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西欧近代を問い直す
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政治・社会
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第8章 西欧進歩主義の壁 ニヒリズムの時代へ

『西欧近代を問い直す』
[著]佐伯啓思 [発行]PHP研究所


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進歩するほど空虚になる「近代のパラドックス」

 本書では、9・11テロからアメリカのイラク攻撃にいたる流れのなかで、西欧の近代文明とはいったい何なのかという視点から話を始めました。たとえばイスラムと対比した場合に、西欧の近代文明とはいったい何なのかということです。特にアメリカは9・11テロ以降、文明と野蛮の衝突という構図を打ち立て、自由や民主主義、個人の権利、法治主義、平和的市民秩序──こういったものからなる近代文明を保守すると宣言したわけです。

 ところが、これらの「文明」は西欧起源で、それらがイスラムはもとより世界中に共有されているわけではありません。アメリカの指導的な政治家や学者は、それらが世界的に共有されていないのは、その拡大を阻止しようとする独裁政権や宗教的原理主義者やナショナリズムを掲げる伝統主義者、民族主義者がいるためだといいます。だから、これらの「抵抗勢力」を除去すれば西欧近代の価値観は世界化できると考えるのです。西欧近代は普遍的だと見ているのです。

 はたしてそうなのか。西欧近代の価値観はほんとうに普遍化できるのか。これは大いに疑問であると同時に、それほど容易に回答の出せるものでもありません。むしろ、西欧近代の価値の普遍性という意識そのものが、西欧の啓蒙主義思想によって生み出されたものです。ハーバーマスの言葉を借りれば、西欧が始めた「近代というプロジェクト」、すなわち「近代」という企てにほかならないわけです。

 西欧近代の価値観がほんとうに世界化(普遍化)するのかどうかという大きな問題には、ここでは答えられません。そもそも、イエスかノーという簡単な回答を出せる問題ではないでしょう。ただ次のことはいえる。それは、世俗主義、合理主義、自由・民主主義、個人主義、市場競争、法治主義、空間の均質化──こうした西欧近代の価値が世界化すればするほど、それらは具体的な内実を失って形式化し、抽象化し、一般化してゆくでしょう。そして、近代主義者はそのときに、この形式化、抽象化、一般化をもって「近代」の徹底と見るでしょう。ここに、歴史の進歩を見るでしょう。

 しかし、この場合に、それらに具体的意味や内実を与えるものは何なのでしょうか。自由や平等は抽象的価値です。では、具体的に自由の内容と範囲を、平等の実質内容を決めるものは何か。むろん、あらゆることにおいてすべてが平等などということはありえません。その場合に、平等の実質内容を決めるものはいったい何なのか。また、法は形式的ルールで普遍的だとしても、その法の具体的な内容を決定するものは何か。

 そこには、どうしても、その社会独特の文化や歴史や伝統的規範意識を持ち出さざるをえません。近代的価値だけで済む話ではないのです。ここに、ある社会に特有な文化や伝統的価値と西欧的近代的価値の衝突と調和、あるいは調整という課題が出てくるわけです。このことが意味しているのは、伝統的価値や規範から解放され、それを打破して「近代」が出現するという「進歩主義」の図式で事態を理解してはならない、ということなのです。もしこの図式を現実に当てはめてしまいますと、自由、平等、権利、法治、市場競争といった抽象的で一般的な形式だけが絶対化されてしまって、その内実を確定することができなくなってしまうからです。

 結果として内容空疎な自由、形式だけの平等、人格の陶冶をもたない個人主義、無制限に拡張する市場競争といったものが出現してしまうでしょう。これは近代主義の弊害といわねばなりません。あるいは、近代主義が陥ったアポリアといわねばなりません。「近代」の価値が別に間違っているわけではありません。その「近代」を普遍化し、それを伝統的社会と対立させて理解する「近代主義」が間違っているのです。そして、この弊害は、とりわけ西欧的価値を普遍的なものであるとみなして、伝統的な価値規範に置き換えていった今日の日本に著しいのではないでしょうか。

 では、当の西欧社会ではどうなのか。西欧では近代の企てはうまくいったのでしょうか。こう問えば、答えは明らかに否です。すでに、十九世紀の末から二十世紀の初頭にかけて、西欧においても「近代主義の挫折」という意識が濃厚に現れてくるのです。しかも問題の構造は同じです。

 西欧近代は、「近代主義」「進歩主義」という価値を高く掲げて推し進められてきました。そして、その近代的価値が徹底すればするほど、その価値は空洞化し、それが本来目指したのとはまったく異なったものを生み出していってしまうのです。ここに「近代のパラドックス」というべき事態が生じてきます。そして、もしも二十世紀という時代が、世界中でそれなりに「近代化」が達成され、また「近代化」が高い価値を付与された時代だとすれば、西欧社会が二十世紀の初頭に直面した事態は、もはや決して西欧だけの問題ではないのです。

 しかも今日、再び西欧近代の普遍性という意識が強烈に現れているところをみると、まさに、「近代のパラドックス」は現代文明の決定的な問題となるのではないでしょうか。そのことを明らかにするために、この最後の章では、西欧近代の消息を論じておきたいと考えます。

自由や民主主義の実現は同時にニヒリズムをもたらす

 9・11テロからイラク攻撃にかけてアメリカの政策に決定的な影響を与えてきたのは、いわゆる「ネオコン(新保守派)」と呼ばれるグループでした。彼らは、アメリカの(西欧の)自由、民主主義、人権などの価値は普遍的であり、それを世界に広める使命をアメリカはもっていると考えています。その場合に、自由や民主主義に敵対する独裁政権や原理主義者、暴力主義者(テロリスト)がいれば、これを武力で制圧すべきだという。これは、西欧の近代主義がとったもっとも強硬なスタイルですね。

 しかし、たとえばネオコンと呼ばれる人たちの思想的ルーツになっているレオ・シュトラウスは、前にも述べましたが、たしかに西欧近代的な価値に強い意味を与え、それが普遍的だと考えていますが、同時に、それはあくまで西欧の文脈においてはじめて出現したと強調するわけです。レオ・シュトラウスやアラン・ブルームは、西欧近代といえど、あくまで古典古代的な世界をその背景に持っていると考えています。古典的世界を克服しつつも、それを継承したもの──この二重構造になった歴史的文脈を把握しなければ、西欧近代の価値を理解したことにはならないのですね。

 ですから、レオ・シュトラウスは、西欧近代が世界化することによってむしろ、近代世界は一種の価値喪失に陥ってしまう、すなわちニヒリズムを生み出してしまうことを知っていました。重要なのは、この負の認識です。

 これは最初にお話ししたフランシス・フクヤマにおいてもそうですね。フクヤマも「歴史の終わり」の時代は、西側の自由や民主主義、特にアメリカが掲げる普遍的な自由や民主主義が勝利したといいつつも、それが同時に、歴史をダイナミックに動かしていく人間の気概(テューモス)を失わせ、名誉や承認を求める闘争の場を奪ってしまうと主張するわけです。

 だから、ある意味で自由や民主主義が実現した時代は、非常に退屈でつまらない時代でもある。そのような退屈を人間はどうやってやりすごすか。そのことがむしろ、今日的な問題だということはできるでしょう。これはニヒリズムと呼ばれる問題です。まさに、そこにこそ現代文明の課題があるといってよい。現代とは、何よりも虚無の時代、ニヒリズムの時代、あるいは退屈な時代──そういう時代をわれわれは生きているのです。

確かな価値観を自ら放棄した時代

 西欧社会は二つの源泉をもっているとよくいわれます。古典古代の遺産とユダヤ・キリスト教です。しばしばヘレニズム的伝統とヘブライズム的伝統といわれたりもしますが、この両者が現代にいたるまで、未だに西欧社会や思想の根底に流れていることは否定できないでしょう。
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