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西欧近代を問い直す
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政治・社会
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第1章 文明の捉え方 進歩の思想と文明の衝突

『西欧近代を問い直す』
[著]佐伯啓思 [発行]PHP研究所


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「近代」を捉える視点をもつ

 この講義は現代文明論ということで、われわれがそのなかにいる現代文明の特質について話したいと思います。もっとも、現代文明といってもあまりにも範囲が広く、テーマを限定しなくてはなりません。私がここで考えている現代文明論の中心テーマは、「西欧を中心とした近代化や近代社会の形成をどう理解するか」にあります。このテーマは、また端的に「西欧近代社会の意味をどう理解するか」といってもよいし、またそれは、「なぜ西欧において先発的に近代化が行われたのか」という問題ともかかわっています。

 とはいえ、「近代化」あるいは「文明化」でもまだ漠然としていて、たとえば「ヨーロッパ近代はいつから始まるのか?」という問いを立てても、千差万別の回答が返ってくるでしょう。社会科学に関心のある人は、産業革命や、イギリス市民革命やフランス革命を持ち出すでしょうし、科学史の見地からは、ガリレオ、デカルト、ニュートンらの名前と結びついた近代科学の誕生を想起するでしょう。また、ルネッサンスから近代が始まるという人もいれば、宗教改革に決定的な意味を求める立場もあります。メディア論からすれば、グーテンベルクが印刷機を発明した十五世紀の前半が大きな転換点だということにもなります。

 つまり「近代」といっても、まだ概念が広すぎて、どういう角度から見るのか、どういう視点から見るのかによって、捉え方がずいぶん違ってくるわけです。

 したがって、「近代とは何か」という問いは、いいかえると、いかなる視点から(丶丶丶丶丶丶丶丶)近代を見るかということです。つまり、その人なりの視点、あるいは問題意識と不可分なのです。経済生活の観点から見れば、資本主義の成立や産業革命が決定的な意味をもつでしょう。政治制度からすれば市民革命ということになるでしょう。人間の認識や世界観ということだとルネッサンスや科学革命が決定的なものです。むろん、これらは相互に関連していて、決してバラバラな出来事ではありません。だからこそ、そこに「近代の成立」というテーマを掲げることも可能となるわけです。

 しかし、そうはいっても、それらをすべて包括して議論することはできませんので、どうしても問題を限定しなくてはなりません。そこでまずは、この講義では、いかなる意味で近代を問題にしたいのかを述べておきましょう。

9・11テロとイラク攻撃の背景にある歴史観とは

 手がかりとして、二〇〇一年のアメリカ中枢部へのいわゆる9・11テロから、二〇〇三年のアメリカによるイラク攻撃を取り上げてみましょう。

 9・11のテロが起きたとき、ブッシュ大統領はすぐに「これは文明に対する攻撃である」といいました。したがって、文明国が一致団結してテロという「野蛮」と戦うべきだということです。そして、その後開始されたアフガン攻撃などは、「野蛮」に対する「文明」の防衛だと理解された。この場合の「文明」とは、必ずしも西欧文明という意味ではなく、もっと広く、自由で民主的で、法的秩序をもった平和な市民的生活秩序といった意味ですね。

 テロから一年半後にアメリカはイラクを攻撃するわけですが、その戦争目的は、当初は「テロ支援国」の大量破壊兵器を破棄させるということだったのが、いつの間にか、フセイン体制を消滅させて、イラクを民主化し人民を解放する、という議論に変わってしまいました。こうなると、「文明を守る」とは、独裁的な恐怖政治と戦って、人民の自由や平等を中心とした市民生活を保障するということになります。アメリカは、この意味での「文明」の守護者を任じているわけです。

 しかし、これは別にブッシュ大統領が思いついたレトリックではなく、ここにはひとつの歴史観があります。この歴史観を、比較的近年、典型的に示したのがフランシス・フクヤマの「歴史の終わり」という議論でした。当時、ランド研究所にいた日系の研究者であるフランシス・フクヤマが、一九八九年に「歴史の終わり」という論文を発表し世界的な論争を巻き起こしました。これはもう少しあとの九二年に、"The End of History and the Last Man"、すなわち『歴史の終わりと最後の人間』と題して一冊の書物になっています。

 八九年の論文が大評判になった理由は、このなかでフクヤマが、「社会主義はやがて崩壊する」と述べたからです。実際、この論文が発表されたすぐあとにベルリンの壁が崩壊し、ソ連共産党が崩壊します。

 ですからフクヤマの論文は、まさに社会主義の崩壊を予測したものだということになったのですが、重要なことは、ここで彼が社会主義の崩壊を予言したことではなくて、彼が提示した独特の歴史観にある。彼は、社会主義は崩壊するが、崩壊することによって「歴史が終わる」といったのです。

歴史は終わらせるべきだから、アメリカは戦う

 それはどういうことかというと、人類の歴史とは、人間がさまざまな障害や圧政、さまざまな残虐、抑圧と戦い、自らを解放し、自由や平等を実現してゆくプロセスだということです。こうした残虐や抑圧との闘争、そして解放への意欲こそが人間の歴史をつくり出してきた。

 まずわれわれは、専制君主に対する闘争に勝利して近代市民社会をつくった。その典型はフランス革命です。続いてその次には、ファシズムという圧政との戦いから自由や民主主義を守った。これが第二次大戦です。その次に登場するのは、社会主義という抑圧であった。とりわけスターリニズムのような全体主義的抑圧との戦いに勝利して、自由と民主主義を世界的に実現した。社会主義とはイデオロギーに名を借りた全体主義支配だったわけです。この冷戦に勝利することで、自由や民主主義の勝利が確定する。

 ところが社会主義が崩壊してしまうと、自由や民主主義に対抗できるだけの強力なイデオロギーや思想はもはや存在しません。マルクス主義は力を失い、あらゆる意味でユートピアは人を惹きつけません。とすれば、社会主義崩壊後の世界は、ただ自由や民主主義、そして市場経済や産業主義が広がっていく平板な舞台にすぎない。そのプロセスのなかで、小規模な紛争や地域的な戦闘はあっても、大規模な世界戦争はもう起きないということです。

 こうして、人々は、かつてなく自由で、平等で、経済的にも豊かになってゆく。その意味では「近代」の理想が現実化するといってもよいし、「文明」が世界に拡張するといってもよい。

 しかし、では歴史意識はどうかといえば、もはや歴史の「進歩」は終焉したといわざるをえないのです。なぜなら、人間の歴史をつくり出してきたものは、何らかの抑圧に対する人間の解放を求める闘争だったからです。この解放を求める闘争のなかにこそ、歴史を動かす「気概(テューモス)」があったからです。ところが、大きな抑圧がなくなり、自由や民主への顕著な敵対がなくなれば「気概」のほうも力を失ってしまう、というわけです。

 これからわかるように、フクヤマのいう「歴史の終わり」とは、「歴史の進歩という観念の終わり」ということです。「歴史の進歩」という、これまで人々を鼓舞してきた希望がもはや意味を失ってしまった。いうまでもなく、「歴史の進歩」という観念は、西欧近代と不可分です。とりわけ自由や平等へと向かう歴史の進歩という理念は、十八世紀に始まる西欧啓蒙主義の産物でした。それこそが、「西欧の近代」の中心的な理念だったわけです。

 そして、フクヤマの議論は、冷戦体制の終結をもって、この西欧の啓蒙主義が生み出した「近代主義」というプログラムがそれなりに実現した、しかし実現することで、もはや「近代主義」は力を失ってしまった、というのです。冷戦以降の世界は、もはや「近代」ではなく「ポスト近代」だというわけです。これはまた、「ポスト・ヒストリー(歴史以降)」ということもできます。それを彼は、"The End of History" といったのですね。

 このフクヤマの文脈で述べれば、先ほどの9・11は、フクヤマの認識が甘かったことになります。ここに、じつはもうひとつ、自由な民主主義に対する四番目の脅威が現れたということです。

 四番目の脅威とはいうまでもなくテロリズムであり、さらにいえば、テロを支援するイラクのような独裁国家です。
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