読みたいトコだけ買える本。
犬耳書店
初めての方へ 記事一覧 無料登録 ログイン
0
-2
kiji
0
0
1230364
0
西欧近代を問い直す
2
0
0
0
0
0
0
政治・社会
お気に入りとは?

お気に入りボタンを押すとお気に入りリストにこのページが追加されます。興味のあるページ・気になったページを後から確認するのに便利です。

お気に入り お気に入り
第7章 不安な個人の誕生 合理主義の行方

『西欧近代を問い直す』
[著]佐伯啓思 [発行]PHP研究所


読了目安時間:41分
この記事が役に立った
0
| |
文字サイズ



あらゆるものを普遍化する姿勢

 前章では、ウェーバーの議論を手がかりに、西欧近代の個人主義の意識がどのような背景から生まれてきたかを論じました。ウェーバーが問題とした個人とは、啓蒙思想が唱えるような信仰から解放された個人でもなければ、ロマン派の作家たちが持ち上げた自由で強烈な個性というようなものでもなく、もっと日常生活を確かなかたちに組織する、合理的で倫理的な市民です。ウェーバーは、こうした合理的で倫理的な生活の組織化こそが「近代」の大きな特徴だといいます。政治思想でいう自由や民主的な意識もそのうえで出てくるものでしょうし、また、経済活動の合理性の意識は、これはまさにウェーバーが論じたとおりですね。

 ですから、ウェーバーにとっては、西欧で資本主義が誕生したことが重要なのではなく、近代的で市民的、合理的な資本主義が誕生したことこそが問題だったのです。この場合の「合理的」とは、活動や人間関係のなかに、できるだけ人格的なもの、主観的なもの、情緒的なものを持ち込まないという意味です。たとえば、ユダヤ人はずっと資本主義的活動を行ってきましたが、それは決して「近代的資本主義」にはならなかった。それはどうしてかというと、ユダヤ人の経済活動は、決して没人格的ではないからです。たとえば、ユダヤ人とそれ以外を区別する。ユダヤ人からは利子を取らないがキリスト教徒からは取る。このように、取引関係が没人格化され普遍化されていないのです。要するに、ユダヤ人の経済活動は共同体の内と外を区別するダブル・スタンダードになっているというわけですね。

 ついでですが、アメリカは九〇年代に、日本やアジア諸国に対して市場競争が公正ではないと主張してきました。アジアの経済は「クローニー・キャピタリズム(身内の資本主義)」だと非難したのです。これは、同族の内と外、そして国の内と外を区別するダブル・スタンダードを暗喩していますね。これではアジアの資本主義はまだ「近代化」していない、とアメリカはいったのです。アメリカの要求が適切なものかどうかは別として、ここには依然として、理念としては、ピューリタン的な市民的資本主義の精神が残っているということかもしれません。

 こうして、合理性とは普遍性でもあるというピューリタン的信念が成立します。合理主義が克服したものは呪術的で、魔術的な思考ですから、「呪術からの解放」はまた、ピューリタン的な文化を普遍化するプロセスですね。実際、客観性をもつことがピューリタン的精神ではきわめて重要ですから、たしかに人間関係や活動の成果は、普遍化されることになります。現代の実証科学のように、だれもがそれを検証でき、伝達可能でなければならない。科学の命題はそれを主張している人が立派な人であるとか、権威をもっているとか、そうした人格的なものには依存しないわけですね。

 経済活動についても同様で、たとえば、中世の職人技術は、これは親方から徒弟に伝達されていく。この伝達は親方と徒弟のきわめてパーソナルな関係のなかで行われますから、他人には真似できないのですが、こうした経済活動はピューリタンでは好まれない。それよりは、だれもが普遍的に活用できる、機械化され、マニュアル化された産業技術のほうが適合するわけです。ここにも、アメリカがいち早く産業技術の成果を取り入れて生産現場を機械化した理由があるのかもしれません。

 同じく信仰生活も、特別な修行を積んで、特別な境地に達する「達人的宗教」はピューリタニズムのものではない。ピューリタニズムは、信仰生活を世俗内の禁欲的生活の組織へと「方法化」してしまうわけで、ここではその信仰者の人格や個性は直接には作用しなくなります。

 近代的合理主義は、あくまで、人間関係を人間のパーソナルな関係から解放し、没人格化し、客観的に伝達可能とすることで、活動を普遍化しようとするわけです。

人間を「鉄の檻」に閉じ込める官僚制の病根

 さて、このように、ウェーバーは西欧のピューリタニズムが、近代社会と個人主義や合理主義を生み出していったと考えました。これらはある種の普遍性をもっていますから、封建的で閉鎖的な共同体を超え出ていってしまうといっても差し支えないでしょう。たしかに、戦後の日本でウェーバーがしきりに読まれたのは、日本のなかに残存する封建的で共同体的な要素をいかにして打ち破ることができるか、というように課題を設定したからでしょう。

 もちろん、ウェーバーの議論は、その課題に対する重要なヒントを示していますが、実際には、ウェーバーの議論は、西欧の近代化を生み出すにあたって果たしたプロテスタンティズムの意義を、ことのほか強調するものなのですね。

 ピューリタニズムは普遍性の契機をもっていて、それがまた重要な問題を引き起こしますが、ピューリタニズムのなかに普遍性の契機があるからといって、その成果がどこへもっていっても通用するということにはなりません。ここでいっているのは、ピューリタニズムという特異な信仰が、その内部から自発的に、しかもまったく意図せず「普遍性」という思考様式を生み出したというだけで、それが、その種の精神態度を生み出していないところにおいても普遍的かどうか、これはまた別の問題です。

 しかし、より重要なことは次のことです。ウェーバーの議論のおもしろさは、ウェーバー自身、西欧の近代化という事態に満足してはいないということなのです。彼は決して近代社会を、合理性が高まり、人間関係が事象的になり客観的になって、それでよいとは考えていないのです。合理性が高まり合理化が進んでいけば、むしろ人間が合理的なもののなかに取り込まれてしまって、あたかも機械の歯車のように変えられてしまう。マルクスの言葉を使えば、人間疎外ですね。それもまた近代の帰結だとウェーバーは見ていたのです。

 それをウェーバーは、「人間は鉄の(おり)に入れられる」と表現していますが、その典型が官僚制なんですね。近代の合理性の精神を制度化したひとつの典型が官僚システムです。官僚制度は、別に役所に限ったものではなく、大企業でも学校でも、近代的組織ならどこにでも生じます。

 それは、もともと行政や作業をシステム化し、作業を合理化するものですね。さまざまな事象をドキュメント(書類)に記録し、その記録を保管して、何かあればすぐにその記録を取り出せるようにする。新しい事態が生じても、可能なかぎり過去の先例を見つけ出し、そこに恣意的な裁量の余地がないようにする。ドキュメントという客観化された出来事の蓄積を通して、合理的に対応しようとするわけです。

 さらに官僚主義は、仕事を人格的なものから切り離していく。没人格化していきます。仕事のなかに、その個人の主観や個性ができるだけ投入されないようにする。そのために、仕事を可能なかぎり「方法化」し、手続き化してゆくわけです。現在でも行政サービスは、ほとんど一定の、しばしば煩雑な手続きを経て、自動的に供出されるものとなっていますね。基本的には、だれが対応しても同じはずなのです。

 ところが、実際には、われわれがしばしば経験するように、官僚制が進んでいくと、逆に仕事が非常に煩雑になり、手続きが面倒になり、しかも手続き至上主義になっていく。手続きが絶対化されてしまって、今度は人間が手続きの奴隷のようになってゆきます。裁量の余地があまりになくなってしまい、官僚的手続きのなかで人間らしい判断が失われていってしまう。
この記事は役に立ちましたか?

役に立った
0
残り:17061文字/本文:20141文字
この記事を買った人はこれも買っています
      この記事を収録している本
      この本で最も売れている記事
      レビューを書くレビューを書く

      レビューを書いてポイントゲット!【詳細はこちら】

      この本の目次