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理不尽に勝つ
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生き方・教養
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はじめに──世の中は理不尽であふれているけれど……

『理不尽に勝つ』
[著]平尾誠二 [発行]PHP研究所


読了目安時間:13分
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「一所懸命やっているのに、どうして報われないのだろう」

「よかれと思ってしたことなのに、なぜわかってくれないのだろう」


 本書を手に取られた方は、今、そんな悩みを抱えているかもしれない。

「自分では最善と思えることをしているつもりなのに、理屈が通らない。口では賛成してくれるのに、協力はしてくれない。思い通りに物事が進んでいかない」


 そんな無力感に(さいな)まれている人もいるかもしれない。


 あるいは、仕事やプライベートで無茶な要求をされたり、いわれのない責任を押しつけられたりして、胃が痛むほどの思いをしている人もいるかもしれない。


 そして、こう感じているかもしれない。

「なんか理不尽だよなあ……」


 とくに若い人ほど、そういう気持ちを強く抱いていることだろう。


 彼らは高度成長の時代を知らないし、世の中全体が浮かれていたバブルの恩恵にもあずかっていない。生まれた時から経済は停滞していた。上の世代に比べれば、楽しい経験はほとんどしていないに等しい。


 それなのに、満足な就職口がない。非正規雇用に甘んじなければいけない。将来の展望が開けないばかりか、少子高齢化のせいで負担ばかりが重くなる……。


 若い人にとって、今は生きにくい社会、希望を持ちにくい時代であるといわざるをえない。理不尽に感じるのも当然だと思う。


 とはいえ、私と同年代の、すなわち三十代後半から四十代の人たちもまた、同じようなストレスを強く感じているのではないだろうか。


 私たちの世代は、会社員でいえば多くがいわゆる中間管理職──かくいう私の立場もそうかもしれない。この世代は責任が増した一方で、上司と部下との板挟みになり、何かと気苦労が多い。


 上司からは現場を無視しているとしか思えないような無理な要求をされたり、意に沿わない仕事をさせられたりすることが多々あるにもかかわらず、こちらのリクエストはさまざまな理由をつけて拒否される。そのくせ、リスクと責任は押しつけられる。部下は指示をしなければ動かず、動いてもなかなか自分の望む通りには動いてくれない。


 とくに最近の若者は草食系というのか、覇気が感じられず、頼りないばかりか、何を考えているのか、理解に苦しむことが多い。妙に自分に自信を持っているかと思えば、ちょっと叱ったくらいですぐに意気消沈してしまう。


 われわれが若かったころは、たとえ厳しく(しつ)(せき)されたとしても、それを「なにくそ!」というエネルギーに転化したものだけれど、今はそういう反発係数が弱まっていて、下手に叱ろうものなら、取り返しのつかない結果を招くおそれがある。そのため、上司としてどう接すればいいのか、悩んでいる人も少なくないのではないだろうか。


 会社の外でも悩みは尽きない。近年、少子高齢化による若者の不遇ぶりとそれをいかに改善すべきかが社会問題になっているが、じつは三十代後半から四十代の人たちのほうが先に厳しい現実に直面する。


 生涯を通じて受けられる社会保障サービスは、一九五五年生まれを境にマイナスに転じると試算されている。つまり、支払額のほうが受給額より多くなるうえ、親の介護を抱えている人も多い。これからは自分自身が病気になる確率もどんどん高まっていくだろう。


 負担は増える一方なのに、長引くデフレの影響で給料はなかなか増えないどころか、リストラの不安にさえ、さらされている。こうした現実と向かい合えば、この世の中は理不尽だと感じざるをえないだろう。


 けれども、あらかじめいっておけば、理不尽な体験をすることは決して無駄にはならない。それどころか、確実に人間を鍛えてくれる。強くしてくれる。理不尽を経験すればするほど、人は強くなる。


 だから、もし自分がそういう状況に置かれているのならへこたれてはいけないし、若い人たちにも経験させたほうがいい。その壁を乗り越えた時、その人は必ず成長しているからだ。


世の中はフェアであるはずがない



 そもそもこの世の中は決して公平でも公正でもない。フェアではないのだ。必ずしも理屈が通らないどころか、通らないのがむしろふつうだ。世の中というものは、もともと理不尽なものなのだ。なぜなら、世の中をつくっているのが、もともと矛盾に満ちた人間であるからだ。


 (いつ)(とき)、大相撲の八百長が大きな社会問題化したことがあった。力士が八百長をしたからといって、一般の国民が損害を被ることはまずないだろうし、はっきりいえば、八百長をしようがしまいが、社会情勢にも大きな変化はない。


 それなのに、どうして人々があれほど大騒ぎし、怒りを表明したのだろうか。


 想像するに、フェアであってほしいと信じていたスポーツ──相撲がスポーツであるか否かはひとまずおくとして──までもが、フェアでなかったことが白日のもとにさらされたからという理由が大きかったのではないだろうか。


 スポーツは真剣勝負であり、実力だけがモノを言う世界。力さえあれば、技術が高ければ、身分や出自や学歴に関係なく、誰もがはい上がることができる。相撲はまさしくその典型だった。ある程度の体格とやる気さえあれば、誰にでも門戸が開かれていて、外国人であっても頂点に立てる可能性があった。


 ところが、実際は勝ち星がお金でやり取りされることがあった。必ずしもフェアではなかった。それが明らかになったことに、人々は大きな怒りを覚えたのだと思う。


 だとすれば、その感情は、われわれが現実に暮らしている社会がフェアではないことの裏返しとはいえないだろうか。

「現実の世の中は決してフェアでないから、せめてスポーツの世界くらいはフェアであってほしい」


 そういう願望の表れではないだろうか。その期待が裏切られたから、あれほどの騒ぎとなったのだ。でなければ、ふつうの国民がどうしてあんなにヒステリックに反応しなければならなかったのか。その理由が理解できない。


 自分のことを「庶民」と呼ぶ人たちが、公務員に対してあれほど厳しく当たるのも、自分たちの税金で生活している公務員の待遇が自分たちより恵まれている、守られている、つまりアンフェアな状態にあると考えているからだろう。


 つまり、みんな「社会はフェアではない」と感づいているのだ。「世の中は公平である」なんて、幻想に過ぎないことを知っているのである。


立場によってフェアの定義は変わる



 そもそも何をもってフェアかアンフェアかを決めるのだろうか。


 スポーツはフェアであるとされている。ならば、私がプレーしていたラグビーを思い浮かべてほしい。ラグビーの世界一を決めるワールドカップでは、日本代表は体格やパワーで諸外国に明らかに劣っているのに、同じルールのもとで戦わなければいけない。これは、戦うための環境が同じという点ではたしかにフェアだが、日本からすればアンフェアといわざるをえない。パワーはまだしも、体格は努力してどうなるものではないのだから、日本から見ればすごく理不尽だ。


 日本のフォワード八人を合わせた総体重は八五〇キロ程度だけれど、列強の諸外国は九〇〇キロある。バックスも合わせれば、一五人で一〇〇キロの差だ。日本はひとりぶん軽いことになる。


 ならば、相手の人数を減らす、もしくはリザーブも含めたメンバー二二人のところ、日本は二三人にするとか、日本がトライを上げた時は得点を増やすとかしなければ、同じ条件にはならない。


 一方、柔道やボクシングは体格や腕力をできるかぎりイコール・コンディションにするために階級制を採用している。でも、すべての選手のなかで誰がいちばん強いのかが決まることをフェアとするなら、階級制はアンフェアになってしまう。


 つまり、物事や状況をどんな立場から見るか、どのような考え方に基づいて判断するかによって、フェアかアンフェアかは変わってくるのだ。もっといえば、一人ひとりの基準によって、フェアの定義は変わってくる。ある人間がフェアだと感じることが、別の人間には全然フェアではないということは、めずらしくないどころか、ふつうのことだ。


人間は理不尽を背負って生まれてくる



 さらにいえば、人間は生まれながらに理不尽を背負っている。決して平等には生まれてこないからだ。


 どの親から生まれるかを選ぶことはできないし、兄弟がほしいと思っても、自分の意思だけでは願い通りにはならない。大富豪の家に生まれた子どもに比べると、その日の生活にも困る家庭に生まれた子どもは大きなハンディキャップを背負っている。


 姿かたちだってそうだ。いくらヨーロッパ人のような顔にあこがれても、日本人として生まれてしまった以上、どうすることもできないし、「アイドル歌手になりたい」「モデルになりたい」と思っても、願いがかなうのはごくわずか。でも、なれないのは、大部分が自分のせいではないのだ。


 生まれながらにハンデを背負っている人は、その最たるものといえる。誰もハンデを背負って生まれてこようなどとは思わない。にもかかわらず、そういう境遇を強いられてしまう。


 ちなみに私は一月生まれ、いわゆる早生まれだ。学校では四月生まれと三月生まれは同学年でありながらほぼ一歳違うわけで、これも早生まれの子どもにとってはかなり理不尽なことだといえるだろう。小学生の、とくに低学年の時は心身とも発育にかなりの差がある。


 子どものころの私は、字を書く時、たとえば「あ」を「〓」と反転させて書いてしまうことが多かったし、運動靴の靴ひもを結べるようになったのも友だちより遅かった。自転車に乗れるようになったのも小学三、四年生だったと記憶している。ふつうは一、二年生で乗れるようになるから、これも若干遅かった。こうしたことがコンプレックスとなり、人前で話すのも苦手だった。


 このように、ちょっと考えてみても、世の中は公平ではないし、人々は平等でもないことは明らかだ。そして、その幅はますます広がっているといわざるをえない。

「そうした状況は理不尽だから、フェアな社会をつくろう」


 そう考えることは意義があるし、実際、そうするべきだと私も思う。


 けれど、それで世の中が完全にフェアになるか、理不尽な思いをする人がまったくいなくなるかといえば、答えは絶対に「ノー」だ。それが現実なのだ。


 結局、この世の中には理屈では説明できないことが多いし、理屈そのものが通らないことが多い。自分の思い通りになることなんて、ほとんどないというのが現実なのだ。


理不尽に打ち克つのは喜びだ



 けれども、われわれはそれでも生きていかなければならない。前に進んでいかなければならない。「世の中は思い通りにはならない」ということを言い訳にして、「だからおれの人生はこんなものさ」と思ってしまったら、これほどつまらないことはない。自分が恵まれていないからといって、恵まれている人をうらやんだり、(ねた)んだりしても、虚しさが募るだけだ。


 大切なのは、そんな境遇にあっても、いつも自分の夢を持ち続け、なんとかして理不尽な状況に打ち克って夢を実現しようとすること、理想の人生にできるかぎり近づこうと努力することだろう。その過程にこそ、生きることの(だい)()()というか、喜びもあると私は思っている。そして、それは必ずしも経済的な勝者になることだけを意味しないはずだ。


 二〇一一年三月十一日、われわれは東日本大震災を経験した。これに伴って生じた津波により、東京電力福島第一原発事故が引き起こされた。そして、その事故の規模は当初の予測よりはるかに深刻なものだった。


 原発事故は人災といっても過言ではないけれど、避難を余儀なくされた人々や放射性物質の恐怖にさらされている人たちにとっては、まったく自分のあずかり知らないことであって、理不尽としかいいようがない。


 神戸に住んでいる私は、阪神・淡路大震災を経験している。幸い、自分に関しては家が傾いた程度で大きな被害は出なかったけれど、親戚の家がつぶれて、寝起きのままかけつけた私は、家具の下敷きになっていた親戚ふたりを助け出した。震災直後の神戸の街の惨状は、それまで見たことのないものだった。


 その時、真っさきに感じたのは、「人間は無力」であり、「現状を受け入れるしかない」ということ、そのうえで「気持ちを切り替えるしかない」ということだった。


 大切な家族が亡くなったり、家や財産が流されたりした被災者は本当に気の毒だと思う。でも──誤解を恐れずにいえば──冷たいようだが、いつまでも嘆いていても、家族が帰ってくるわけではないし、家がもと通りになるわけでもない。過ぎ去った時間は戻らないのだ。


 とすれば、どんなにつらくても、現状を受け入れ、気持ちを切り替えて、次に向かうしかない……。阪神・淡路大震災で私が感じたのは、そういうことだった。


 二〇一一年三月十一日の震災が阪神・淡路大震災とは比べものにならないことはわかっている。地震の規模も範囲も違うし、何より阪神・淡路大震災の場合は津波も原発事故も起きなかった。だから、復興に向けてみんなが一直線になることができた。


 ただ、「現状を受け入れ、気持ちを切り替えるしかない」というのは、同じだと思う。


 震災後、日本各地はもとより、世界中から()(えん)(きん)や支援物資、応援メッセージが届いたように、われわれはいくらでも支援の手をさしのべることはできる。


 でも、そこから立ち上がり、前に向かって歩き出すのは、被災者だ。傷を負った人たちがみずから動くしかない。支援者が代わってあげることはできないのだ。


 支援者にできるのは、そのためのきっかけや機会を提供することだけ。そして、下を向きがちな被災者が顔を上げて胸を張って歩いていけるよう、元気づけ、勇気づけることだけだ。しばらくは二人三脚で歩けても、いつかは被災者たち自身が自分の足で歩こうとしなければならないのだ。


 残念ながら、時間は止まってくれないし、あとにも戻らない。つねに前に進んでいく。とすれば、非情な言い方になってしまうけれど、感傷に浸っている時間はない。次に向かって進んでいかなければならないのだ。


 それは被災者にかぎらない。千年に一度といわれるような大地震に大津波、起きるはずのなかった原発事故が発生した以上、われわれは以前と同じ状況には戻れないと考えたほうがいい。


 もちろん、絶望の縁からはい上がるには、そして前に進んでいくためには、力がいる。理不尽に立ち向かうには、強い気持ちが必要だ。そして、そのためには、自分が変わるしかない……私はそう思う。


 つい人のせいにしたくなるけれど、それでは何も変わらない。「こんな社会にした奴が悪いんだ」と、責任を他人に求めても、それで社会が変わるわけでもない。状況を変えるには、自分自身が変わるしか、自分自身で変えていくしかないのである。


 先に述べたように、人は理不尽を経験すればするほど、より大きな理不尽を体験すればするほど、鍛えられ、強くなれる。間違いなく成長する。そして、理不尽が大きければ大きいほど、それに打ち克ち、乗り越えた時の喜び、達成感は大きくなる。


 そう、理不尽な経験をするのは決して悪いことではない。ネガティブではなく、ポジティブにとらえれば、得るものは非常に大きい。理不尽な経験をすることは、人間が成長していくために必要なことであり、とくに子どものころに、若いうちに経験するべきなのだ。経験させるべきなのだ。


 これから私は、なぜ理不尽が必要なのかを述べるとともに、理不尽に屈せず、それを乗り越えていけるよう、自分の経験を通して体得したヒントを述べていきたいと思っている。

「なんでおれがこんな目に遭わなきゃいけないんだ……」


 そんな悩みを抱えている人たちが、「明日からがんばろう」と気持ちを切り替えることができたら、こんなにうれしいことはない。

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