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西欧近代を問い直す
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政治・社会
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解説

『西欧近代を問い直す』
[著]佐伯啓思 [発行]PHP研究所


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小浜逸郎 


 佐伯啓思さんは、現代日本では、どこまでも自前でものごとを考え抜こうとする数少ない社会思想家、文明史家の一人です。彼の思考スタイルの特色は、ひとことで言うと、現代社会で当然と思われている価値や主義に対して、執拗にその意味を問い、その史的淵源を丁寧にたどり、そしてその価値や主義が必ずしも普遍性を持たない事情を明るみに出すというところにあります。権威や普遍性を僭称するイデオロギーに対して常に懐疑を突き付けること──これは思想の営みにとって、なくてはならない条件と言えるでしょう。

 そのため彼は、知的武装の範囲を、経済学から政治学、社会学、歴史学、心理学、哲学と、じつに広域にまで広げ、しかも硬直した原理主義や堅苦しい専門知的構えを退け、どこまでもそれらの知的武器を柔軟・平明かつ論理的な文体を通して活用させます。その結果、彼自身の問題意識が、読む人の誰にとっても「これは大きな問題だ」と感じざるを得ないような形で伝わる仕組みになっています。


 この本は、「はしがき」にもあるように、京都大学の講義をまとめたもので、そのまま社会思想に初めて接する人たちのための優れた教科書として使えると思います。この本自体が社会思想解説としての側面を持つので、筆者ごときが新たな解説を加えることで余計な屋上屋を架す(おそ)れなしとしません。しかし、佐伯さん自身も断わっていますが、この「社会思想解説」は、単なる中立的で無機質な学者的性格のものではなく、そこには明瞭な思想的バイアスがかかっています。独特の手つきと息吹が感じられると言ってもよいでしょう。

 そのバイアスとは、もちろん右か左かといった話ではありません。私たち近代人の生活や精神の全般にかかわる著者の問題意識が色濃く出ているという意味です。その側面を見落としてしまうと、この本のメッセージを正しく受け止めたことにならないので、この解説では、著者の問題意識になるべく寄り添う形で、言葉を連ねてみたいと思います。


 少々私事に及びます。この本が書かれた二〇〇三年ころ、筆者は「人間学アカデミー」という連続講座を主催しており、佐伯さんを講師としてお呼びしました。それからも幾度となくお世話になったのですが、じつをいうと、このはじめての出会い以前は、筆者はさほど佐伯さんの熱心な読者ではありませんでした。「人間学アカデミー」は、ちょうどあの9・11テロ(二〇〇一年)の直後に始めたのですが、今まで自分が考えてきた領域の狭さを痛感していた時期に、まるでそのことを思い知らされるかのように9・11が起きたのです。

 同じ年、佐伯さんは、『国家についての考察』(飛鳥新社)という大著を出します。筆者は国家の本質について考察したこの著作に大きな影響を受け、おそらくそれがきっかけのひとつとなって彼をお呼びしたのだと記憶しています。

 懇親会の折、彼が二つのことを語ったのがとても印象的でした。一つは、「われわれが生きているこの時代には、西欧的な教養を軸としてものを考える以外には手がなく、これはもうどうしようもないことなんですね」という言葉。もう一つは、「ルソーは全体主義者です」という言葉。

 初めの言葉には、日本近代が西欧から受けた政治的・社会的・文化的衝撃の巨大さが象徴されていると同時に、手ひどい敗戦を経験した以後の世代である「われわれ」にとって、という含みも感じられ、そのペシミスティックな調子に深く同意できるものがありました。

 いささか虚を突かれたのは、後者の断定的な言葉でした。前掲書にはすでにその断定を裏付ける緻密な論理が展開されてはいたのですが、面と向かって言われると、そうだ、そうだとすぐに同調するわけにもいかず、果たしてそう言い切れるかどうか、ルソーの『社会契約論』を読み直して、もう少し自分なりに考えてみようと思ったものです。


 さてこの二つの言葉は、この本の基本的なモチベーションにも深く絡んでいることがお分かりだと思います。

 この本には、西欧に始まって先進世界を席巻するに至った「近代」という精神様式や政治経済システムがどういう性格のものであり、何を源としているのか、そしてその精神様式や政治経済システムが現在どんな運命をたどろうとしているのかという問題が繰り返し登場します。その最大の重点は、ルター、カルヴァンらの宗教改革による新しい人格の出現と、その人格が根源的にはらむことになった自我の不安というところに置かれています。この不安を個々人が抱えて社会を構成する限り、近代という時代は本質的に価値喪失のアポリアを抱えた時代であるという現実が、逃れようもなくあらわれます。

 自由、平等、人権、産業資本主義、民主主義、そして科学的な真理などの近代的諸価値やシステムは、西欧のキリスト教の歴史的な展開の中からゆっくりと、しかも内的な必然性をもって生まれてきたものですが、いったんそれらが普遍的価値として承認されると、かつての神は外部に押しやられ、人々はその穴埋めとしてこれらの価値によりすがらざるを得なくなります。

 しかしそうなると人々は、今度は自己存在の無根拠と不確かさとに悩まされずにはおれない。そういう逆説的事情とそれに対する危機意識が、この本では一貫して語られています。そしてこれは本当は、西欧近代が生み出した価値の上澄みに無自覚に頼ってしまった日本の問題である──佐伯さんはじつはそう言いたいのだと思います。

 この問題は、依然として深刻で、現に西欧近代をとらえる日本の知識界の主流は、たとえば、いまだにフランス革命を近代発祥の輝かしいメルクマールと考えており、さらにその基盤となった民主主義思想の元祖はルソーということになっています。ルソーの思想は、じつはそんなに単純な進歩史観でとらえられるものではなく、それまでのヨーロッパの精神史的な背景や彼の古典古代モデルへの強い憧れなどを考慮に入れなければ理解できない複雑なものです。

 佐伯さんは、よくその複雑さを見抜いたうえで、やはり彼の「一般意思」の原理をそのまま押し進めていけば、特殊な権力者が反対者を徹底的に排除する全体主義に帰着するという論理を丁寧に説いています。じっさい、フランス革命や、この革命思想の嫡出子である共産主義革命は、そのような悲惨な帰結をたどりました。

 ただ、ここで一言だけ筆者なりの但し書きをはさんでおくと、社会思想という抽象水準におけるロジックとしては、ルソーと全体主義の歴史との間に線を引くのは誤りとはいえませんが、この線引きを短絡に終わらせないためには、ルソーという人間の出自や独特の感性、彼の生きた時代背景、またその考え方の継承者による変形や、その後の社会情勢などをよく見ておく必要があります。
「一般意思」という理念を生かそうとすると、現実の統治者は自分こそがその代表者であると主張して、民主政を悪しき専制政治に転化させる結果になりがちなことは、ルソー自身も民主政の危険として指摘していますし、その後の歴史もこの事実を証明しました。ですから、ルソーを単に「よき近代民主政」の生みの親とみなすことはもちろん、「悪しき民主政」の結果としての全体主義の元祖とみなすことにも慎重でなくてはなりません。


 ところで先に述べたように、この本は、9・11テロの二年後に書かれています。じっさいに講義されたのはもっと早く、おそらく直後に近かったでしょう。自由・平等・人権・民主主義なる西欧近代の価値を普遍的価値として臆面もなく前面に押し出す近代主義国家アメリカ。そのアメリカに真っ向から挑戦したあのテロとほとんど隔たらない時期に、こうした近代主義を深く懐疑する講義が行なわれたのです。この事実にある因縁を見出すのは、おそらく筆者だけではありますまい。

 冷戦崩壊後の束の間の一〇年、アメリカは資本主義の勝利に酔い、覇権国家としての面目を世界に見せつけました。冒頭に出てくるフランシス・フクヤマの『歴史の終わり』(一九九二年)なども、こうした世界史的な文脈の中でとらえられるべきでしょう。

 ところが豊かな近代化を成し遂げていない(あるいは、西欧的近代化という発想とは無縁な文化圏である)中東世界から、「自由で寛容な」近代国家の脆弱な脇腹を突き刺す驚くべき強いメッセージが発出されました。この事件を境として、世界の様相は一変したといっても過言ではありません。それはひとことで言えば、アメリカの覇権の終わりであり、ホッブズの言う「自然状態」にもなぞらえうる国際社会の多極化です。北アフリカ諸国の混乱、中国の強引な膨張主義、EU崩壊の危機、ウクライナ紛争、「イスラム国」の不穏な台頭、スコットランドやカタルーニャ地方独立の気運など、近年の国際情勢を瞥見(べつけん)しただけでも、この事態を示す証拠には枚挙にいとまがありません。

 言葉は悪いですが、これは一種のやくざたちの跳梁跋扈(ちようりようばつこ)なのです。私たちはいま、佐伯さんがこの本で指摘する、ヨーロッパの中世から近代までの三〇〇年間にわたる長い端境(はざかい)期に近い状態に、しかも今度は地球規模で差し戻されたと言えるでしょう。その意味では、この本のサブタイトルにある“人間は進歩してきたのか”という疑いは、今こそ提起されるべき問いとして的確そのものというほかありません。

 欧米諸国が掲げてきた「自由・平等」の看板にはまた、経済のそれも含まれます。この理念の正しさをいまだに信奉し続けているグローバリストたちは、金融資本の巨大な流れをそのまま肯定し、国境を越えた資本の「自由」な移動と、各国のバリアをなくして「平等」に取引する方針とを積極的に押し進めつつあります。

 その弊害は今日いたるところに噴出しています。資本の「自由」な移動が中小国の外資依存を余儀なくさせてそれらの国民を「不自由」にし、「平等」な取引という建前が、ごく一部の層への富の集中と格差の拡大という「不平等」をもたらす皮肉な事態を生んでいます。このままいけば、今後世界経済は不安定化の一途をたどるでしょう。それはまた、戦争や革命の危機にもつながります。


 結局、佐伯さんがこの本で提起している問いは、西欧近代が生み出した価値やシステム全般にかかわるものであって、それは私たちの精神的な生のみならず、物質的な生そのものも脅かす危険に対する警鐘なのです。

 自由主義─資本主義を普遍的価値としてきた先進諸国は、いま根柢からその見直しを迫られています。それは単に国際政治の力学として世界が多極化しつつあるという意味にのみとどまるものではありません。

 たとえば、自由・平等・人権・民主主義などを看板に掲げて世界をリードしてきた欧米先進国(および日本)は、GDPこそ大きな割合を占めているものの(G7合計四六・六%)、人口では一〇・六%(同じくG7合計)にすぎません。その一方で、中国、インド、ロシア、ブラジル四か国の人口合計は四一・九%に及びます。これらの国々をはじめ、中東地域を含めたその他の発展途上国に、西欧近代の普遍的価値なるものがそのまま素直に浸透していくとはとても考えられません。というのも、これらの国々が西欧とは著しく異なる独特の文化を持つからで、その文化が、もともと資本主義の抱える矛盾の深化にともなって、西欧近代の諸価値に対してあからさまな抵抗を示すとき(現に示しつつありますが)、世界は緊張と混沌のるつぼと化すにちがいないからです。

 これはまさに、この本でも取り上げられているサミュエル・ハンチントンの「文明の衝突」です。ことはノーテンキな一部の知識人が唱える異文化相対主義などで片づく問題ではないのです。

 私たちは、新しい「普遍的価値」など当分生み出すことはできないでしょう。ただできるのは、いかなる「普遍的価値」の僭称に対しても、己れが身近な場所で真に実感できる文化伝統のよい面への自覚を通して、健全な懐疑を対置し続けることです。佐伯さんのこの本は、そのことの大切さを強く訴えているように筆者には思われます。日本の若い読者に広く読まれることを願ってやみません。
(批評家、国士舘大学客員教授) 
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