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日本語は泣いている
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ルポ・エッセイ
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話のアペリティフ

『日本語は泣いている』
[著]外山滋比古 [発行]PHP研究所


読了目安時間:6分
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 浮世である。

 人と会ってもいい話ばかりではない。にがい話もきかなくてはならない。とうてい呑めない話を無理やり呑み込まされることもある。てんでお話にならない話に耐えなくてはならない場合もすくなくない。

 それだけに、気のおけない人と、これといった難しい用件もなしに、おしゃべりをするというのは人生における最高のぜいたくのひとつである。

 話においしい料理がついていれば、いっそうすばらしい。逆に、いくらおいしいご馳走(ちそう)が並んでいても、話の伴奏がつまらないと、味はがた落ちになる。

 そのいちばんのいい例が結婚披露宴。たいてい相当金のかかった料理が出るのに、あとで、ああうまかったと思うことはまずない。食べものがおいしかったということが話題になったのをきいたこともない。

 テーブル・スピーチがつまらないからである。せっかくの料理もそれでまずくなってしまう。砂をかむような話と言うが、楽しくないお説教のようなものをつぎつぎきかされながらでは、いかに上等の料理でも食べた気がしない。

 コックさんのためにも、スピーチをする人はもっとおもしろい話をするように心がける必要があろう。形だけは外国をまねてスピーチなどとしゃれてみても、中身をいい加減にしておくから、自他ともに迷惑する。

 話なんかうまくてもしかたがない。むしろ、大物と言われるほどの人は、話は下手な方がいい。何を言っているのかよくわからないのが貫禄である。そんな考えがいまだにまかり通っている。話をおもしろくするために心を砕いているなどと言えば、たちまち変人にされてしまう。

 そろそろ、これが考え違いである、と気付いてもよい時期になっているのではあるまいか。話し合い、コミュニケーション、対話など、ことばの重要性については、しきりに論じられてきた。ところが、その根本になる話し方への関心がもうひとつはっきりしない。

 学校の先生になるのに、教職の単位をとる。ところが、その中に、話し方というのは含まれない。国語の先生になるのにも、話し方の専門教育を受けない。

 そういう先生が、教室で、五十分の授業をする。おもしろくできたら、その方が不思議だ。

 話すことなんかだれにでもできる。わざわざ勉強するまでもない。そう言う人が多いから、話し方の教育が学校ではまったくおこなわれないのである。

 学校教育の効果が上がっていないひとつの原因に、先生が、興味ぶかく授業を進める話し方を知らないことがあげられてよい。

 その点では、お寺のお坊さんたちの方がまだ進んでいる。若い僧侶の研修会にはかならず、説教の講義がある。いかに話したら、仏の道をうまく伝えることができるかを教える。学校の教師はすこし宗教家に見倣(みなら)ったらどうだろう。

 私は文章を書くのは、料理をつくるようなものだと考えている。料理はいかに栄養があって体によくても、まずくては困る。

 どうせ食べてもらうのなら、すこしでもおいしく食べてもらいたい。料理人ならそう思うに違いない。見た目もきれいだと食慾をそそる。量もむやみに多いより、すこし控え目にした方がよろこばれる。

 文章もそういう料理人の心を心として書けば、同じことでも、いくらかはおもしろくなる。読む人の立場に立った文章ができる。いまの文章には、食べたくない人には食べてもらわなくて結構、といったものがすくなくない。

 読みかけて、どうにも歯が立たないという文章は昔に比べてずいぶんすくなくなった。かつては総合雑誌の巻頭論文は、妙にわかったりしてはいけない。

 わからないが、何やら高級なことが書いてあるらしい、と読者に思わせるだけで存在価値があった。このごろは、さすがにそんなことはなくなったが、それでも、なお、お世辞にもおいしいとは言えない、おいしいと思わせようと考えて書かれたのではない文章がごろごろしている。

 料理をつくるつもりで文章を書けば、自然に読者に親切な文章が生まれるはずである。それが私の文章料理説である。

 同じようなことが会話にも言うことができる。

 話をするのに、ことに、おしゃべりをするのに、どうしてこんなにおもしろくない話しかできないのか、と思うことがある。やはり、もっと相手のことを考えなくてはいけない。

 洋食のコースで言えば、まず、アペリティフがいる。ちょっと、食慾をそそる話題をもち出すのである。なんとなくおもしろそうだ、ときいた人がひざを乗り出すようになれば、あとはスラスラ滑り出す。

 アペリティフによく人の(うわさ)がもち出される。
「ここだけの話だけどね、〇〇〇〇くん、飛ばされるらしいじゃないの」

 この“ここだけの話”というのが殺し文句である。相手の心をとらえる。ただ、困ったことにというのはどうも、後味がよくない。もうすこし浮世離れた話題は考えられないものか。
「先日、アメリカの雑誌を読んでたら、(ニワトリ)にコンタクトレンズをはめさせると、お互いにケンカもしなくなるし、卵もよく生む、という記事がありましてね」

 きく人は、意表をつかれて、いったいどうして、鶏にコンタクトレンズをつけたりするのだろう。これが充分、アペリティフだ。

 イギリス人は、あまり親しくない人と会話をするときには、手はじめに、天候を話題にするのが無難だと言う。たえず天気の変わる国ならではのことで、われわれにはあまり参考にならない。

 ただ、日本人は季節の移り変わりにはたいへん敏感で、そのために、季節感の詩ともいうべき俳句が生まれたとも言うことができる。
「近所を歩いていましたら、紫のみごとな花が咲いていました。何だろうと思って、たまたまそのうちの人が庭に出ていたのできいてみたら、テッセンでした。はじめて見ました」

 こういうアペリティフだと、あとあとのどかな話が続く。

 あまり常識的なトピックよりも、すこし変わったことをもち出す方が効果的である。お互いに日常多少とも退屈しているからだ。斬新(ざんしん)な話題のアペリティフが出てくると、思わずカタズを呑む。

 もちろん話の料理もアペリティフだけではしかたがない。メイン・ディッシュがしっかりしていないといけないが、アペリティフで勝負の半分はきまる。
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