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日本占領と「敗戦革命」の危機
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歴史
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第三章 戦時下での米中結託と野坂参三

『日本占領と「敗戦革命」の危機』
[著]江崎道朗 [発行]PHP研究所


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野坂参三はコミンテルンによって延安に派遣された


 中国共産党による「心理戦争」は、シナ事変勃発からおよそ二年あまりで、次の段階に進む。


 一九三九年十一月、山西省で八路軍の指導の下、日本人捕虜たちによって「日本兵士覚醒連盟」が組織されたのだ。


 覚醒連盟は『弁証法的唯物論』や河上肇の『貧乏物語』などを学習しながら、最前線の日本軍兵士に向けて、ビラやメガホンや電話などを使った「反戦」プロパガンダ活動を行なった。連盟は当時、劉伯承の第一二九師団政治団員だった鄧小平の指揮下に入っていたという。(1)


 そこに一九四〇年三月、ソ連のモスクワからやってきたのが、創立以来の日本共産党員であり、コミンテルン日本代表を務めた野坂参三である。野坂は延安での対日捕虜工作の中心人物となり、以後、第三段階と第四段階、すなわち日本人捕虜によるプロパガンダ戦と、日本の敗戦革命に備えた工作員の養成が本格的に進んでいくことになる。


 延安での野坂の活動を語る前に、野坂の経歴をざっとまとめておこう。


 野坂は一八九二年、山口県に生まれ、一九九三年に百一歳で死歿。百歳まで日本共産党名誉議長の地位にあったが、最晩年にソ連のスパイだったと告発され、除名されている。モスクワにいた一九三〇年代に、同じくモスクワに滞在していた日本共産党員の山本懸蔵を密告し、粛清させたとして批判されたことを受けてのものであった。また一説には五重スパイだったともいわれるが、真相は明らかでない。


 野坂は幸徳秋水の大逆事件に衝撃を受けて社会主義に関心を持つようになり、一九一九年にイギリスに留学すると、翌年、イギリス共産党創立と同時に党員になった。帰国後は一九二二年の日本共産党創立と同時に入党し、一九二八年、共産党員の一斉逮捕に伴って逮捕された。そして目の病気のため二年後に仮釈放された。


 このあとの野坂の動きは、ジャーナリストであった大森実氏の『戦後秘史3 祖国革命工作』によれば次のとおりである。


 仮釈放された野坂は一九三一年、日本共産党中央委員会にコミンテルン行きを命じられ、特高の監視の目を欺いて妻の竜夫人とともにソ連に密航した。コミンテルンでは日本共産党代表として勤務している。(2)


 野坂はその後、一九三四年から三八年まで、あいだに一年間のブランクを挟んでアメリカで活動していた。満洲事変後、それまで上海─ウラジオストクを経由してコミンテルンから日本の共産党員に指令を伝えていたネットワークが断たれたので、アメリカ西海岸で日系共産主義者のネットワークを組織し、コミンテルンから日本への情報伝達経路を作り直すためである。


 野坂のアメリカ西海岸での活動は、アメリカ共産党の指導者アール・ブラウダーの強力なバックアップを得て行なわれた。ブラウダーは上海で汎太平洋労働組合書記局(プロフィンテルン極東支部)を創設した人間なので、中国系・朝鮮系・日系共産党員との人脈を豊富に持っていた。野坂の指示で、日系人のアメリカ共産党員ジョー・小出らが地下印刷で日本向けの文書を印刷し、日本に送りだしていた。バンクーバーからサンペドロ(ロサンゼルスの外港)におよぶ一大ネットワークであった。(3)


 一九三八年にモスクワに戻った野坂は、一九四〇年三月二十六日に中国共産党の本拠地であった延安に入った。野坂の語るところによれば、中国を経由して日本に潜入するつもりでいた、しかし周恩来に日本兵捕虜の面倒を見るよう頼まれたので延安にとどまることになったという。(4)


 だが、東京大学名誉教授の和田春樹氏は、こう指摘している。

《日本への潜入は即逮捕ということになり、疑問の多い選択であった。だから、中国行きは中国での活動を第一に考えてのものであったはずであり、当然に野坂の発案であったにせよ、コミンテルンとしての派遣決定によるものと考えるのが自然である》(5)


 そして和田氏は、一九四五年八月十日付のディミトロフ(野坂の延安行き当時のコミンテルン書記長)とポノマリョフ(同、コミンテルン執行委員会メンバー)意見書を次のように引用している。

《「一九四〇年に日本軍解体工作において中国共産党を助けるために、また延安(中国)に日本人反戦センターをつくり、日本内の共産党員との連絡をつけるために、コミンテルン執行委員会の指導部によって延安に岡野進(本名野坂鉄)が派遣された」》(6)(括弧内は原文のまま)


 要するに、ソ連・コミンテルンの指示で中国共産党とともに「敗戦革命」の工作員養成を担当したということだ。


 ちなみに文中の「岡野進」は野坂の変名である。延安ではほぼずっと岡野進で通していたようだ。


より多くの日本兵捕虜を敗戦革命のために訓練せよ


 野坂の延安入りから間もなく、大きな動きが二つあった。


 第一は、日本人捕虜を使った反戦組織の拡大である。


 一九三九年十一月に覚醒連盟を創設した八路軍指導部は、一九四〇年五月、反戦同盟延安支部を結成している。反戦同盟というのは国民党政府のある重慶で鹿地亘という活動家が日本人捕虜を組織して結成したもので、一年あまりで国民党軍事委員会に解散を命じられ、活動が頓挫していた。八路軍は、延安の反戦団体を名目上その支部として創設している。


 八月には華北で八路軍による百団大戦が行なわれた。八路軍が百個団(連隊)以上の戦力を投入して日本軍と戦った最大規模の作戦で、大きな戦果を挙げたとされるが、八路軍側の死傷者も多く、中国共産党が喧伝するとおりの大勝利だったかどうかは疑問が残る。とはいえ、このときに多数の日本兵が捕虜になったのは事実だった。


 大勢の捕虜を得たことで、これ以後、覚醒同盟や反戦同盟など日本人反戦組織が中国各地にさらに拡大していった。(7)


 これらの組織は覚醒同盟と反戦同盟の統合を経て、一九四四年二月に「日本人民解放連盟」に改組される。一九四四年四月の時点で、華北だけでも二二三名の日本人がメンバーになっていた。(8)


 第二は、日本人革命兵士を養成するための日本労農学校の設立である。


 労農学校は一九四〇年十月、野坂を校長として延安で開設された。設立時の学生数は一一名だったが、一カ月後には約三〇人に増え、卒業者数は延べ約三〇〇人いたという。同年十月二十六日には労農学校生三五名が東方諸民族反ファシスト大会で、八路軍加入を宣誓している。(9)


 日本人反戦組織や労農学校は、抗日戦での心理戦のために使われたのはもちろんだが、最終的には日本の敗戦革命を目的としていた。在華日本人反戦同盟華北連合会綱領の第三条にそのことがはっきり謳われている。

《軍部は日本人民を圧迫し犠牲にして他国を略奪する野蛮な侵略者であり、現在の政府は軍部独裁の戦争政府である。したがって我々は、これら人民の敵を倒し、平和と自由と幸福をもたらす人民の政府を樹立しなければならないことを日本兵に確信させるために闘う》(10(傍線強調は引用者)


 また、一九四四年末に書かれた「八路軍の敵軍工作」という文書には、「今後、より多くの幹部を日本革命のために訓練すべく、捕虜をできるだけ数多く収容することが原則的に決定されている」と書かれていた(11(傍線は引用者)

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