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教科書には載せられない 日本軍の秘密組織
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歴史
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【ソ連の脅威を探ったシベリアの諜報機関】ハルビン特務機関

『教科書には載せられない 日本軍の秘密組織』
[著]日本軍の謎検証委員会 [発行]彩図社


読了目安時間:6分
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日本軍の秘密組織


勝敗を左右する諜報活動


 現代戦を進める上で欠かせない行動の一つが諜報活動、いわゆるスパイ行為である。敵地から様々な手段で情報を盗み、敵国内部にスパイを送り込んで内部工作により国力を疲弊させる。そうすれば、自国は入手した情報で戦闘を有利に進めることができるし、敵国は国内の混乱で戦争どころではなくなるというわけだ。


 こうした諜報活動を日本で担ったのが、陸軍や外務省の「特務機関」と呼ばれる組織である。


 1885年、朝鮮半島での影響力を強化したい清国や、アジア進出を目指すロシア帝国との開戦を危惧した日本は、陸軍の(はぎ)()(すえ)(きち)をウラジオストクへ駐在官として派遣し、大陸やシベリア方面の情報を収集させた。これが陸軍による諜報活動の始まりだと言われている。


 日清戦争後には、陸軍の参謀本部が多数の情報将校(情報収集や謀略活動を任務とする役職)を(まん)(もう)地域(満州及びモンゴル周辺)とロシア国内へ派遣する。日露戦争勃発後に、ロシア国内で反政府勢力へ支援を行い、国力を衰退させた(あか)()(もと)()(ろう)大佐の活躍は有名だ。


 こうした諜報活動は日露戦後も継続され、太平洋戦争前後には専門の特務機関が活動を任されていた。その一つが、満州の都市ハルビンに設置された「ハルビン特務機関」だ。



満州の対ソ謀略組織


 日本海軍がアメリカを仮想敵とした一方で、陸軍の警戒対象は終始ロシア、そして革命で成立したソ連であった。


 朝鮮併合と満州建国で国境は事実上地続きとなり、その脅威は日露戦争時とは比較にならないほど高まっていた。従って、最も長く国境を接する満州は、必然的に最重要地域となり、陸軍が最も諜報に力を入れることになったのだ。


 そうした諜報活動が活発化したのは、「シベリア出兵」(社会主義政権の打倒を目指して日本とヨーロッパ各国が行った軍事行動)直前の1918年初頭だった。陸軍では、シベリアでの正面戦闘以外の活動、すなわち、「情報収集」や「敵地への宣伝工作」「日本に味方する勢力とのコンタクト及び育成支援」などの諜報業務を、戦闘区域でどのように行うかが課題となっていた。


 これらの問題をクリアするため、参謀部は司令官指揮下に専用の工作組織を置き、現地活動を可能にしようとした。このとき設立された特務機関の一つが、ハルビン特務機関だった。


 その後、シベリア出兵が失敗に終わると、日ソの国交樹立でソ連国内の特務機関が閉鎖していく。一方、ハルビンをはじめとする満州方面の特務機関は、引き続き情報収集を続けた。


 昭和に入り、大陸での日本軍進出が活発化すると、各機関は1940年4月に関東軍直属の「関東軍情報部」へと改変され、ハルビン、チチハル、(ほう)(てん)、アパカといった各地の特務機関はその支部として組み込まれた。こうして巨大化した諜報網は満州全域に広がり、最盛期には機関員が4000人を超えたといわれている。


諜報活動と外国人部隊の設立


 特務機関内には対ロシア人工作専門の「白系露人事務局」が置かれ、協力者の増加を狙った宣伝工作や機密情報の入手を行うと同時に、手に入れた文書は「文書諜報班」が独自に分析と翻訳を実行。これらは1936年11月に制定された「()()(ビン)機関特別諜報(哈特諜)」に基づく活動で、ソ連共産党から逃れてきた亡命ロシア人の協力を得つつ、ソ連総領事館の現役電信員をも引き込み、かなりの情報を仕入れていたという。


 しかし、ソ連も特務機関の動きは察知していたようで、ニセ情報を掴まされることも多かったといわれている。さらには手に入れた情報も、諜報戦を軽視する関東軍上層部の不理解で、作戦に活かされることは少なかった。


 その一方で、成功を収めた活動があった。外国人部隊の設立だ。



 満州には革命後のソ連から亡命してきた白系ロシア人が多数いた。そうした反ソ派を中心に1937年に設立されたのが、約250人のロシア人兵士で構成された「浅野部隊」だ。同年には下部組織の()(たん)(こう)機関が「(おう)(どう)()()(たい)」を、1944年にもハイラル北方の警備を担当する「コサック警察隊」も編成。最大150人と小規模ではあったが、満州国軍の正規部隊として1945年まで配備されていたのである。


 また、ロシア人だけでなく、モンゴル人による部隊も編成されていた。その部隊は第868部隊、通称「磯野部隊」という。1941年9月に約800人のモンゴル人を集めて編成された部隊であり、目的はモンゴル方面の防衛と敵地での謀略活動である。


 当時のモンゴルはソ連の影響下にあったので、日ソ開戦時の活躍を期待されていた。しかし、対ソ戦の可能性は日ソ中立条約締結によって事実上なくなり、2年以上も外蒙古(ゴビ砂漠の北側)で飼い殺しとなってしまった。


 1943年にようやく移動が命じられたが、行き先は中国東北部の(こう)(あん)で、部隊名は「第53部隊」に変更。翌年には関東軍へ転属となって、「第2遊撃隊」として満州西方の防衛に就かされたのである。ただ、状況に振り回されはしても日本を裏切ることはなく、1945年8月のソ連侵攻でも松浦友好少佐に指揮され果敢に戦っている。


 そして特務機関が考案した中で、最大規模の作戦が「K号工作」である。日ソが開戦したらニセのソ連軍警備艇を使い、工作員をソ連兵に変装させて、アムール川の鉄橋や川沿いの施設を爆破するという壮大な計画だ。


 作戦は中止となったが、実行されていればソ連戦の推移も少しは違っていたかもしれない。


ハルビン機関の終焉


 ハルビン特務機関は数ある特務機関の中でも活動期間の長い組織であり、それ故に戦史で名を残した名将・謀将には機関出身者が少なくない。東条英機の後任として総理大臣となった()(いそ)(くに)(あき)、満州事変の立役者の一人である()()(はら)(けん)()、そしてポツダム宣言受諾後に千島列島へ攻め入ったソ連軍を食い止めた()(ぐち)()(いち)(ろう)など、彼らは全員、ハルビン特務機関の構成員か機関長を経験していたのである。


 まさに日本の謀略面における最古参とも呼べるハルビン特務機関だが、1945年8月9日のソ連参戦とその後の満州制圧でその歴史に幕を閉じた。モンゴル人部隊はソ連軍の数に押し負け戦線離脱を余儀なくされ、白系ロシア人部隊も再結集したものの、関東軍にソ連軍と間違えられて、誤爆により全滅するという悲劇的な結末を辿っている。

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