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(2021/11/26 追記)

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孤独の研究
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生き方・教養
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第一章 人はひとり

『孤独の研究』
[著]木原武一 [発行]PHP研究所


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  避けられない現実


 これからは、ひとりで生きることが求められる時代である。統計はひとりで生きる人びとの増加を示す。ひとり暮しのことを単独世帯と言うが、現在の日本では総世帯のうち約二割が単独世帯であり、全人口のうち、約十五人に一人はひとり暮しの生活を送っている。高齢になると、この割合は増し、六十五歳以上の老人の約十人に一人はひとり暮しである。

 推計によると、三十年後には、ひとり暮しの老人の数は三倍以上に増えるという。

 高齢と孤独はあいたずさえて進む。生きているかぎり、人間は年を取り、しだいにひとりぼっちになってゆく。もちろん、孤独なのは老人だけではない。親しい友との交わりのなかにも、楽しい家族の団欒のなかにも孤独はある。すべての人間にとって、孤独は避けがたい現実である。

 (ヒト)であるとは、ひとりであることである。ひとりであるから、(ヒト)である。ひとりで生きることができてはじめて、(ヒト)となる。

 しかし、人間は自分ひとりだけで生きてゆくことはできない。生きているかぎり、他の人間の厄介にならざるをえない。まったく他人の厄介にならずに生きている人間はいない。人間は他人との関係のなかで、つまり、人と人との間で生きている。

 このように、人間はひとりでは生きてゆけないが、しかし、ひとりで生きることもできなければならない。

 なにごとにつけ、ものごとには相反する二つの面がある。ひとりになりたい時もあれば、みんなでおしゃべりしたい時もある。孤独で淋しいという人もいれば、孤独で快適だという人もいる。他人にいろいろ口出しをされたり、余計な手出しをされてわずらわしい思いをすることもあれば、だれにもかまってもらえず、相手にされず、見捨てられたような思いをすることもある。

 個人があってこそ、社会という集団が存在し、また、集団があってこそ、個も存在する。

 個であることは孤独であることであり、そのこと自体は、別に悪いことでも良いことでもない。孤独であることは、人間であることにともなう避けがたいひとつの事実である。人間はだれでも孤独である。孤独を知らない人間はいない。一人前の人間であるということは、孤独を知っているということである。ふと気がつけば、みんな自分が孤独であることを知るはずである。

 しかし、私たちは孤独をおそれてはいないだろうか。孤独をできれば避けたい災難のように思ってはいないだろうか。

 多くの人が生れ落ちて以来、家庭でも学校でも会社でもいつも教え込まれてきたのは、人びとといかに穏便につきあうかということ、協調性を身につけること、他人の立場に立ってものを考えたり感じたりすることであった。もちろん、こういったことも大事ではある。しかし、こういった集団の中で生きる技術が身につけばつくほど、人生は空疎になる。いつも他人の立場に立ってものを考え続ける人は自分の考えを持つことができなくなり、考えそのものを持つことができなくなってしまう。

 大切なのは、他人といかに穏便につきあうかということではなく、自分自身といかにつきあうかということである。他人とのつきあい方は、社会が集団生活を通して否応もなく教えてくれるはずである。しかし、自分自身といかにつきあい、孤独という避けがたい事実にいかに対処するかについては、だれも教えてくれはしない。それは自分ひとりで体験し、学ぶしかない。

 孤独をどう生きるか。

 人びとは孤独をどう生きたか。

 人間にとって孤独とは何なのか。

 こういっただれにとっても避けては通れない問題を考えてみようというのが本書のめざすところである。



  悪魔が仕事をもってくる


 生きているということは、動いているということでもある。すべての動きが停止した状態が死である。生きているかぎり、動きたくなるのが自然である。元気な人間にとって、密室にじっとしていることほど耐えがたいことはない。

 ところが、フランスの哲学者パスカルは、『パンセ』のなかの有名な一節で、人間のあらゆる不幸は、部屋のなかにじっとしていることができないという、この唯一のことから起こるのだ、と言っている。

 このパスカルの言葉にはじめて接したのは今から三十年以上も前のことであるが、それ以来、この言葉が脳裏にこびりついてはなれない。私自身は、部屋のなかにじっとしていることがそれほど苦手ではないと思っているが、それでも、気晴しを求めて外に出たくなることがしばしばある。はたして、パスカルの言うことをどれほど信じてよいものかどうか、大学生の頃も今も同じように迷いのなかにあるが、これと似たような話を中国の古典『荘子』のなかに見つけて、かえって疑問は増すばかりであった。
『荘子』の漁父篇にこんな話がある。

 あるところに、自分の影をこわがり、自分の足跡を嫌う男がいた。その男は自分の影と足跡を振り切ろうとして逃げたが、懸命に走れば走るほど、足跡の数は多くなり、影はぴったりついてくる。それではと、さらに全力をふりしぼって息もつかずに疾走したが、とうとう力つきて、その男は死んでしまった。

 このエピソードを紹介した漁父は、こんなふうにコメントする。
「この男には、日陰に身をおけば、影が消え、じっとしていれば足跡もつかないことがわからなかった。なんと愚かなことだろう」と。

 パスカルにたいしてと同様、この『荘子』の話にたいしても、多少の異論をさしはさみたくなる。たしかに、日陰にじっとしていればなにごとも起こらなかったであろうが、それでは、生きている甲斐がないではないか、と。
『荘子』の作者である荘周は、「無為自然」、つまり、何もしないでじっとしていることをすすめる。パスカルは、部屋にとじこもってじっとしているのがよいと言う。いずれも、孤独のすすめである。たしかに、部屋にとじこもっていれば、交通事故に遭うこともなく、世の争いごとにまきこまれることもない。しかし、問題は、孤独であるところから生れる不幸や災難も少なくないということである。

 たとえば、こんな諺がある。
「小人閑居して不善をなす」

 凡人は、暇をもてあまして何もすることがないようなとき、ろくなことをしない、というわけであるが、たしかに、こういうことにはみずから思いあたる人も少なくないのではなかろうか。私自身も、この諺を身にしみて思いおこすことがしばしばである。中国の昔の賢人が「無為」を力説したのもたしかに一理ある。暇をもてあまして何もすることがないときは、何もしないのがいちばんいいのだ。
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