孤独のアリア
孤独というものをしみじみと心に浸みわたるように感じさせる音楽がある。淋しいとか悲しいとかいうのではなく、この世に自分がただひとりいるという事実そのものを切実に心に訴えかけてくるような音楽――そういう音楽を耳にしたことはないだろうか。
これこそまさしくそのような音によって表現された孤独であると、私が常づね思っている音楽がある。それは、一九八二年に五十歳で世を去ったカナダのピアニスト、グレン・グールドが死の前年に録音したバッハの『ゴールドベルク変奏曲』の冒頭のアリアである。グールドはこの曲を二十三歳のときにも録音しているが、この二回目の録音のほうは、なんともゆっくりしたテンポの演奏で、その瞑想するような音楽はあたかもグールド自身の魂の告白のように響いてくる。
バッハの『ゴールドベルク変奏曲』は、冒頭に主題を奏するアリアという部分があって、それに三十の変奏曲が続き、最後にもう一度、冒頭のアリアが繰り返されるという曲である。バッハの最高傑作のひとつであり、演奏者にとっては難曲中の難曲とも言われているが、冒頭のアリアは単純な楽想のなかに深い情感が込められていて、いちど耳にしたら忘れがたい趣きがある。グールドはこのアリアを、第一回の録音では一分五十二秒、二回目はその約一・五倍の三分四秒で弾いている。
彼の演奏の大きな特徴はテンポのとりかたにあるが、それにしてもこの二回目の録音はなんとも異常なまでのゆっくりしたテンポである。彼は好きな曲はゆっくり弾くと言っているが、このゆっくりしたテンポはこの曲にたいする彼の愛着を示すもので、それだからこそ同じ曲を二回も録音したのであろう。グールドのこの二回目に録音した『ゴールドベルク変奏曲』は日本でもベストセラーになったので、お聴きになった方も少なくないと思われるが、みんなその異常にゆっくりしたテンポにびっくりしたはずである。そして、このテンポになれてくるや、音楽にこめられた深い深い思いが伝わってくるのを感じたにちがいない。その「深い深い思い」のこめられた音楽を創造したのはヨハン・セバスティアン・バッハであるが、しかし、音楽を聴く者に伝わってくるのは、むしろ演奏者グールド自身の「深い深い思い」である。いままでだれもグールドのようにこの曲を弾いたピアニストはいないし、バッハ自身もこんな風に演奏されることなど考えたこともなかったにちがいない。
ピアニストに限らず、演奏者は自分の流儀で演奏する。すぐれた演奏者は、なかなか他人が真似のできない個性の持主である。グールドも個性という点ではだれにもひけをとらないピアニストである。どんな曲を演奏しても、二、三小節ほど聴けば、すぐ彼の演奏だとわかるような個性が彼の演奏にはある。私は彼の演奏を耳にするたびに、彼の個性、彼でなければ表現できない音楽のユニークさを感じながら、いったい、音楽演奏における「個性」、とくにグールドの「個性」とは何だろうかとしばしば考える。
私は彼の演奏をレコードならびにCDを通して三十年以上も聴いてきたが、彼のユニークさはこんなふうに言えばいいのかもしれないと、最近ようやくわかりかけてきた――彼はたとえばバッハを弾いているのではなく、自分自身を弾いているのだ、と。
あるいはこんなふうな言い方もできる――彼はバッハが作曲した曲に音を与えているわけではなく、バッハの曲を通して自分自身を語っているのだ、と。
バッハを弾こうが、ブラームスやベートーヴェンを弾こうが、音楽のなかからあらわれてくるのは演奏者グールド本人である。このことがもっとも強く感じられるのが、さきほどから問題にしている『ゴールドベルク変奏曲』のアリアなのである。つまり、このアリアに体現された孤独は、グレン・グールド自身の孤独である。そして、私は彼の音楽ばかりか生涯の細部も知るにつれ、この天才的と言われるピアニストは、孤独について考える格好のサンプルでもあると思うようになったしだいである。
グールドとの出会い
はじめてグレン・グールドを聴いたのは、今から三十一年前のある日の早朝のことである。当時、NHK第二ラジオで、たしか午前七時二十分から「名演奏家の時間」という番組があった。週一回、たぶん土曜日に放送されていたように思う。当時私は大学生だったが、クラシック音楽が大好きで、中学、高校時代からこの番組はほとんど欠かさず聴いていた。番組の冒頭に流れてくる、シューベルトの『ロザムンデ序曲』のあの朝のさわやかさを伝えるような清涼な響きを今でもよくおぼえている。
その日の「名演奏家の時間」にラジオから流れてきたのは、ブラームスの『間奏曲』というピアノ曲だった。はじめて耳にする曲だったが、ラジオのスピーカーから音が流れだしたとたん、私は姿勢をただして、耳をそばだてた。それは今まで一度も聴いたことのないような響きであった。はじめて聴く曲ではあったが、テンポのとり方が実に独特であることはわかった。そして、全体にみなぎる緊張感。心の奥深くまで語りかけてくる音の浸透力。曲が終って、グレン・グールドという演奏者の名をはじめて知った。
その日から、私はグールドのファンになった。その頃すでに発売されていた『ゴールドベルク変奏曲』とバッハの『平均律ピアノ曲集』第一巻を入手して、ほとんど毎日のように聴いた。そして、彼の新しいレコードが出るたびに欠かさず買い求めて、三十年が過ぎた。
その間、私は、グールドの弾くピアノ曲の一曲でも自分で弾けたらなんとすばらしいことだろうと思い、ピアノの弾ける妻に手ほどきを受けながら、バッハの『インヴェンション』の第一番に挑戦し、それ以来、二十数年間というもの、ほとんど毎日のようにこの曲をはじめ、バッハの数曲を弾くのが私の日課になった。『インヴェンション』の第一番を弾きそこねた回数では、たぶんだれにも負けないだろうというのが、私の唯一の自慢にもならない自慢である。
私がはじめてグレン・グールドを聴いた頃、クラシック音楽にはかなり詳しい人びとにグールドのことを話しても、わかってもらえる人は一人もいなかった。名前も聞いたことがないという人がほとんどで、その名を耳にしている人も、彼についての「非音楽的」な噂にまどわされているばかりで、音楽そのものを傾聴するというゆとりはなかったようだ。