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西欧近代を問い直す
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政治・社会
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第4章 「人民主権」の真の意味 ホッブズからルソーへ

『西欧近代を問い直す』
[著]佐伯啓思 [発行]PHP研究所


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自己保存を図る近代的市民

 前章ではホッブズの議論に焦点を当て、近代国家の論理を追いました。ここには、西欧の近代を特徴づける重要なメルクマールは何かというと、宗教的権威から自立した主権国家の成立にあるという認識があります。それを一応は、宗教的世界観から世俗的世界観への移行といってもよいし、聖俗分離といってもよいのですが、重要な点は、この世俗的な主権国家が、あくまで宗教改革というキリスト教の原点回帰の運動のなかから発生したということです。しかも、それはキリスト教を決して否定するどころか、それを背景にもっているということです。

 その前提のもとで、ホッブズがやったことは、神を背景に置きつつ、世俗的な世界においては、あくまで人間による統治、つまり国家のほうが上位にあることを理論化したことです。

 しかし、この転換によって、古典古代的な国家像は一挙に近代的なそれに変化してしまった。古代の都市国家のように、何か共同体の「善」あるいは「善き生活」を実現するものが国家なのではなく、あくまで個人個人の生命や財産の安全を確保する公的権力機構が国家だということになります。アリストテレスなどにあった道徳的な価値を実現するものではなく、共同体の価値などとは無関係な統治機構としての国家ということです。先に丸山真男さんが、日本には西欧近代のような中性国家がなかったと述べたといいましたが、その中性国家の論理をホッブズは生み出したわけです。

 これは当然ながら、市民像の転換をももたらしました。古典古代のポリスを構成しているのは「善き市民」なんですね。善き市民とは、共同体の道徳的価値を市民的美徳としてもっており、また自らの手で共同体を守ろうとする。しかし、ホッブズの描き出した近代的国家では、共同社会の価値をもつという意味での市民の美徳という観念はありません。武装解除していますから、共同社会を自ら防衛することもありえないわけです。市民は、自分個人の生命や財産の安全だけにもっぱら関心をもっている。要するに自己保存を図るものです。

ホッブズ的市民像を体現した日本

 ここでは市民はもはや政治にはさして関心をもたないでしょう。政治を行うのは主権者で、市民ではないからです。むろん主権者が合議体の場合には、一種の民主制ですから、市民も間接的には政治に参与することになる。しかし、市民の関心はあくまで生命・財産の安全確保にあって、政治に強く参与しようというモチベーションは生まれません。

 古典的世界では、政治を行うことは公共的なものにコミットするということでした。防衛義務や政治参加は重要な公的活動です。ところが、ホッブズの考える市民像はまったく違っていて、公共的なことには関心をもたない。彼の関心はもっぱら「私」の生命・財産、「私」の身のまわりの自由といったことになります。そして、これこそが近代的市民とわれわれが考えるものなのです。つまり、「公」よりも「私」を優先し、もっぱら「私」の利益を追求する者、それこそが近代的市民なのです。

 この近代的市民は私的利益が中心ですから、政治というより、むしろ経済活動に関心をもつことになるでしょう。具体的には、商人や職人、現代風にいえば経済人、企業家、サラリーマン、そういう人たちがホッブズの考える典型的な市民ということになってきます。むろん、これはもう少しあとのことですが、ホッブズの市民像はこうした経済人としての市民に道を開いたことになります。したがって、近代の市民的自由の最大の関心は、結局、防衛や政治参加ではなく、経済活動の自由ということになってくるのです。共同体の防衛のために市民は別に戦う必要はない。防衛は、主権者に、つまり自分の外部の何者かに委ねているわけで、その庇護(ひご)のもとではじめて自由を享受しているのですね。

 現代に生きるわれわれは、そういう意味ではすでにホッブズ的な世界のもとに置かれているといえましょう。特に日本はそうですね。それでも、ほとんどの先進国がいまだ徴兵制を維持しているし、アメリカのように、銃器保持を認めて市民が武装できるようにしている国もあります。徴兵制を敷いているということは、市民は国防においては武装すべきだということです。そういう古典古代的な観念を多くの国がまだどこかに持ち込んでいる。

 これに対して、日本はそもそも軍隊がない。戦争となったとき、市民の生命・財産を守るのは、極端にいえばアメリカ軍ということになる。ホッブズ流にいえば主権者はアメリカだともいえる。少なくとも、市民はいっさい戦おうとはしない。武器を取らないことがむしろ美徳であり、そのうえでせっせと私的利益の追求、経済活動に専念する。これはきわめてホッブズ的な市民像といわねばならないでしょう。

市民と主権者が対立したら──ホッブズの議論の弱点

 ところが、ここに重要な疑問が出てきます。それはこういうことです。

 ホッブズの議論はもともと人間の自己保存というところから始まっています。人間は自分の生命を守るという本能的な欲望をもっている。いいかえれば、死に対する恐怖をもっている。これがホッブズの議論の出発点です。そして、その生命を維持するために市民社会という平和な社会をつくった。ところが、ひとたび主権者に絶対的な権力を譲り渡してしまうと、今度は、逆に主権者によって市民が傷つけられる可能性が生じてきます。

 市民と主権者の間に大きな距離ができてしまっていて、力の行使という点でまったく非対称的になってしまっている。ホッブズ自身は、先にも述べましたように、契約において、諸個人は、彼自身を主権者という「ひとつの人格」へ統一してしまうので、主権者は諸個人を代表するものだから、この乖離(かいり)は生じない、と考えているようです。
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