読みたいトコだけ買える本。
犬耳書店
初めての方へ 記事一覧 無料登録 ログイン

12/21に全サービスをRenta!に統合します

(2021/12/6 追記)

犬耳書店は2021年12月21日に、姉妹店「Renta!(レンタ)」へ、全サービスを統合いたします。
詳しくはこちらでご確認ください。

0
-1
kiji
0
1
1228259
0
日本語は泣いている
2
0
0
0
0
0
0
ルポ・エッセイ
お気に入りとは?

お気に入りボタンを押すとお気に入りリストにこのページが追加されます。興味のあるページ・気になったページを後から確認するのに便利です。

お気に入り お気に入り
日本語は泣いている まえがきにかえて

『日本語は泣いている』
[著]外山滋比古 [発行]PHP研究所


読了目安時間:7分
この記事が役に立った
0
| |
文字サイズ


 すこしおかしくなっていたのであろう。これまで一度も外国に負けたことがない、こんどだって負けるものか、そう思っていた戦争に敗れたのだから、しかたがなかったのかもしれない。

 そのころ小説の神様と言われた文豪が、
「日本語など使っているから、戦争に負けた。フランス語も国語にしていたら、こんなことにはならなかった」
という意味のことばを吐いた。そのしっかりした文章は知らないまま、みんながおどろいた。しかし、それを非難する声はほとんど聞こえなかった。

 明治の昔にも、日本語をやめにしたいと言った大臣がいたが、災難が起こると、それをことばのせいにする癖が、日本人にはあるのかもしれない。ことばは、じっと、それに耐えたのである。

 米英と戦争になる前、昭和十五、六年には英語を敵視することが流行した。ろく(ヽヽ)に外国語も知らない大学の国文学者が、英語たたきを愛国心だと錯覚したのか、国語学習より英語に熱心な教育をこらしめようとしたのか、はっきりしたことはわからないが、英語教育廃止を叫んだ。

 そのせいかどうか、高等女学校の英語は廃止されてしまった。男子の中学校の英語は廃止はまぬがれたものの、上級学校への入学試験科目としての英語を縮小した。それをとやかく言える時代ではなかったが、こういうナショナリズムに批判的であることは、きわめて困難であった。

 学生が、下宿さがしをしていると、下宿のおやじさんが、「スパイのことばをやっているような奴に貸す部屋はない」などといきまいた。

 通学の電車で、英語の下読みをしていた学生を人品いやしからぬ紳士が、「恥を知れ」と言ってひっぱたいたが、まわりの乗客は知らん顔をしていた。この学生は同級生で、教室でみんなに伝えた話をきいたのだが、口惜しいという声をあげるものは誰からもなかった。

 それが敗戦で一変した。

 英語を目の敵にしていた大出版社の社長が、
「これからは英語です。アメリカに学び新しい日本をつくろう……」
などと言い出したのだからおもしろい。

 当然、日本語は悪もの扱いである。反対に外国語、ことに英語は空前のブームにわいた。ネコもシャクシも、英語、英文科を目ざし、外国語大学の入学試験は数十倍という競争であった。

 その陰で、日本語は、声もなく泣いていたのである。

 だいたい漢字が多すぎる。減らさなくてはというので当用漢字を一八五〇に制限した。だれも反対するものはなかった。

 仮名遣いが、うるさく、面倒だというので、歴史的仮名遣いを廃して現代仮名遣いを制定した。

 この漢字制限と、仮名遣いの変更によって、日本の若い人たちは、漱石、外が読めなくなってしまったが、それを問題にする閑人(ひまじん)はいなかったから、出版社は現代語版の漱石全集を出さなくてはならなくなった。

 日本語はなんとなく古臭い、という印象をもつ人たちがふえて、外来語がはびこる。なんでもカタカナなら、高級でしゃれた感じになる。そういうことにいち早く気付いたのは、女性のファッション、そして薬品である。デパートの女性向けの売場ではカタカナばかり。売る側は、ワケもわからず、カタカナを売りまくる。

 ある意地悪が、「この、フルファッション、日本語で言うとどういう意味ですか」ときいた。店員、もちろん、知るよしもない。主任だって、わからない。ごたごたしたが、だれも知る人はいなかった。それでも、フルファッションという婦人靴下は、飛ぶように売れた。

 この変人は、それではおさまらない。メーカーに問い合わせた。その結果、フルファッションド・ホイザリ(完全成型靴下)の頭の部分をとってフルファッションにしたのだ、とわかった。

 カタカナ氾濫がすこし行きすぎたらしい、外来語が多すぎる。日本語を大切にしようという動きが出てきた。これも、“外来”であったかもしれない。

 というのは、フランスでも英語が大量に流れこんで、フランス語を乱している、という声が起こった。いわば言語的ナショナリズムである。英語を使うのならそのあとにフランス語で説明しなくてはならない法律をこしらえようとしたこともある。それを伝えきいたのかもしれないし、あるいは、自発的であったかもしれない。カタカナ外来語に白い目を向ける人たちがあらわれたのは、新生日本語の先がけであったかもしれない。
“美しい日本語を”というスローガンはその中から生まれたもので、たんなる反動ではないが、そんなことを気にする人間はきわめてすくなかった。

 外来語ブームは一段落したが、思わぬ置き土産を残した。カタカナの流行である。

 明治以後の日本語は漢字まじりの仮名文を基本とした。その仮名は、平仮名である。ところが、外来語氾濫後、カタカナが急に脚光をあびるようになり、漢字のお株を奪おうとし出したのである。カタカナはかっこういいというイメージをも固まるようになった。

 天下に名だたる大企業が、長年、売り込んできた社名を捨てて、キリン、クラレ、グンゼ、マツダ、……などカタカナにした。

 それが一歩進むとアルファベットをならべる企業名になる。NHK、NTT、JRなどいずれもれっきとした漢字名をもっているのだが、それを知る人はごく限られている。

 日本語の中心が視覚的なものから、聴覚的なものへ、ゆっくりながら移行しつつあることも暗示しているように思われる。

 いちばんひどい目にあったのは、敬語であろう。デモクラシィに反するというので毛嫌いするのが、新しいように思われた。ロクに外国語も知らないのが、外国には敬語などは存在しない、敬語は古い社会のよくない思想にもとづくもの、廃止が妥当だと、国語の教師まで敬語を槍玉にあげた。

 そういう教師に教えられた学生が、「わたしは尊敬できない人に敬語を使う気がしません」などとうそぶく。

 もともと、学校では敬語を教えることはなかった。最小限のことは家庭で身につけ、一人前になれば、まわりから教わるともなく教わった。

 核家族になり年寄りがいなくなって、家族が友だちのようになると、敬語の出る幕がなくなった。よその人には改まったことばを使うこともなく、ふだんのことば遣いを見て育ったこどもにとって敬語を知ることもひどく難しい。

 それほど身近ではない人同士が触れ合うと、一種のマサツを生じる。放っておくと、おもしろくない熱を帯びて、悪くすると、コトにならないとも限らない。

 そんな場合でも、相手を立てることばを用いれば、それが潤滑油のはたらきをして、円滑にことがはこぶようになる。社会心理学的にみても、なかなかの知恵である。それで回避できるトラブルがどれほどあるか、わからない。

 相手を大切にするのが敬語の心である。したがって、自分を低める謙譲語が敬語になる。いくら優秀なこどもであっても、かつては愚息であり、いくら賢夫人であっても、愚妻にするのが敬語である。

 デモクラシィの中で育った人たちが、愚妻、愚息などを許すはずがない。そういうことばは、いつ消えるともなく消えてしまった。

 人間でなく、モノにも敬語が及んで、飯(めし)は乱暴、ご飯と言う。酒はモノの名で、いっぱいやるときはお酒とした方がおいしそうにきこえる。

 外国にもそれぞれ違った敬語はあるけれども、日本語の敬語ほど“発達した”ものは少ないようである。

 なんなら、外国へ輸出したいくらいだが、戦後、国民が心を合わせて敬語をなきものにしようとしたのは、いまから見ても異常だった。

 敬語の作法を嫌って、ことばを大切にすることはできない。日本語は泣いている。そろそろ、泣き止んでもいい?
この記事は役に立ちましたか?

役に立った
0
残り:0文字/本文:3088文字
この記事を買った人はこれも買っています
      この記事を収録している本
      この本で最も売れている記事
      レビューを書くレビューを書く

      レビューを書いてポイントゲット!【詳細はこちら】

      この本の目次