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インテリジェンス入門 英仏日の情報活動、その創造の瞬間
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歴史
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3章 英国──誠心誠意のインテリジェンス

『インテリジェンス入門 英仏日の情報活動、その創造の瞬間』
[著]柏原竜一 [発行]PHP研究所


読了目安時間:1時間51分
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低調な英国情報活動

スパイ嫌いのビクトリア朝英国


 一八八七年の女王即位五〇周年記念式典に引き続き、その一〇年後の一八九七年には、即位六〇周年記念式典が催されました。この即位六〇周年記念式典は、五〇周年式典よりも、より一層華やかに、より壮麗に執り行われました。エドワード・エルガーによって作曲された「皇帝行進曲」が鳴り響く中、ロンドン中が祝祭気分に沸き返りました。ビクトリア女王がウィンザー城からバッキンガム宮殿に向かう際も、多くのロンドン市民が駆けつけ、ケンブリッジ・テラスには「我々のハートは、女王と共に」というプラカードまで掲げられました。通りのバルコニーには皆、花や英国国旗、それに掛け布で飾り付けられ、いつまでも歓声が止みませんでした。バッキンガム宮殿ではヨーロッパ中の王侯貴族や政治家、外交官がこぞって女王の即位六〇周年を祝福したことは言うまでもありません。


 しかし、それからわずか二年後の南アフリカで勃発したボーア戦争では、イギリス軍は非常に苦戦を強いられ、大英帝国の威信は大きく傷つけられることになります。わずか二年の間に、英国は天国と地獄を経験したと言っても良いでしょう。この時期を境に英国は自らの帝国を維持するために何が必要なのかを真剣に模索するようになるのです。


 一九世紀の英国は、さしたる努力がなくても、世界に広がる帝国を運営・管理することができていました。確たる戦略すら持たなかったにもかかわらず、十分な海軍力と卓越した外交力で十分に対応できたのです。


 そして、一九世紀を通じて英国人はインテリジェンスを、スパイ活動をひどく嫌っていました。一七世紀末以降、英国政府は、世論を恐れてスパイを一時的にしか用いませんでした。一八世紀から一九世紀にかけて、イングランド、スコットランド、ウェールズにはスパイがほとんどいませんでした。英国人はこのことをヨーロッパ大陸諸国に対して英国が優れている点の一つであると考えていたほどです。そして、一八四八年以降国内の政治情報活動は、基本的には英国内では停止してしまうのです。そして常設の情報機関は一九〇九年に至るまで存在しませんでした。


 実際、ディケンズの作品『Household Words』にも、「最も過激な民衆扇動者ですらこの自由な国で自分の言いたいことを言える。(……)彼は組織されたスパイシステムという恐怖の下で話してはいない」という表現が見られます。一九世紀の英国は、インテリジェンスには否定的な見方が多かったのです。特に、秘密警察に対する嫌悪感には大きいものがありました。


 一九世紀における英国インテリジェンスが低調であった背景には、ナポレオン戦争が終結する一八一五年から一八九九年のボーア戦争まで、クリミア戦争をのぞいて英国にとっては平和な時代が続いたという事情がありました。この期間を通して、英国にとっての脅威は全く存在しなかったのです。唯一英国の平和を乱す可能性があったのはロシアでした。ロシアとはインド北西部で国境を接しており、インドの防衛がしばしば問題になりました。しかし、英国の政治家にとって、さしあたってロシアが脅威になるのかどうかはわかりませんでした。


 その結果、ビクトリア朝の下での情報機関の整備は他の諸国に比べてかなり遅れることになります。しかし、ボーア戦争以降、英国は外交の上でも行き詰まりを見せ、広大な帝国を防衛するという課題を解決せねばならなくなりました。ここから英国インテリジェンスは新たに再生するのです。


一九世紀英国外務省のインテリジェンス


 外務省によるスパイを用いた情報収集は、機密費を用いて行われていました。この機密費の額も、ナポレオン戦争の時代には、年間一〇万ポンドにおよび、一八〇五年には一七万二八三〇ポンドに達していました。しかし、ワーテルローの会戦以降は減少し続け、一八二二年には四万ポンドにまで削減していました。それからも機密費は着実に減少し、一八八〇年代にはわずか二万千ポンドでした。フェニアン派の爆弾騒動の際には機密費は増加しましたが、ボーア戦争前にはやはり一万七千ポンドの水準に留まっていました。


 一九世紀前半は、当時の外相パーマストンの下で外務省改革が進んだ時代でした。パーマストンは外交官を単なる書記からより専門性の高い役職に引き上げたのです。一八六八年までには、外務省は四〇年前の八倍もの外交通信を送受信していました。


 その一方で、外務省は秘密情報活動の専門性を高めようとはしなかったのです。同時に、少なくともヨーロッパでは、昔ながらの情報収集並びに工作の素人じみたシステムは崩壊しつつありました。一九世紀末の列強国に駐在する外交官は、一八世紀にはしばしば期待されていたスパイ活動や賄賂には個人的には関わらないようになっていました。こうした活動の危険は、そこから得られる利益よりも大きいと信じられていたからです。


 一八四四年には暗号解読部門も閉鎖され、深刻な影響をもたらしました。電信によって外交通信の伝達と傍受がより容易になりつつあった時代に、英外務省は自らその武器を放棄したのです。


 一八七〇年代に入っても、外務省におけるインテリジェンス体制は未整備のままでした。確かに外務省内部に地域課は存在し、またその課長は八年から一二年という長期にわたってその役職を務めていました。しかし、外務省の首脳陣の中には、「アマチュアリズム」の伝統が深く根付いていました。これは、「専門家の意見を無視する」ということと同義でした。その結果、こうした地域課も、政治情報を除けば、情報分析活動を行っていませんでした。次に述べる、陸軍情報部の方がその点では先に進んでいたのです。


 また、こうした「アマチュアリズム」の影響もあり、当時の英国の政治家達も通信情報にはお粗末なほどに無知でした。グラッドストンですら、彼が海外旅行の間に出した手紙をフランス当局が開封し読解するという恥ずべき活動を行っているということが信じられなかったのです。実際にフランスがそうした活動に従事しているのだと説得されても、納得できなかったグラッドストンは、フランス当局を出し抜こうと考えました。カンヌから、外務次官のグランビルに手紙を出す際に、友人に郵便の宛先を代筆してもらったのです。フランス当局が自分の筆跡だと判断できなければ、手紙を開封しないと考えたのでした。しかし、手紙の宛先が外務省になっていただけで、フランスの「キャビネ・ノワール」の関心を引くには充分でした。あきれ果てたグランビルはグラッドストンにこう告げたのです。「君は良き聖職者であり、一級の法律家であり、最も優秀な将軍でもある。しかし、君は郵便局を扱うには月並みなフーシェ(フランス革命時のスパイマスター)に過ぎない。」またランズダウンが一九〇〇年に外相に就任した際も、グラッドストンと同じぐらいに不注意でした。一九〇二年にパリの英国大使に次のように手紙を書き送っています。「貴兄の最近の郵送による手紙は恐らくキャビネ・ノワールによって開封されているということを貴兄に伝えておくことは適切なことだと考える。」英国外務省は知りませんでしたが、フランス、そしてロシアは、そのころまでには英国の外交暗号を解読することができたのです。



陸海軍の情報活動

陸軍地理統計課の成立


 ナポレオン戦争の間、基本的な戦略情報を担当していたのは、陸軍近衛騎兵隊(陸軍総司令部)の補給局でした。軍隊の輸送と補給という従来の任務を継続させながら、補給部は、主に公開情報から地図や相手の武器、相手の位置といった情報を収集する軍事知識収集隊(Depot of Military Knowledge)を創設しました。


 しかし、ワーテルローの戦いから四〇年近くの間平和が続いたので、軍事知識収集隊も活気を失ってしまいました。地誌部と名前が変更され、補給部の日陰の取り巻きとなっていました。もはや軍事情報を集めることもほとんどなく、新しい地図の作成もまれになっていました。軍事マニュアルでも、インテリジェンスは軽視され、騎兵による偵察活動といった前線の戦術情報活動にだけ光が当てられていました。長い平和の間に、英陸軍は戦術に関わっても、もはや戦略には関わらなくなっていたのです。


 むしろ、そうした情報の必要性を感じるようになっていたのは、英国の植民地軍でした。当時南アフリカ、インド、ビルマ、マラヤ、中国、それにニュージーランドにまで、植民地軍は分布しており、彼等は本国の陸軍省から適切な情報が提供されないとしばしば主張していたのです。その一方で、陸軍総本部も植民地軍や派遣軍といった帝国の辺境で闘う軍隊に対する権限を持っていませんでした。一八四二年から一八五二年まで陸軍最高司令官を務めたウエリントン公ですら、植民地紛争の進展に関する情報は新聞に頼っていたのです。


 インテリジェンスという意味では低迷していた英陸軍の内部で、陸軍の情報機関を実質上創設したのはトーマス・ベスト・ジャービスという士官でした。彼は、ボンベイ工兵部隊出身の退役士官でした。彼は兵士としては影の薄い存在でしたが、地図制作者、地誌学者としては高い名声を誇っていたので、一九三七年にはインド軍主任監督官のエベレスト大佐の次期監督官として彼の下に配属されました。しかし、一九四一年にはエベレスト大佐が退役するのを待ちきれず、インドでの職を辞し、英国本国に帰還しました。


 ジャービスは、帰国後様々な学問に没頭し、彼は王立天文学会、王立地理学会、王立地質学会、王立アジア学会、それに王立協会のフェローとなりました。彼はまた英国並びに外国聖書協会、決闘禁止連盟、プロテスタント連合といった英国とインド双方に関連する組織でも積極的に活動しました。彼は、英国政府と東インド会社に、原住民の教育、移民船における「道徳の欠如」、ヒトコブラクダの使用、養蚕の導入、スレートによる屋根、中国人労働力といった実に多岐にわたる分野で政策提言を行いました。しかし、彼が熱心に提言したのは、地図作成分野に関してでした。当初はなかなか相手にされなかったのですが、クリミア戦争の開始が彼の先見の正しさを証明することになりました。


 一八五四年に英仏とロシアの間でクリミア戦争が勃発するのですが、英国陸軍総司令官の陸軍元帥ラグランは、敵に関する秘密情報はおろか、多くの基本的な知識も持たずにクリミアに出発しました。その上、クリミアに到着後も、英国側の指揮官達には基本的な戦術情報がしばしば届きませんでした。バラクラバでの重装旅団を担当した後、不運な軽装旅団の司令官となったルカンは、短い緊急のメッセージを受け取りました。そこには、「攻撃せよ。そして敵が銃を持ち出すのを防げ」と記されていました。しかし、ルカンは斥候兵を配置しておらず、丘の向こう側で何が起きているのかが全く分かりませんでした。そこで、当惑して次のような返事を送ったのです。「攻撃する、ですって? 何を攻撃するのですか? どのような銃ですか?(Attack, Sir? Attack what? What guns, Sir?)


 この例からも分かるように、クリミア戦争の出だしは失敗続きでした。その結果、ジャービスがチャンスを手に入れたのです。戦争が勃発すると、彼は苦労してベルギーでロシア参謀本部が作成したクリミアの地図とオーストリアが作成したトルコの地図二一枚を入手します。英国に戻るとすぐに、友人を介して陸軍大臣のニューカッスル公に面会し、陸軍側が必要だと考える地図はすべて買い取るという約束を取り付けることに成功しました。


 そこで、ジャービスは早速一〇枚のクリミアの地図を作成しました。海を青色に、陸地を茶色に、そして残りの地域を黒色に印刷した最初の地図でした。同時に、当時の指導者達に、地図作成の部門創設の重要性を強く求めたのです。その結果、一八五五年二月に地理統計課(Topolographical and Statistical Department)が創設されるに至りました。


 この地理統計課は英国陸軍最初の情報機関でした。しかし、その発展は遅々としたものでした。一八六〇年代の中頃までには、陸軍の制服の規制に関するイラストを作成する程度のつまらない仕事しか与えられていませんでした。一八七〇年にチャールズ・ウィルソン大尉が地理統計課の課長に就任すると、外国の地図コレクションは「実に貧弱」で、外国の軍隊に関する情報も恥ずかしくなるぐらい欠如しており、「海外から情報を入手する手段」すら存在していないと報告したほどでした。


普仏戦争のショックと情報課の設立


 とはいえ、一八七〇年の普仏戦争の開始は、英国の軍事情報の貧弱さを際だたせました。ウィルソンはジャービスよりは幅広い陸軍情報に関する見識を持っていましたが、性格的には無口で、学者肌の人物でした。そのために、自分の部署を積極的に宣伝するということもなかったのですが、当時の陸軍大臣エドワード・カードウェルから支持されていました。このカードウェルとウィルソンが共に協力することで、陸軍情報活動は少しずつ成長し始めるのです。


 ウィルソンが地理統計課の課長に就任した直後に、カードウェルは彼に地理統計課の弱点とその対策に関して報告を求めました。これに答える形で作成されたウィルソン報告書の骨子は、手に負えない官僚制の容赦のない批判でした。ウィルソンの報告書は、陸軍の内部でも検討されるのですが、その結果は、ウィルソンの報告書を実質的に全面的に支持するものでした。


 その結果、軍事情報活動はもはや地図作成の片手間とは見なされないようになりました。地理統計課は地理課と統計課に分割され、地理課は相変わらず外国の軍事地図や軍事計画を担当していましたが、地理測量に関しては英陸軍地理測量課に移管されました。統計課は外国の軍隊に関する情報の収集と整理を担当することになりました。そして三つの地理領域に応じて三つの課に分割されました。


 統計課の士官は、少なくとも二つの外国語を知っていることが求められ、優れた図書室が設けられました。とはいえ、統計課が扱っていた軍事情報は、秘密情報であることはほとんどありませんでした。彼等の主要な情報源は、海外での出版物と大使館付武官からの報告書だったからです。


 一八七一年六月には、陸軍事務次官のエドワード・ルガードが、地理統計課の改組に着手しました。その役割は、「外国軍の強さや組織などに関するあらゆる可能な情報を収集・分析する」という近代的な軍情報機関の役割に相当するものでした。


 一八七二年に、カードウェルの求めによりウィルソンは再び地理統計課の改善に関して報告書を提出しました。ウィルソンは事業の拡大をもとめ、地理統計課を現在よりも高官が担当するべきだと主張しました。陸軍内での権威が確保されなければ、活動を円滑に行えなかったのです。


 その結果、一八七三年に地理統計課は情報課として改組され、情報課長にはパトリック・マクドゥーガルが就任し、次長にはウィルソンが指名されたのです。マクドゥーガルは、アメリカ南北戦争の後に『近代砲兵術に影響された近代戦争』という本を著しており、また、普仏戦争のあとには、英国にもプロシア流の参謀本部を導入することを主張していました。高位の貴族であるだけでなく、近代戦にも通じていたマクドゥーガルは情報組織のトップとしてうってつけだったのです。


 この新設された情報課(Intelligence Branch:IB)は、正式には一八七三年に二七名の要員で発足しました。そのうち地理統計課の元部員は一五名でした。この情報課は、単に情報を収集することだけでなく、軍事計画立案といった参謀本部的な役割も期待されていました(英国参謀本部は一九〇四年に創設されます)


 マクドゥーガルとウィルソンは、情報課が防衛計画立案でも積極的な役割を果たすことを意図していました。とはいえ、彼らが頭に描いていたのはヨーロッパでの戦争でした。栄光ある孤立を享受していたビクトリア朝の軍人や政治家にとっての関心は、ヨーロッパと言うよりはむしろ世界中に広がる帝国にありました。特にインド北西部はロシアとの国境が近く、情報課にとっても注意すべき地域でした。その結果、一八七八年には現在のニューデリーの北部三〇〇キロに位置するシムラに、インド国境地帯の情報収集のため、インド情報係が創設されました。情報課はアフリカへの軍の緊急出動にも対応しました。エジプト派遣軍には「エジプト・ハンドブック」を四〇〇部準備しています。


 情報課は陸軍省の高官にはすぐに評価されるようになりましたが、陸軍総司令部、特にビクトリア女王の甥であったケンブリッジ公は情報課に対して懐疑的な姿勢を崩しませんでした。その一方で、情報課は外務省とインド省からは高く評価されていました。その中でも最も影響力を持った人物が、インド省大臣や外務大臣を歴任したソールズベリーでした。彼は一八七八年のベルリン会議から本国に戻ると、陸軍情報課への感謝の言葉を表明しているほどです。


情報課から情報部への発展


 とはいえ、陸軍情報課(IB)は、一八八〇年代にはまだその存在が受け入れられたわけではありませんでした。一八七八年に、マクドゥーガルに代わって陸軍少将アーチボルト・アリソンが情報課長に就任しますが、彼は前任者ほどのインテリジェンスへの熱意は持ち合わせていませんでした。彼は根っからの前線指揮官で、セポイの反乱では腕を失い、アシャンティ戦争においても議会から感謝状をもらっているほどでしたので、デスクワークは苦手でした。一八八二年に英国がエジプトに介入することになると、彼はその機会を利用して高地連隊の指揮官になり、テル・エル・ケビールの戦いで挙げた功績を基に中将に昇進しました。


 アリソンは消耗した情報課を放置したまま転出しました。その際に彼は情報課の士官を四名引き抜いていったのです。さらに、一八八五年にはスアキン探検にむけた情報係設置のため四名がエジプトに送られました。アリソンの情報課長の職は一八八六年まで補充されることがありませんでした。アリソンが不在の間、課長代理の職を務めていたのはアルマー・キャメロン大佐でした。彼もまたセポイの反乱当時、左腕を切り落とされた直後に三名のセポイを殺した勇敢さに対してビクトリア勲章を授与されていたほどの猛者でした。彼もまた戦場では勇敢な兵士でしたが、デスクワークは苦手でした。そしてグラッドストン内閣の外相グランビルにしても、前外相のソールズベリーほどのインテリジェンスへの情熱は持ち合わせていなかったのです。


 また陸軍情報課内部でも、対外情報の収集よりもむしろ、軍内部の通信体制の検討、春と秋の陸軍演習の準備、机上演習の規則の整備といった作業が割り当てられ、情報活動自体が停滞してしまいました。そのために、一八八五年までには情報課は「無害だが役に立たない陸軍省の付属物」となっていたのです。


 しかし、皮肉な事態が生まれます。ゴードン将軍がマフディー派の民族反乱を鎮圧するためにスーダンのハルトゥームにたどり着いたのですが、一〇カ月籠城した末に、マフディー教徒によって一八八五年に殺されてしまうのです。その結果、英軍はスーダンから撤退するのですが、撤退した軍人の中に元情報部員が多数含まれており、彼らは陸軍の古巣である情報部門に戻ったのです。この事件が情報課を再生させるのです。


 その中にアリソンの後任として情報課長に就任したヘンリー・ブラッケンベリー少将がいました。彼は普仏戦争当時のプロシア参謀本部の効率の良さを現場で目撃して以来、情報活動の有用性を固く信じていました。


 その結果、ブラッケンベリーは、情報課の拡充に着手します。一八八七年六月一日に、彼の影響力の増大により、初代の陸軍情報課課長(Director of Military Intelligence)に就任します。陸軍情報課長には参謀総長に直接報告書を送る権利がありました。その四カ月後、情報課の常任の士官の数を七名増加させることに成功します。一八八八年一月には、ブラッケンベリーは中将に昇進し、情報課は情報部に格上げされました。

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