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インテリジェンス入門 英仏日の情報活動、その創造の瞬間
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歴史
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4章 日本──愛国のインテリジェンス

『インテリジェンス入門 英仏日の情報活動、その創造の瞬間』
[著]柏原竜一 [発行]PHP研究所


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明治維新以降のインテリジェンス

明治維新後の日本インテリジェンスの特徴


 この時期の日本の情報活動の特徴は、第一に、情報の大部分は合法的手段と良心的な観察力によって獲得されたものであったという点です。欧米では日本人は自分が日本人であることを隠すことが困難であり、公然と情報を収集せざるを得なかったという理由もありました。


 第二の特徴は、情報活動への動機を愛国心に求めるという点にありました。同時期のアメリカやイギリスでは情報活動への参加は不名誉なことと見なされており、公認されるようなものではありませんでした。それに対して日本は、情報活動に対して愛国的な義務という地位をあたえていました。


 第三に、情報活動に従事した人間の高い倫理性、思想性を挙げることができます。玄洋社や黒龍会の民間の志士たち、それに軍を退役して支那の保全、ならびに日本と支那の友好的な発展に自らの人生を捧げた荒尾精や根津一といった人物の活動をみれば、明治期の日本人のインテリジェンスを考える際には、個人の生き様と情報活動のあり方は不可分であることがわかるでしょう。そのために、ここではインテリジェンスを背負った個人にも焦点をあてながら、明治という時代の日本のインテリジェンスを紹介することにします。



前 史

国家存続の瀬戸際


 一八六七年の大政奉還により、明治時代が始まりました。東洋の片隅でかろうじて植民地化を免れていた日本は、この時期を境に急速な近代化を図ろうと努力しますし、またそれ以外に道はありませんでした。


 明治新政権に課された任務は重大なものでした。一刻も早く陸海軍、行政、教育、産業を近代化せねばなりませんでした。また、不平等条約の改正も重い課題としてのしかかっていました。


 そもそも、一九世紀の東アジアの国際状況は、イギリスを筆頭とする西洋列強によって植民地分割がまさに行われている最中でした。そして東アジア国際秩序における一つの中核になっていた清帝国は大きく動揺していました。


 例えば、当時の清朝はアヘン戦争の結果である南京条約(一八四二)、およびそれ以後の諸条約により、従来恩恵として許可していた朝貢貿易を、逆に義務として課せられるようになりました。さらに一八五〇年に始まる太平天国の乱は、漢人地域を指す「中華十八省」のうち十七省を大混乱に陥れました。この内乱の過程で失われた犠牲者の数は、二〇〇〇万人から四〇〇〇万人と言われています。この反乱は地方に結成された義勇軍である郷勇と新たな漢人官僚の努力により次第に平定されますが、一八五六年に、偶発的にアロー号戦争が勃発します。英国は、南京条約では得られなかった様々な権益を一層拡大するために、フランス、ロシア、アメリカに共同出兵を持ちかけました。インドシナへの野心を持つフランスのナポレオン三世がこの誘いに乗りました。一八五七年末に広東を占領した英仏連合軍は一気に天津に迫り、清朝も和平交渉を余儀なくされました。その結果、英仏米露の間に天津条約が締結されたのですが、その後清朝内部では主戦論が台頭し、英仏両国は新たな対応を求められました。一八六〇年には天津条約履行を求めてさらに増強された英仏連合軍が北京に入り、略奪の限りを尽くしたのです。


 同じ頃の日本はといえば、アメリカとの間で一八五四年に日米和親条約が締結され、同様の和親条約がイギリス、オランダ、ロシアとの間で締結されます。次いでアメリカとの間で日米修好通商条約が一八五八年に締結されました。日本がまさに開国しつつあった時期に、中国は列強の食となっていたのです。ですから明治初期の近代化に向ける努力は、文字通り国家の存亡をかけたものでした。そしてその近代化に向けた努力が、そのまま対外情報収集活動であったともいえるでしょう。重要なことは、こうした危機意識は指導者層にだけでなく、一般の日本国民にも広く共有されていたということです。


西郷隆盛のインテリジェンス


 明治維新当時、朝鮮は未だにその眠りから覚めませんでした。日本から開国に向けて何人かの使者が送られたのですが、自らの小中華主義を理由になかなか外交交渉に乗ってこようとはしません。また、交渉に向かった使者たちからは、朝鮮を征服すべきだという征韓論が唱えられる始末でした。


 この問題が閣議にあがった時、西郷隆盛は病気療養中でしたが、国家の重大事だということで、病気をおして閣議に出席しました。その頃、岩倉具視、木戸孝允、大久保利通らは欧州に赴いている最中だったので、閣僚の中には「岩倉大使が帰国するまで討議を延期しよう」と主張するものもいたのですが、西郷は日頃の沈黙に似合わず、すぐに発言して「堂々たる一個の国家が、国家の大事に関し是非を決定できないとすれば、むしろ院門を閉じて百般の政務を止めてしまう方がよいだろう」と言って反論しました。この反論に延期論を唱えた閣僚は返す言葉もありませんでした。


 この日、西郷は遅れて閣議に参加したのですが、既に一個大隊を倭館(江戸時代に朝鮮外交を担当していた対馬宗氏の拠点)に送ることが決定しかけていました。西郷はそれにも反対して、「そんなことには賛成できない。たとえ一大隊でも、一国の政府が兵を動かすには、何か確たる理由がなくてはならない。朝鮮の無礼は今に始まったことではないが、明治維新以来、我が国で検討されていたのは、朝鮮政府の頑迷を諭して、友好関係を確立するためではないか。今になって、敵意を表し、こちらから兵を派遣するのであれば、我が国が自ら世界から信用を失うことにもなりましょう。」と述べて、拙速な派兵に反対しました。そして自らが使者として京城に乗り込み、正式の談判を行い、その上で派兵の是非を決定するべきだと主張したのです。


 西郷は、このような事態がくることを事前に予想し、外交交渉を担当する使者に陸軍士官を二名同行させ、朝鮮内地を秘密裏に視察させていました。彼らは朝鮮人になりすまし、朝鮮国内の事情を偵察した後に無事帰国しました。この偵察によって、朝鮮半島が軍事的に脆弱であることを知り得たのです。


 さらに西郷は、外務副島種臣や参議板垣退助と相談した上で、一八七二年(明治五年)の夏に、満州方面の偵察に鹿児島出身の外務省の人間を()てています。彼らは商人を装い、満州方面の地理、政治、兵備、財政、風俗などを視察しました。彼らは、上海から芝罘(チーフー)を経て営口に赴き、営口を根城としてさんざん苦労しながら、遠く奉天方面まで邦人未踏の地をあまねく探査しました。


 このエピソードからも分かるように、ただ征韓論といっても、目標とされていたのは朝鮮半島に留まらず、より広大な視点から構想されていたことが分かります。


 さらに、明治六年には海軍少佐を秘書と共に南清並びに台湾に派遣し、各地の事情を視察させ、また厦門(アモイ)に領事を駐在させています。この領事は福島九成という陸軍少佐で、彼は領事となる前に密かに清国南部に赴き地形・民情などを偵察し、次いで台湾などにも足を延ばしていました。しかし、この地方でも清国は日本人が支那の国内に出入りすることは警戒していましたので、探検はなかなかうまく進みませんでした。そうして困っているところに、日本人の書道家・安田老山が清国南部を遊歴中だったので、その弟子となりました。そして、書家を装いながら、南清から台湾に入り、地理を実測し、山川を踏査し、人情風俗をつぶさに観察してその目的を達したのです。この探検旅行中に福島が作成した地図は、後に西郷従道(つぐみち)が兵を率いて台湾を征伐した時に非常に役立ったのです。


 こうしたエピソードから分かるのは、征韓論の主張に関して西郷隆盛が十分に準備を重ねていたということでしょう。名分さえ立てば派兵するのはもちろんのこと、東洋全体を視野に入れていたことをこの逸話は物語っています。


 結果としては、帰国した岩倉らの反対により、西郷が派遣されることはなくなり、西郷本人も下野することになりますが、明治維新直後から、朝鮮半島や清国への情報収集活動が始まっていたということは、注目すべき点だと思います。


 皮肉なことに、朝鮮との国交樹立という問題は、一八七五年(明治八年)に、江華島事件で解決されました。江華島事件とは、朝鮮に国交樹立を図るために、軍艦二隻を派遣し、軍事的挑発を行った事件です。その結果、一八七六年(明治九年)に締結された日朝修好条規は、朝鮮が独立国であることを認めていました。この問題は、西郷のような和平的なアプローチではなく、大久保の武断的なアプローチで解決された事になります。大久保と西郷との対立は、征韓論よりも、むしろもっと深いところでの方針の違いに求められるのです。


陸海軍の整備と参謀本部の創設


 日本のような島国にとって、強力な海軍こそが、自国の安全保障を確保する唯一の手段であると考えられていました。そのために、海軍は当時最強であったイギリス海軍をモデルに整備が進められます。それに対して陸軍は当初はフランス陸軍がモデルとされるのですが、後にプロシア陸軍方式に変更されます。これはプロイセンがフランスに対して劇的な勝利を収めた普仏戦争の結果を明治政府が重視したからでした。大日本帝国憲法もプロイセン憲法をモデルにしています。


 この時期の日本のインテリジェンスを特徴づける二つの事件は、一八七八年の陸軍参謀本部の設置と、一八八一年の憲兵隊の設置でした。この参謀本部の設置により、陸軍による情報活動も本格化します。また、憲兵隊の役割は、当初は軍隊内部の犯罪の調査、軍内部の思想取り締まり、軍事機密の保護、軍関係の法令の執行、それに軍人・軍属の犯罪の調査、令状の執行といったものでしたが、一八九〇年代には規模も増強され、公安活動にも大きな役割を占めることになりました。


 この時期の軍事情報活動を日本軍に伝えたのは、ドイツの軍事使節を率いて東京にやってきたメッケル少佐でした。彼は普仏戦争を指導したヘルムート・フォン・モルトケの弟子で、軍事情報収集の方法と組織を伝えました。メッケル少佐の貢献がいかに大きなものであったかは、日露戦争での鴨緑江の戦いの後で、児玉源太郎大将がメッケルに打電し、感謝の意を伝えたという事実からも窺えるでしょう。


 なかでも明治期日本の情報活動の要となったのが、参謀本部でした。次に、この参謀本部制度の歴史的経緯を紹介しましょう。


 一八七四年の前参議・江藤新平を首領とする不平士族の反乱であった佐賀の乱をきっかけに、参謀局が設けられ、初代の参謀局長に山県有朋が就任しています。しかし、当時、参謀局という名前とは裏腹に、参謀本部としての実質はまだありませんでした。


 では、日本に近代的な参謀本部制度を導入したのは誰だったのでしょうか。それは日露戦争の際に首相を務めた桂太郎でした。桂は、一八七〇年から三年間ドイツに留学しており、参謀局設置とともに、(ちよう)(ほう)(てい)()の職に就き、七五年から三年間ドイツ公使館付き武官を務めていました。そして、西南戦争が終わった一八七八年(明治一一年)七月に桂は帰国し、参謀局諜報堤理の職に復帰したのです。ですから、桂太郎の軍人としてのキャリアは情報将校だったのです。


 ドイツから帰国した桂は、陸軍省からの参謀本部の分離独立を主張する建議を行いました。その結果、一八七八年(明治一一年)一二月には参謀本部条例が制定されました。参謀本部設立当初の機構は、管東、管西の二局と、総務課の他、地図課、編纂課、翻訳課、測量課、文庫課から構成されていました。管東局は日本の東半分ならびに樺太、満州、カムチャツカ、シベリアを担当し、管西局は日本の西半分ならびに朝鮮から清国沿海までを担当することになっていました。


 その後、参謀本部制度は何度か改変されています。一八八五年の改正では、管東、管西の二局は廃止され、主に作戦を担当する第一局、対外情報などを担当する第二局が設置されました。これは、外征戦争に備えたものでした。一八八六年には、陸海軍を統一して管理する参謀本部長を参軍とし、その下に、陸軍参謀本部・海軍参謀本部を置く制度となりました。しかし、一八八七年には、さらに参謀本部条例が改正され、陸軍の軍令機関として参謀本部が残り、海軍の軍令機関は海軍大臣に属する海軍参謀本部に機構を縮小しました。当時の海軍の戦力は艦隊だけであり、艦隊の統一的運用は艦隊司令官とそのスタッフだけで充分に間に合ったからです。


 日清戦争の準備が進むにつれて、戦争時の陸軍と海軍の統一的な運用をどうするかが問題になりました。日本の軍隊が中国大陸で活動するためには、まず海を渡らなければならず、海軍を抜きにしてはあり得ませんでした。そこで、一八九三年には、戦時大本営条例が制定されました。しかし、その制定を巡っては陸軍と海軍の間で激しい議論の応酬がありました。陸軍は参謀総長が戦時の陸海軍の統一的運用を行う幕僚長とすることを主張しました。これは、陸軍の参謀総長が海軍の作戦をも取り仕切ることを意味していました。当然、海軍はこの陸軍案に反対しました。海軍は海軍参謀本部条例の制定を求めましたが、参謀本部は一つでなければならないと陸軍が反対したのです。


 その結果、実際に制定された大本営条例では「帝国陸海軍の大作戦を計画するのは参謀総長の任とす」と規定され、形の上では陸軍の主張が通りました。しかし、海軍軍令部条例では、事実上、海軍の作戦では海軍軍令部長の専管事項とすることが定められていました。結局の所、陸軍が名を取り、海軍が実を取る形で妥協が成立し、日清戦争はこの体制で戦われることになるのです。


 参謀本部にとっての重要な情報源である大使館付き武官は日清戦争の前の段階で、イギリス、フランス、ドイツ、ロシア、清国、韓国の六カ国でした。日露戦争の前の段階では、オーストリアとイタリアが増え合計八カ国となっていました。


 この参謀本部であらゆるインテリジェンスを取りまとめる中核の役割を担ったのは、参謀総長もしくは宮様が参謀総長を務める場合には、参謀次長でした。そして、情報を担当する参謀第二部が定着すると、参謀第二部長がもっぱら担当することになります。ですから、明治期の陸軍インテリジェンスは、この参謀職の事実上のトップによって、時代区分することができます。すなわち、川上操六の時代、田村怡与造の時代、そして、参謀次長児玉源太郎と参謀第二部長の福島安正の時代です。



川上操六の時代

川上操六


 明治初期の、特に日清戦争をめぐるインテリジェンスを語るに当たって、欠かすことができないのが川上操六の存在です。彼は、鹿児島県の藩士の家に生まれました。戊辰戦争に当たっては摩藩の一番小隊に属し、奥羽及び函館と転戦しました。一八七一年(明治四年)に召集され、上京し陸軍中尉に任じられました。


 一八七三年(明治六年)西郷隆盛が征韓論で敗れ、鹿児島に引き上げたとき、摩出身の軍人の多くは、西郷隆盛の後を追って鹿児島に帰っていきました。当時川上操六は、近衛隊長を務め西郷隆盛の秘蔵っ子でした。ですから、誰もが真っ先にやめて鹿児島に帰ると考えていたのですが、思いとどまっています。おそらくは、このまま帰ることは筋が通らないと考えたのでしょう。その後、川上は、翌年には少佐に昇進し、一八七六年(明治九年)に、参謀局に出仕になるといった具合に順調に出世を続けていました。


 そこに一八七七年(明治一〇年)の西南の役が起きるのです。この昔の恩人を前にした戦いで、川上は、熊本第一三連隊隊長心得となって熊本城に籠城しました。籠城が解かれると、各地で転戦し、田原坂でも勇名を馳せました。しかし、この西南の役においては、実の弟と戦場でまみえることになりました。弟の写真を自分の衣に潜ませていた川上にとってこの戦いはさぞかし苦いものであったに違いありません。


 その後、一八七八年(明治一一年)に中佐に昇進。その後、歩兵第八連隊長、仙台参謀長を経て、一八八二年(明治一五年)二月には、大佐に進み、近衛歩兵第一連隊長をつとめます。一八八四年(明治一七年)には、大山巌陸軍に付き添って欧州に出張しました。当時既に、将来の日本陸軍を背負う人物として桂太郎と双璧を成すものと考えられていましたが、欧州巡歴の途上で、桂とは深く相許すようになり、桂は軍政に、川上は軍令作戦に当たると相誓ったと伝えられています。


 翌年一月に帰国すると、直ちに少将に昇進し、参謀本部次長となりました。日本の参謀本部が作戦計画を立案する部局になり得たのは川上の大きな貢献でした。それ以降川上は、参謀本部で東亜の経綸を画策すると同時にそれに伴う用兵作戦の計画に心血を注ぎ、帝国陸軍を築き上げたのです。一八八六年(明治一九年)には、再び欧州への派遣を命じられ、ドイツでさらに一年半にわたって軍令作戦に関する研鑽を積みました。そして一八八八年(明治二一年)には、再び参謀本部次長に復帰しました。


 一八九〇年(明治二三年)に中将に昇進し、一八九三年(明治二六年)には清国と朝鮮の視察旅行に向かっています。参謀次長の支那視察はこれが初めてのことでした。川上のこの視察は、後の日清戦争に深く関連したものでした。すでに一〇年近く前から日清戦争が近いことを予想していた川上は、現地で最後の点検を行おうと考えたのです。四月に東京を出発した川上とその部下の四名の幕僚、田村怡与造中佐(後の参謀次長)、情報参謀の柴五郎大尉(後の大将)、それに副官の伊地知幸介中佐と会計主務の坂田厳三等の一行は、京城、天津、北京、上海、南京、漢口、上海を経て七月に帰国しました。この百日に及ぶ現地偵察の結果、川上次長と田村参謀との意見は完全に一致し、「この巨大な清国軍を相手にして戦うためには、先制奇襲さえすれば勝利疑いなし」との自信を得て帰ったと伝えられています。実際、当時の上海領事であった林権助には、清国北部を視察した後、「おい林、安心しても良いぞ。支那と何か事が起こったら、やっつけるおらのめどがついた」と語ったとも伝えられます。


 一八九三年(明治二六年)から、一八九四年(明治二七年)にかけて、東学党の乱が勃発し、朝鮮から日本に亡命していた金玉均が上海で暗殺されると、在野の志士たちから清国に対して開戦すべきだという主張がわき上がりました。当時の日本政府は優柔不断な姿勢を取っていましたが、川上は、参謀本部を訪れた的野半介という志士に「君たちが火をつけてくれれば、火消し役は我々が務める」と答え、暗に開戦の促進を求めました。当時伊藤博文も「天下のほとんどのことは自分の意のままになるのに、川上だけは自分の思うとおりにならない」と嘆息を漏らしたそうです。こうした伊藤の発言からも、川上が独自の信念から対支必勝論に向かっていた意気込みが窺えます。


 いよいよ日清戦争が始まると、川上は大本営陸軍参謀兼兵站総監に就任し、明治天皇にお供して広島に赴き、作戦全般の指揮を執りました。この際の配振りも辣腕の極みでした。その代表例は、山県有朋の作戦中の解任でした。山県は、戦略の変更により、積極的攻勢を停止するように大本営から求められていたにもかかわらず、黄海の海戦での日本海軍の活躍に刺激され、逆に増援を求める始末でした。それに対して川上次長は山県司令官の即時解任を提案しました。しかし、陸軍の実力者で天皇の信任も厚い山県をすぐに解任するというわけにはいかず、伊藤博文が天皇に奏上し、山県に軍状奏上のために大本営に帰還するように伝えることになったのです。


 山県は帰国すると伊藤総理に喰ってかかりました。心の中では伊藤総理が山県に功績をたてるのを妨害したと思いこんでいたようです。そして、川上次長に、伊藤総理に追従して、この自分を解任させたと叱りつけたのでした。


 ところが、川上次長は平然として「伊藤総理から求められて新作戦の構想をやったのではなく、私が次長として最も正しい作戦と確信して、これを総長に申し上げたものでありまして、私の作戦にどこに間違いがありますか」と答えました。そして、作戦上の事はたとえ陸軍の実力者であっても一歩も退かないという姿勢を見せたのです。川上次長は、この時また、陸軍も海軍もその優劣や区別はなく、大本営の務めはこの両者を統合して完全に指揮することにあり、さらには戦況の変化に応じて有利な態勢を活用することこそ戦術家の当然の役目であると答えました。


 これには、山県大将といえども反論はできませんでした。川上次長は解任の責任を伊藤総理に転嫁はしませんでした。そのために、伊藤からも山県からも深く信頼されることになりました。


 川上操六の人柄は、頭脳明晰で、見識も深かったことはもちろんですが、また他面では、非常に情熱に富み、愛国心にあふれた典型的な軍人でした。思慮深い側面と、果断な決断力をそなえた川上は、情にも厚い人物でした。特に、特定の肩書きを持たない浪人や志士に対しても胸襟を開いて、国事を議論し、彼らが国家の役に立ちそうであれば進んで庇護しました。これから述べる荒尾精や根津一の活動も、川上操六の協力がなければあり得ませんでした。明治前半のインテリジェンスを担っていたのはまさにこの川上操六だったのです。


福島安正の単騎シベリア横断


 次に同じ頃に活躍を始めた情報将校の福島安正を取り上げることにしましょう。福島安正は、一八五八年に、長野県松本の武家に生まれました。最初は、少年鼓手になりましたが、後に東京に学び、司法省に一年間勤務しました。一八七四年に陸軍省に入省し、それ以降福島は軍人としてのキャリアを歩むことになります。頭脳明晰にして機知に富み、社交性に恵まれていたこともあり、そして何よりも英語に堪能であったために、一八七六年には米国の博覧会視察のために随行、ニューヨーク、ワシントンDCを視察します。一八七七年には西南の役征伐総督府付となって従軍し、翌年陸軍中尉に任官します。その後、参謀局参謀本部伝令使、参謀本部管西局員、教導団小隊長を経て、一八八二年朝鮮に派遣され、帰国後京城進入の方策を提出しています。同年九月に清国に出張し、上海から山東各地を視察し、各地の駐在将校の管理に当たり、一八八三年には大尉に昇進し、北京公使館付き武官となります。一八八五年に天津条約の締結に当たっては、伊藤博文全権大使一行の一員となり、帰国後野津少将の名前で、騎兵ならびに騎砲兵を設置すること、中国語に精通する人材育成が必要であること、将官を実際に中国に派遣して現地を目撃させる必要があることなどを骨子とする意見書を提出しています。


 一八八六年三月から翌年九月に至るまで、インドに派遣されます。福島はこの半年にわたるインド視察でほぼインド全土を走破したようですが、これは情報将校としての最初の試練でした。


 福島安正について特筆すべきなのは、その勇気と心意気、そして並はずれた陽気さの点で際だっていたことです。一八八七年には少佐に昇進し、ベルリン駐在武官に任命されました。生まれつき愛想が良く、社交的で、魅力があり、その一方で見栄っ張りな側面もあったので、どんな困難な任務でも引き受けました。この彼の名声を高めたのが、単騎シベリア横断という偉業でした。


 ある日、福島安正がドイツ軍将校と語り合っていたとき、たまたま、馬に乗って一定の速度で毎日走り続けたら、どこまで行けるだろうかということが話題になりました。騎手としての第一級の腕を持っていた福島は、自分の持ち馬ならベルリンからウラジオストックまで行ってみせると豪語しました。


 ドイツ軍将校達はどっと笑いました。

「冗談はよせよ、少佐。無茶な話だ」一人が言いました。

「地図を見たことはないのかい? 九〇〇〇キロはあるぞ」と、別の一人も付け加えました。

「もちろんわかっているさ」。福島は答えました。「私はそれ以上に愛馬の力を知っているんだ。それに、私ならやれる。何しろ私は元気だし、山道を馬で走るのは慣れているからね」。


 さらに杯を重ねた後で、ドイツ軍将校達は、できるものならやって見せろ、と福島をけしかけました。

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