみて仰天した。

 なによりも安保闘争でワッショイワッショイとやっているそのときに、会社説明会が行われていたのである。とくに六月十五日は全学連の国会乱入と、そのさなかの(かんば)美智子の死があった日なのである。

 ・六月十四日(火)

 第一銀行、丸紅飯田、八幡製鐵、三菱銀行、日本生命、トヨタ自動車工業。

 ・六月十五日(水)

 三和銀行、帝国人絹、三井銀行、三菱化成工業、新三菱重工、東洋レーヨン。

 ・六月十六日(木)

 日本勧業銀行、川崎製鉄、三井物産、日立関係四社(製作・電器・電線・金属)、東洋信託銀行、小野田セメント。

 ・六月十七日(金)

 住友銀行、東京芝浦電気、日本長期信用銀行、蝶理、三菱日本重工、山一證券、倉敷レイヨン、松下電器。

 以後、六月三十日までの半月の間に、約百社が就職説明会を行っていた。

 何となくなつかしい社名もあって、いまは昔の物語となっているが、六〇年安保騒動のうしろ側ではこのように日本経済はすでに景況を謳歌(おうか)しつつあったのである。そして敗戦後に志した文化国家・道義国家の国づくりの理想は、雲散霧消というか、塵芥(ちりあくた)のごとくに捨てられてしまっていたのである。

三 昭和四十九年

 安保改定をめぐって揺れた昭和三十五年(一九六〇)の経済成長率は実質一三・一パーセントであった。これは戦後日本六十九年間でもっとも高い数字である。岸内閣のあとをうけた池田勇人内閣の「所得倍増計画」はこの年の九月五日に発表された。「日本の国民所得は、アメリカの八分の一、西ドイツの三分の一。この所得を十年後に倍にします。つまり国民の一人ひとりの月給を二倍にするのです」と。そしてこの年から四十九年(一九七四)までの十四年間は、いわゆる高度成長の坂道を日本国はぐんぐん駆け上っていった、まことに目出度(めでた)い歳月となる。

 わたくしはその間まことに楽しい編集者生活を送っていた。勤めていた出版社の社業もずっと順調に伸びつづけている。そして小泉信三、松本清張、司馬太郎、大宅壮一といった作家たちとの親交をぐんぐん深めた。この時代の思想史を語るのに、これらの人びとの存在ぬきでは到底語りえないのではあるまいか。その存在と活躍が時代の知的文化の根幹をなしていたのである。人間の自由な考え方と新たなるモラルの創造にむけての指標として、かれらの書いたものを知的中間層はむさぼり読んだといっていい。

 編集者としては幸福で、仕事もなんらの停滞や障壁もなくバリバリとやった。好きな酒はそれこそ毎晩浴びるほど呑んでいた。トリスや安焼酎で我慢していたミミッチイときから、オーシャンとなり、角瓶となり、ダルマそしてジョニ赤、ジョニ黒を平気で一本あける大層な身分になるまで、たいして時間はかからなかった(好きな日本酒もドブロクにはじまって特級酒まで、これまた三段跳び)。

 そういえば、余談になるが、家庭生活で()げた御飯を食べる必要のなくなったのは、六〇年安保の直前のことではなかったか。電気釜という文明の利器が家事になれないヨメさんたちを救ったのである。お焦げを子供のときから好物としていたわたくしは、いまどきの日本人がお焦げのおいしさをまったく知らないことが残念でならない。

 閑話休題(それはさておき)、そんな風に、高度成長をほんとうに満喫していたわたくしであるが、心の底ではこんな太平楽がいつまでつづくはずはないとひそかに憂えていた。わたくしの頭の中には、無謀ともいえる太平洋戦争になぜ大日本帝国が突入したのか、そして無残な敗北をとげたのか、そのことを徹底的に調べて得た教訓の、その警鐘がたえず鳴っていたからである。資源のない国、海岸線がやたらに長く国防的に守りづらい国、そして歴史を学ぼうとしない民族エトセトラ。それは経済大国をいくら誇ろうとも厳然と存在している。

 それに、戦前日本の経済学の無能ぶり、そして戦後のマルクス経済学オンリーのいま、この高度成長の現実分析や予測が十分に力を発揮できるはずはない、とすこぶる悲観的であった。それだからわたくしは物質的繁栄を全身的に浴びることはなく、ごく最低限の日常生活で満足することにした。つまり、酒をのぞけば、戦前の東京下町の貧しい暮らしぶりプラス少々のアルファのところで、悠々閑々と日々を送ってきた。

 そんな反時代的なわたくしとは関係なく、高度成長の十四年間は平均成長率はじつに九・七パーセント。日本経済がつくりだすパイはどんどん大きくなり、社会の構造はもとより人びとの生活も意識も根底的に変化した。この短い期間に日本人が体験したいろいろな出来事は前例のないものばかり、国際収支の悪化や物価上昇にたいする批判もときどきあったが、そんな“雑音”に聞く耳もたずで終始する。ましてや公害という“ひずみ”に目をくれる人はまずいなかった。

 そこに昭和四十九年の第一次石油ショックがガツンと襲ってきたのである。前年十月に勃発したイスラエルとアラブの衝突に発するもので、その影響がもろにきた。作家の大岡昇平がこの年の一月一日に朝日新聞に発表したエッセイの一節を引用する。

「政府は信用できず、従ってその統制下にある情報も信用できない。テレビのCMだって、そらぞらしく聞える。(中略)このような価値の不意の転換は、敗戦以来はじめてといえる。沖縄が帰って来てもGNPが自由世界第二位になっても、私は戦後がおわったとは感じなかったが、こんどはわれわれの考え方を替えなければならない時が来ているような気がする」
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