ルソーは古典的な共和主義を復活させようとした
先を急ぐ前に、もう少しだけ、ルソーの思想の意義について話しておきましょう。そのことが、近代革命をどう理解するかというこの章での関心と無関係ではないからです。
すでに述べてきましたが、近代的な主権国家という観念は、あくまでキリスト教の「神」を前提にして生まれている。宗教的な主権者である神と教会から世俗的な主権者を分離させ、世俗世界における絶対的な権力を確立するということです。主権者という観念は決して無から立ち上げられたのではなく、宗教世界の「神」から出てきた。こうして、宗教的混乱のなかで秩序が崩れてしまった状態に対して、生存の「確かな拠点」を手に入れたわけです。しかも、契約という、これまた本質的にユダヤ・キリスト教の文脈にある観念を持ち出すことで、その背後にやはり「神」を据えています。ただし、「神」はもはや世俗世界の権力構造には関与しない。「神のものは神に、カエサルのものはカエサルに」ですね。
ここに、世俗的な主権が成立しますが、それはもともと「神」という絶対者の世俗世界に占めていた位置を借りてきたようなもので、まだ「人々の意思」には基づいていない。主権はもはや、神授ではないけれど、その主権者の位置をだれかが占めると、主権者と諸個人(市民)の間には大きな隔たりができてしまいます。つまり、国家と社会は、本来、同一のものの二つの側面なのに、実際には分離してしまう。国家のことは主権者(君主や議会)に任されるわけで、市民は国家の事項に関与せず、「私」の利益や財産にもっぱら関心を寄せることになります。逆に、国家のことは主権者に任せてしまって関心をもたなくなる。これでは、かつて教会や貴族が政治や国家を独占し、市民はそこから外されていたのとさして変わらない。
そこでルソーは、ホッブズのなかにまだあった、宗教的、ユダヤ・キリスト教的要素を徹底して払拭しようとした。そして、国家と市民社会の分離、分裂を回避しようとした。いっさいのキリスト教的背景を取り去ったとき、どのようにして政治権力が基礎づけられるかということですね。そして、ここでルソーは、再び古典古代的な観念を復活させようとしたのです。実際、ルソーの思想には、古典古代的な発想、とりわけスパルタの強い道徳的教育やローマの共和国からの影響が見られます。
ここでいう古典古代的な政治観とは、共和主義、「リパブリカニズム」といわれるものです。リパブリカニズムとは、「共和国(リパブリック)」、つまり「レス・プブリカ」の政治で、市民が積極的に「公のこと(レス・プブリカ)」にかかわることで、共同体を防衛し、安全を確保し、さらに共同体の「善きもの」を実現することです。この場合には、国家とは都市国家で、比較的小さな規模ですから、市民の政治参加もいわば「顔が見える」し、個人の活動の意味が確かなかたちで「公」に結びついている。そのなかで「共同体の善」というものがまだしも了解されている。こうした「善きもの」を実現する国家を生み出す行為は、何か偉大な芸術作品を生み出すのと同様の精神の活動だと考えられたわけです。
ただ、その前提として共同体を守っていかなければなりません。共同体が市民のものだとすれば、市民が共同体を守っていかねばならない。ですから、もっとも重要な政治的な関心は、市民一人ひとりが積極的に共同体の防衛に携わるということです。したがって、市民にはそれだけの覚悟、勇気、公共的精神、つまり自己制御、節制、思慮、正義感などが要請されるわけですね。前にもいった「市民的美徳(シヴィック・ヴァーチュー)」です。
これが古典的な共和主義の考え方なんですが、ルソーの議論は明らかに古典的な共和主義を復活させようとしている。古典的な共和主義の思想を彼は持ち込んでいるわけです。ルソーの「一般意思」の観念は高度に「公共的なもの」です。全員がそのことについて強い関心をもち、そこに利害を賭けることができ、自分の生命を投入できるような「公のこと」ですね。この「公的なるもの」が人間を結びつける。このとき、人はいったん「私」を棄てる。「私心」は「一般意思」にとっては邪魔なのです。こうして、古典的な共和主義の考え方がルソーの一般意思による社会契約には明らかに反映されています。
ですから、これは注意しておくべきことですが、ホッブズからルソーにいたる流れは、ふつうは近代的民主主義の誕生、近代的民主国家の成立とみなされるのですが、その場合、この近代的国家は、決して古典古代的なものを否定して登場したわけではない。それどころか、むしろ古典古代的な共和主義の考え方を復活させようとする。決して古いものを破壊し、破棄することで生まれたわけではない。古典古代的な共和主義やシヴィック・ヴァーチューを、積極的に近代において復活させようとしているのです。
共和主義を支える市民精神──シヴィック・ヒューマニズム
この点をもう少しだけ論じておきましょう。人はただ、自分の生命・財産の保護を得るためだけに社会契約に入るのではない。契約によって市民になるということは、いったんは「私」の利益や関心を完全に放棄して、一般意思に委ね、高度に「公共的なもの」につくということです。それは義務や愛国心を伴いますが、それらは放っておいて生まれるものではありません。
そこでルソーは、『社会契約論』の最後の部分で、この公共的な精神をもった市民精神を「市民宗教」と呼んで、その重要性を説いています。それは、キリスト教のような彼岸の「神」の宗教でもなければ、イギリス国教会のような国家による教会宗教でもない。そうではなくて、市民であることによって市民としての責務を果たすという精神です。
市民宗教は、国家がその内実を決めるべきもので、決して「神」への信仰ではない。ルソーはいいます。「それは、厳密な宗教的教義としてではなく、それなくしては、善き市民、忠実な臣民たりえぬ社交の感情としてである。それを信じることは何人にも強制することはできないけれども、主権者は、それを信じないものはだれであれ、国家から追放することができる」。つまり、国家(主権者)への忠誠心をもち、その国家の正義を守る義務感をもち、愛国心をもつこと──これを「市民宗教」だというのです。
ポーコックという歴史家がいますけれども、彼は、西欧の思想のなかに、古典古代から引き継がれた「シヴィック・ヒューマニズム」と呼ぶべき伝統があるというんですね。「シヴィック・ヒューマニズム」というのはなかなか説明しづらい概念ですけれど、ここでいっている「共和主義(リパブリカニズム)」とおおよそ重なっていると考えていいでしょう。厳密にはもう少しきめ細かな説明が必要ですが、ともかくも、古典古代から受け継がれ、ルネッサンスで復活し、マキャベリなどを通して、主としてイギリスの十七、十八世紀まで流れてくるひとつの思想伝統です。