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日本の企業家8 井深大 人間の幸福を求めた創造と挑戦
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第一部 詳伝 メイキング・オブ・井深大

『日本の企業家8 井深大 人間の幸福を求めた創造と挑戦』
[著]一條和生 [発行]PHP研究所


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東京通信工業設立までと、それ以降の飛翔


[編集部注]

一、企業家の生涯をたどる際、多くの場合基礎資料となる『日本経済新聞』連載の「私の履歴書」であるが、井深大の場合、現在は左記の書籍に収録されている。


   井深大[二〇一二]、『井深大 自由闊達にして愉快なる──私の履歴書』(日経ビジネス人文庫)。


   本書は日経ビジネス人文庫のために新たに編集されたものである。第一部が一九六二(昭和三七)年一二月に日本経済新聞に本人の著により連載された「私の履歴書」で、井深大五四歳時点のものである(一九〇八年~一九六二年)。第二部はそれ以降、一九六二年から一九九七年のもので、これは本人の著ではない(第二部の扉には「日本経済新聞社特別編集委員 森一夫」とクレジットされている)。第一部、第二部にわたって井深大の生涯を描くものとなっているため、本書では『井深大 自由闊達にして愉快なる──私の履歴書』を使用する。なお、本文中の算用数字は漢数字に改めた。



  〓 東京通信工業設立趣意書の原点〔1〕──家族





     1 進歩的な両親のもとに生まれる


父の姿を追い続ける


 井深大は栃木県上都賀郡日光町にある古河鉱業日光製銅所の社宅で一九〇八(明治四一)年四月一一日に井深(たすく)、井深さわの長男として生まれた。生まれた時、井深は未熟児だったという。井深は、自分が未熟児で生まれたために、自分の人生はだいたい五〇年と考えていた。そこで井深は、五〇年間に自分のやりたいことをやってしまわなければならないと考えて生きることになる。井深の言葉を借りれば、焦りがあってテープレコーダーや、トランジスタを「あわててこしらえた」のはそのためだったという(1)。ちなみに井深の五〇歳というと一九五八(昭和三三)年。その年に東京通信工業の社名がソニーに変わっている。


 古河鉱業で日光製銅所といえば、現在でも古河鉱業(現古河電気工業株式会社)にとって聖地のような場所である。地域社会にとって日光製銅所は日光のいわばシンボリックな存在であり、夏には古河電気工業の日光事業所内で「和楽踊り」が一大イベントとして開催されている。日光和楽踊りは、一九一三(大正二)年に大正天皇、皇后両陛下が、日光製銅所に民間企業としては初めて行幸啓されたことを記念して、その翌年(大正三年)から開催しているお祭りだ。当時、天皇が民間企業を訪問されるのは初めてのことであり、その大任を果たした夜、会社・所員の祝賀の席で自然発生的に歌い踊られたのが、日光和楽踊り発祥の由来とされている(2)。


 和楽とは、当時の製銅所精神の三項目のうちの一つ、「協同和楽の精神」からとられている。一九二二(大正一一)年からは、創業記念日の七月と行幸啓記念九月の間の八月に実施されるようになり、現在の開催日は毎年八月第一金曜日である。戦争による中断の後、和楽踊りは年々盛り上がり、工場の職場単位で酒盛りが催され、家族ともども楽しむ大イベントとなっている。その日は、工場構内が開放され、社員と地元住民、観光客が一体となって踊りを盛り上げる。今でも工場の中には、明治時代や大正時代、昭和初期の建築物が残されており、行幸啓当時の様子をしのばせている。会場は、電飾で彩られており、池の真ん中のやぐらも電気に飾られている。このイルミネーションがこの踊りの大きな特徴だ(3)。地元住民、工場で働く古河電工社員が見事なチームワークで踊り続ける。「和楽踊り」は古河社員と地域市民が参加する一大イベントであり、古河工業と地域市民を一体化させる場だった。地域社会を重要なステークホルダーと考え、地域社会に深くコミットする日本企業。そのような日本企業の姿を、今でも日光でみることができる。


 井深はしかし「和楽踊り」をみることはなかったと思われる。なぜならば、井深の父は井深が僅か二歳の時に二六歳という若さで亡くなってしまったからである。


 井深の父親、井深甫は将来を嘱望されていたエンジニアだった。井深の父親は新渡戸稲造の門下生で、札幌中学から蔵前工業(現在の東京工業大学の前身)の電気化学科で学んだ科学技術の素養がある人だった。新渡戸稲造は一八九一(明治二四)年にドイツ留学を終え、札幌農学校に教授として赴任し、その後、一〇年間、札幌農学校で教えたから、その頃に井深の父は新渡戸のもとで学んだことになる。父親(つまり井深の祖父)は後で記すように北海道知事の懐刀として活躍した、進歩的な人だった。息子が札幌農学校から蔵前工業へ進学することをきっと応援したことだろう。井深の父は祖父にとって自慢の息子だったのである。井深の父は学生時代、静岡県御殿場線の小山に、洋書と首っ引きで小さな水力発電所をつくったというのだから、高い技術力に加えて、進取の気性を持ち合わせた人だったのだろう。クリスチャンとなり、エンジニアとして生涯を通して新しいことに挑戦し続けた井深の姿がそこに重なる。


「父のように」


 井深は幼い時に父親を失ってしまったために、常に父親を求めていたように思える。井深が書き残したものをみてみると、「父のように」という形容詞を使って紹介される人物が複数いることに気づく。例えば、『銭形平次捕物控』で有名な大衆時代小説の売れっ子作家だった野村胡堂(4)がその一人である。野村胡堂は井深の母親の日本女子大時代の友人ハナの夫で、一時期、家が近所同士だった。そのために幼い頃、井深は野村に頻繁に会うことになったのだが、その野村が井深には父のようにみえたこともあったと記している(5)。ところで、野村胡堂は同郷の新渡戸稲造を「私の先生」と呼び、その影響を受けて「銭形平次はキリスト教の精神で書いている」と語っていた(6)。新渡戸稲造を媒介にして、井深の亡き父と野村胡堂はつながっていたのである。実際に野村は井深のその後の人生において、非常に重要な、いわば父親のような役割を果たすことになる。


 ところで、井深大の息子の井深(まこと)によれば、父親の味を味わうことができなかった井深は、子供との付き合い方に戸惑っていたという。井深亮は次のように記している。



  父親が早世したために、父は父親の味を味わうことがなかった。だから、父は、自分が父親としてどういうスタンスで子どもとつきあえばいいのかという点では、おおいにとまどったと思う。


  父の子どもとの接し方はどこか一歩距離を置いていたような気がする。子どものことが心配で心配で、可愛くて仕方がないのに、どう接したらいいのかわからない父のとまどいを感じてしまうというわけである(7)。



 後に井深は「幼児開発協会」をつくって、スキンシップの大切さを説くことになる。しかし井深は自分の子育てではスキンシップを行うことはなかった。彼はスキンシップを経験したことがなかったからであろう。つまり彼にはみずからの実践、経験を通じて得られる、スキンシップに関する実践知がなかったのである。そして、親としてスキンシップを行わなかったという反省が、彼の後の幼児教育への深いコミットメントに影響を及ぼしていた。


 父との関係を井深亮は「淡白だった」と記している(8)。激しく怒られたことも、逆に強く褒められたこともなかったという。かといって両者の間が冷たかったかというと、そうではなかった。父との関係を井深亮は、「同じ空気を吸って共に生きる同志のような関係」と表現していた。そこには、お互いの思いが暗黙的に通じ合う関係があった。井深亮は子供時代を振り返りながら、父と「対話はなくても心は通じ合った、おだやかな、至福の時間」を過ごすことができたと記している(9)。それは、「生き生きとした現在」が主客未分の「我─汝」の状態で共有されている「相互主観性」が生まれた状態だったということもできるだろう(10)。自分と他者との間の主客未分の状態が父子の間に生まれていたのである。ある意味ではそれは、無口でシャイで照れ屋、感情をあらわにして、叱ったり褒めたりすることもなかった井深らしいスキンシップだったのかもしれない。


人間形成に大きな影響を与えた母


 井深の母のさわも日本女子大学を出ており、当時としてはかなり進歩的な人だった。母の出身も父親と同じ北海道だった。さわの父親は長く苫小牧で郵便局長を務めていたが、いやいや押しつけられて買った二万坪の土地が高騰して大地主になったという人だった。まだ封建的な考えの強かった明治時代に、北海道を離れて東京の女子大に入学することを娘に許したのだから、さわの父親は経済的に豊かなだけではなく、進歩的な考えを持っていたのだろう。このように、井深の両親はそれぞれ、経済的に豊かで進歩的な考えを持った親に育てられたという点で共通点があった。それはそのまま母親さわによって引き継がれた。井深も当時としては進歩的な考えの母親に育てられたのである。


 井深にとって母親の影響は、おそらく通常の母親の息子に対する影響以上に大きかった。井深の母親は井深の人間形成とその後の人生に大きな影響を与えることになる。それは井深が幼い頃に父親を亡くしたから、ということだけによるわけではない。


 父を幼い頃に亡くした井深にとって、幼い頃の思い出は母親に直結していた。井深の好物はカレーライスとトマトだったが、それらは「ほとんど無意識のうちに、それをつくり食べさせてくれた母の姿、音声と重なって」いた(11)。どれだけ井深が母親のことを思っていたかということは、後に井深の妻が井深の母親に対して批判的なことを口にすると、烈火のごとく怒ったというエピソードからもわかる。井深は感情をあらわにして、叱ったり褒めたりすることがなかったから、この反応はかなり特異である(12)。


 また井深は、母を通じて父を知った。井深は「母は、ことあるごとに、生前の父について話してくれた。父のことを語るときの母の瞳は、あるときは遠い世界を漂っているようでした。そして私は、幼心に“偉大な父”の姿をふくらましていったんです(13)」と語る。将来を嘱望されたエンジニアだったこと、静岡県御殿場線の小山に、洋書と首っ引きで小さな水力発電所をつくったことなどを、きっと井深は母親から聞いたことだろう。井深が父親と同じ道を歩き、エンジニアとして若き日には無線の研究開発に、そして東京通信工業、さらにはソニーで、新技術を使って新しい製品を開発し続けることになったのは、母から聞いた父親の影響が強かったのだろう。二歳の時に亡くなったので記憶がほとんどなかったと推測される父親を「偉大な」と呼んでいるところに、母親の話を通じて井深が父親への尊敬の念を高めていったことがうかがえるのである。


 さらにまた、井深の母は井深と野村胡堂をつなぎ、野村胡堂は井深を戦前、貴族院議員、文部大臣を務めた前田多門につないだのである。野村胡堂は後に東京通信工業の第一回目の増資の際に出資をしたのみならず、品川御殿山に本社を移して飛躍へのスタートを切るとき、不足したため井深みずからお願いにいった資金四万円を提供し、会社の発展に大きな役割を果たした。彼の折にふれた金銭的支援がなかったら、東京通信工業のその後は大きく変わっていたかもしれないのである。それだけではない。『銭形平次』で人気作家となった野村胡堂の軽井沢にある別荘の隣が、当時朝日新聞の論説委員として活躍していた前田多門の家だった。井深は野村胡堂から紹介された前田の次女の勢喜子と見合いをし、結婚することになる。井深は妻以上に義父となる前田から大きな影響を受け、彼の人生観、哲学観には、前田の強い影響を感じる。前田自身も東京通信工業の初代社長になると同時に、政財界の大物を東京通信工業の経営幹部に招き、義理の息子の事業を精神的、人的に支えることになる。父親が亡くなったための必然的な結果かもしれないが、井深の世界、そして東京通信工業は、母親のネットワークを通じて広がっていったのである。



     2 祖父と武士道


先祖は会津藩に仕えた藩士


 父親が二歳で亡くなってしまったために、幼い井深に大きな影響を与えた身近にいた男性は祖父の井深(もとい)だった。父が亡くなると井深は母親とともに愛知県碧海郡安城町(現安城市)に住む祖父のもとに引き取られた。井深は祖父に「父に代わる愛情」を感じ、祖父は幼い井深の人格形成に大きな影響を与えたのである(14)。


 井深の先祖は代々、会津藩に仕えた藩士で会津門閥九家の一つだった。千石取りの士分だったというから、今でいえば会津藩の経営幹部であろうか。祖父の弟は白虎隊に入り、飯盛山で戦死。祖父は当時、一九歳で白虎隊に入る年齢を超えていたので、朱雀隊(一八歳から三五歳まで)で奮戦したが生き残り、若き藩主とともに斗南藩に移った。そうした祖父に井深は育てられた。井深は後に『私の履歴書』の第一回で祖父のためにかなりの紙面を割いている。そこからも井深に対する祖父の影響の大きさを感じる。


 井深の祖父は主君に忠誠を誓った武士だった。『日本経済新聞』に連載された井深の『私の履歴書(15)』の第一回のタイトルも、「祖父のこと 会津朱雀隊生き残り 早逝した父に代わる存在」だった。その祖父から井深は何を学んだのだろうか。井深の父の師であった新渡戸稲造が説明するように、義、勇、仁、礼、誠、名誉、忠義、克己から説明された武士道の道徳観念だったのだろうか。


新渡戸稲造の影響


 ここで井深の人生から少し外れて、新渡戸稲造の武士道を振り返ってみよう。それは井深の祖父を理解するためだけではない。新渡戸稲造は様々なかたちで井深の人生に影響を及ぼすからである。井深の父親、そして義父の前田多門は新渡戸稲造の弟子だった。義父の前田が東京通信工業の相談役に招いた田島道治も新渡戸稲造の門下生だった。野村胡堂は新渡戸を先生と呼んでいた。そしてこうした新渡戸門下生と密に交流した井深には、新渡戸の思想の影響を見出すことができるのである。


 新渡戸稲造は一八九九(明治三二)年に名著『武士道(16)』を執筆して、日本人の正邪善悪の道徳観念である武士道の起源、特性を世界に対して説明した。本来、武士道は武士がその職業において、また日常生活において守るべき道だった。しかしそれは時代を超えて、日本人にとって固有な道徳体系となったと新渡戸は説明した。武士道は「なんら手に触れうべき形態を取らない(17)」、日本人の身体に宿る「暗黙知」だった。それは「語られず書かれざる掟、心の肉碑に録されたる律法」であり、「不言不文であるだけ、実行によって一層力強き効力を認められている」実践的知識だったのである(18)。


 新渡戸は義、勇、仁、礼、誠、名誉、忠義、克己という観点から日本人の道徳体系を分析した。それらの中で武士にとって特に大事なものを、新渡戸は義と勇と考えた。両者は「双生児の兄弟」だった。勇気は武士の掟の中で最も厳格な教訓である義のために行われるのでなければ、徳にはほとんど値しなかった。


 真木和泉の次のような一文を紹介して、新渡戸は義を定義している。「されば人は才能ありとても、学問ありとても、節義なければ世に立つことを得ず。節義あれば、不骨不調法にても、士たるだけのこと欠かぬなり(19)」。新渡戸は流されずに正義を守る勇気を持つ者こそが、真の武士だと考えていたのである。また正義は慈愛である柔和な徳となる仁も伴っていた。武士にとって愛とは、「正義に対して適当なる顧慮を払える」ものだった。また礼とは他人の感情に対する同情的思いやりの外に現れるものであり、正当なる事物に対する正当なる尊敬、社会的地位に対する正当なる尊敬を意味していた。だが信実と誠実となくしては、礼儀は「茶番であり芝居」だった。忠義も、無批判的に主君に従うことを求めるものではなく、「主君の気紛れの意志、もしくは妄念邪想のために自己の良心を犠牲にする」ことがあってはいけなかった。それは他人から強制されるものではなく、主体的な自己実現だった。「臣が君と意見を異にする場合、彼の取るべき忠義の途は……あらゆる手段をつくして君の非を正すにあった(20)」。忠義を守ることによって名誉を得ることが、武士の到達点だったのである。


井深に受け継がれた祖父の気質


 果たして、井深の祖父も義と勇気ある慈愛に満ちた人だったのではないだろうか。会津藩が薩長に敗れたためにしばらく不自由な生活を強いられていた井深の祖父に、廃藩置県を契機に活躍の機会が生まれた。開拓使に従って役人の地位を得て、家族とともに北海道に渡った。北海道知事の深野一三に重用され、深野が愛知県知事になると一緒に愛知県に向かい、商工課長、郡長などを歴任した。


 愛知で井深の祖父は、地域社会の発展に大きな貢献をした。明治用水を利用した高岡町駒場用水開削に骨を折ったことで、地域の農民に後世まで感謝された。地域農民は井深の祖父が亡くなってから四〇年もの月日が経過した時でも井深の祖父を「神様のように」崇拝していたという(21)。井深が孫であることがわかると、農民がわざわざ上京して井深に挨拶に来たというのだから、井深の祖父の行なったことは並大抵ではなかったことが容易に推測できる。祖父は若い頃フランス人に兵学を習ったといい、新しい文化の吸収にオープンだった。この気質は、井深の父親に、そして井深自身にも受け継がれていった。祖父は厳格な人だったというが、面白い気質の持ち主だったともいう。祖父は井深を愛し、そこに井深は父に代わる愛情を感じたのだろう。祖父は折にふれ、亡くなった父がいかに科学的であったかを井深に語ってくれた。井深の科学に対する興味はこうした生活環境や父をしのぶ思いの中から芽ばえていった。



     3 母親の愛と別れ


「いちばん恵まれていたとき」


 東京から遠く離れた安城での生活は、進歩的な考えを持った若い母親には、必ずしも住みよいものではなかった。母親は愛知県に移って間もなく自活の道を求めて上京し、母校、日本女子大の付属幼稚園で先生として働き出したのである。写真でみる井深の母親は、小柄で華奢だ。しかし井深の母親にはかなりの行動力があった。まだ封建的な風土が強かった明治末期、大正初期の時代、義理の両親の家を出て、一人で自活の道を選ぶにはかなりの勇気と覚悟を要しただろうし、周囲の反発もあっただろう。しかし母は決断したし、それを井深の祖父母も許した。やはり祖父母も、古風な家長主義を超えた進歩的な考えを持っていたのである。


 東京で井深は母が勤めていたのと同じ日本女子大の附属幼稚園に入り、日本女子大学附属小学校の一年二学期まで、東京で母子水入らずで生活した。この頃のことは、井深には後世まで強く印象に残っていた。遊んだ目白付近の街並み、遊びに行った友達の家。後に井深は、母親の愛情に包まれて平和に暮らしていた幼い頃の東京生活が「私にとっていちばん恵まれていたときである」とまで記している(22)。それは愛する母親と二人きりで生活できたためであるかもしれない。母との時間は井深にとって至福の時間だった。


熱心な英才教育


 母親は井深を日曜日になると博覧会や博物館などに連れていったというから、幼いわが子に父親のような優秀な科学者になってほしいとの思いが、母親にはあったのかもしれない。こうして幼い頭に植えつけられた科学への芽ばえが、井深の一生涯の職業を決める大きな要因になっていった。また、母親は相当熱心に井深の「英才教育」を行なった。当時、猿飛佐助や霧隠才蔵などの話で子供に人気だった立川文庫を読むことを、母親は井深に禁じた。その代わりに、井深はすでに小学校一年の時から、徳冨蘆花の『思出の記』や夏目漱石の『坊っちゃん』を読まされた。小学校一年の井深にこうした本がどれだけ理解できたかはわからない。しかしこのエピソードには、息子を父親のように優秀な科学者に育てたいという母親の強い思いを感じる。


 母親と二人きりの愛情に包まれた生活は、しかし、長くは続かなかった。小学校の一年三学期に、母方の祖父が病気になったために、苫小牧の小学校に転校することになったからである。ただしこの北海道生活も数カ月と短期間で終わっている。井深は小学校二年生の時には再び愛知県の祖父母のところに帰ることになった。そして母親は神戸に住む人と再婚することになり、こうして母親との別れが井深に訪れたのである。

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