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インテリジェンス入門 英仏日の情報活動、その創造の瞬間
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歴史
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2章 フランス──復讐のインテリジェンス

『インテリジェンス入門 英仏日の情報活動、その創造の瞬間』
[著]柏原竜一 [発行]PHP研究所


読了目安時間:59分
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普仏戦争の敗北

皇帝の死角


 普仏戦争が始まった時点での、フランスの政治指導者は皇帝ナポレオン三世でした。三世というと、日本語の感覚で言えば三代目に相当し、「唐様で書く三代目」といった表現にも見られるように、洗練されているものの初代には及ばない存在というイメージがあります。しかし、こちらの三代目は、初代ほどとはいわないまでも、なかなかの戦略家でした。そして、初代ナポレオンがたどった軌跡を、時代の流れに合わせて変更を加えながらも、忠実にたどろうとした後継者でした。


 ナポレオン三世はナポレオン一世の弟、オランダ王のルイ・ボナパルトの第三子として生まれ、ルイ・ナポレオンと呼ばれていました。家庭教師の影響で革命思想にふれる機会があったルイ・ナポレオンは、一八三一年にはイタリアの祖国統一運動カルボナリ党の運動にも参加しています。三二年にウィーンで生活していたナポレオン二世が結核で死去すると、ルイ・ナポレオンは事実上ナポレオンの帝位継承権者となりました。そして、帝国の再興という野心を秘めて『政治の空想』という著作を世に出します。ナポレオン伝説を背景に、一八三六年にはストラスブールで私兵を従えて決起しますが、あっけなく失敗し、ブラジルへ追放されてしまいます。そこからイギリスに逃れ、四〇年八月にブローニュで再び蜂起します。しかし、再び失敗し、今度は無期懲役に処せられ、アム城塞に投獄されました。獄中で、フランスの空想的社会主義者サン・シモンの著作に触れ、一八四四年には『貧困の撲滅』を著しました。その二年後に石工を装って脱獄し、ロンドンに逃れました。


 叔父の理想を再び実現しようとして何度も挫折したルイ・ナポレオンでしたが、一八四八年二月革命でついにチャンスを手にします。八月の国民議会補欠選挙で選出され、注目を浴びながら政界に登場しました。一二月には大統領選挙があったのですが、革命の恐怖に怯える秩序派や王党派は、国民に人気のあるルイ・ナポレオンを推し、圧勝を収めました。


 しかし、ナポレオンの野心は、保守反動派の思惑を越えるものでした。一八五一年一二月にはクーデターを起こし、議会を解散し、反対勢力を弾圧した上で、国民に信を問うたのです。翌年一一月に再び国民投票に訴えて圧倒的多数の支持を得て、ナポレオン三世として即位しました。こうしてナポレオンの帝国は復興されたのです。この政権までの道のりを見るだけでも、ナポレオン三世という人物が一筋縄ではいかない人物であることが分かるでしょう。


 寡黙にして冷静、そして人に本音をうち明けることの少なかったナポレオン三世は、夢想家でもありました。同時代人からは「山師」等と非難されましたが、政治家としては優秀だったことは疑いありません。彼が権力を握ると、フランス国内の経済を活性化させ、大規模な銀行の開設を奨励し、パリは国際的な金融市場になりました。また、二回にわたって万国博覧会を開催し、産業振興の起爆剤としたのです。オスマンに命じてパリを現在のような町並みに改造したのもナポレオン三世だったのです。


 経済成長と並んで、軍事力を前提とする対外政策も、ナポレオンを支えた大きな柱の一つでした。クリミア戦争に加わり、イタリア遠征を行い、既存のヨーロッパ国際秩序に挑戦しました。また、アフリカ、東南アジアで植民地化を推進し、メキシコにまで出兵し、支配領域の拡大を図ったのです。このメキシコ遠征を除けば、対外遠征もほぼ成功を続けており、海外領土も順調に拡大していたのです。


 こうして、二〇年にわたって帝政を維持してきたナポレオン三世にも死角がありました。それこそが、前章で触れたとおり、インテリジェンスだったのです。


戦略と情報


 普仏戦争当時のフランスの情報活動は、伝統的に三本の柱で構成されていました。一つは、外務省による外交公電の傍受、一つは、警察公安局による公安活動、もう一つは軍による情報活動です。しかし、ナポレオン三世の下では、他の二つの分野に比べ、軍事情報活動は非常に低調でした。このことが、普仏戦争におけるフランス敗北の直接の原因となっています。


 しかし、振り返って考えれば、ドイツ統一のためにデンマーク、オーストリア、そしてフランスと戦い、しかも他の列強諸国からの干渉を受けずに勝利を収めるということを構想し得たビスマルクの勝利というべきでしょう。言い換えれば、単に情報を収集したシュティーバーだけでなく、軍事上の戦略に編み上げたのがモルトケ、それに、それらを総合的に監督し、ドイツ統一とその後の安定を生み出した大戦略家ビスマルクの共同作業の結果だったのです。情報をどのように収集し、それをいかにして政策に生かすか、戦略と情報という二つの軸がお互いに支えあいながら、ドイツ統一という国策が遂行されたのです。


 それに対してフランスは、ナポレオン三世の下では、対外情報活動は実質上存在しなかったといってもいいでしょう。シュティーバー本人も、「普墺戦争の時よりも普仏戦争の方が危険が少なかった。そしてより多くの成果があげられた」と述べているほどです。


 戦前のフランス軍内部における情報組織は戦史部でした。戦史部の第一課が地理担当で、第二課が戦史や文書担当でした。その外局には偵察局、統計局がありました。統計局の担当は、出版物並びに鉄道網に関する研究でした。シュティーバーの活動が次第にフランス軍内部にも知られるようになると、統計局は、軍の上層部に情報活動を拡大するようにしきりに提言したのですが、実際に情報活動の拡大が命じられたのは、開戦直前の一八七〇年七月一六日のことでした(開戦は七月一九日)


 しかし、時既に遅しでした。仏軍内部では補給は適切には行われず、フランス国内の地図も仏軍内部に配布されなかったほどでした。「こいつらは本当に馬鹿だ」とモルトケも記したほどでした。ドイツ側は、ボルドー、リヨン、オルレアン等の戦略上重要な都市には碁盤の目状にスパイを配置していました。さらに、不満を抱えるフランス人の多くが喜んで情報提供に応じていたのです。その中には五四名もの政府高官、一〇八名もの従者、五二名もの下士官、六七一名もの兵士も含まれていました。ドイツ軍参謀第三部は、新聞を用いて積極的に欺瞞情報を各地にばらまいていました。ナポレオンの伝統を受け継ぐ偉大な軍隊はもはや紙の上にしか存在しなかったのです。


陸軍情報活動の再建


 普仏戦争終了後に新たに成立したフランスの第三共和制政府を彩っていたのは、復讐の精神でした。こうした精神土壌から、常設の情報機関の設置が構想されたのです。敵軍に関する信頼できる情報がなかったために敗北したのだという考え方が広まっていました。戦時中には情報活動を担当する部署が陸軍の中に設けられましたが、戦後はその部署も消滅していました。


 一八七〇年以降、軍情報部の創設に尽力したのはエミール・ヴァンソン少佐でした。彼は参謀学校を卒業した歩兵部隊の士官で、第二帝政時代のほとんどすべての軍事作戦に従軍していました。一八六九年に戦史部に配属となり、普仏戦争に当たってはインテリジェンス活動を担当する数少ない士官の一人となったのです。そこで彼は他の数十名の士官と共にライン川流域とドイツ西部の偵察活動に従事しました。この戦史部は普仏戦争後、「統計局」と名称を変更することになります。


 ヴァンソン少佐は、メスで捕虜となり、一八七一年三月まで収監された後、すぐに再建された戦史部に配属されます。一八七一年六月八日に、政令により仏軍参謀本部が創設されると、ヴァンソンが参謀第二部の「統計局」を担当することになりました。この統計局には、一八六〇年代末から戦史部に名を連ねていたメンバーが顔をそろえていました。これがフランスにおける常設情報機関の誕生だったのです。


 仏軍情報活動のもう一人の創始者は、一八七一年九月に「士官連合」を創設したフィックス少佐でした。この士官等の団体の目的は、会議を組織し、『士官連合紀要』を出版することによって、陸軍幹部を養成することでした。一八七一年一〇月以降は「士官連合」も大臣によってその地位を認められ、軍士官らも新たな参謀第二部で活動することが公式に奨励されたのです。従って、『士官連合紀要』でも、外国軍研究が重視され、その記事は分冊として出版の対象になりました。


 結局の所、『士官連合紀要』の意味は、再建過程のフランス陸軍において統計局の組織と活動を発展させる必要性を広める点にあったといえます。


 ヴァンソンの活動はすぐに実を結びました。彼は、一八七一年一一月に、参謀第二部の公式刊行物として『外国軍事紀要』を創刊するのです。統計局に配属された士官は、自らの研究をこの紀要で発表し、この紀要が各部隊に回送されたのです。一八七二年六月一〇には陸軍大臣の認可も得て、一般の士官や部隊長にも配布されることになりました。この紀要の情報源は、参謀第二部の情報(大使館付武官の報告書、外国の新聞、外国の軍関係の新聞)でした。フランス軍士官はこの紀要の創刊によって最新の対外軍事情報に接することができるようになったのでした。


 機構改革はさらに続きました。参謀第二部から「統計局」が分離されるのです。当時「統計局」は一〇名程度の組織で、この中で五名が士官でした。彼らが対外情報活動やフランス国内での防諜活動に当たっていたのです。ヴァンソンはその他に軍組織に関わるあらゆる問題に関して陸軍大臣に助言を与えており、一八七四年三月一二日の参謀本部機構改革の構想を立てたのも彼でした。この機構改革によって、従来の戦史課、もしくは統計局が担当していた戦史研究や地図作成といった任務は、他の部局に移され、参謀第二部は情報活動に特化することになったのです。さらに、統計局は参謀本部直属の部署となりました。そして、統計局は参謀第二部からも次第に独立性を高めることになりました。この目的は、機密費やエージェントを使用する「統計局」を参謀第二部から分離することで、参謀第二部が非難されることを防ぐことにありました。こんな訳で、ヴァンソンを含む参謀第二部の幕僚もこの分離を歓迎していたのです。


 統計局(軍情報部)の創設はヴァンソンにとって最初の関門でしかありませんでした。彼がその次に着手したのは、参謀第二部をあらゆる軍事情報の集約機関にすることでした。「統計局」からの情報を受け取るだけでなく、在外公館に駐在する武官や海外で作戦活動中、もしくは海外を旅行中の士官からの報告を受け取ることになりました。それだけではなく、海軍省、外務省、内務省、警視庁からしばしば情報の提供を受けました。そして参謀第二部内でも海外の一般紙、軍事情報紙から情報収集が行われていました。最後に、フランスに駐在する外国武官からの情報収集も参謀第二部の役割に加えられました。

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