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聖書がわかればアメリカが読める
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人文・科学
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プロローグ アメリカ魂は三層構造になっている

『聖書がわかればアメリカが読める』
[著]鹿嶋春平太 [発行]PHP研究所


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日本は本当のアメリカを知らずに戦争を仕掛けた



 二十世紀はアメリカの時代だった。二十一世紀に突入した今もなお、世界はアメリカを中心に動いている。それどころかますますアメリカがデザインする構図のなかで展開しつつある。


 資本主義革命を経て繁栄の極みに達したヨーロッパは、二十世紀に入ると活力を失っていった。対して、若いアメリカは国力を増し、バイタリティに満ちた繁栄を築いた。そして第一次世界大戦でヨーロッパの大部分が焦土と化した。ヨーロッパが深いダメージから立ち直るのに手間取っている間に、アメリカは世界をリードする大国となった。軍事的、経済的大国というだけではない。科学技術、生活文化でも世界をリードし、常に新しいものの発信地として時代の流れをつくっていった。


 二十世紀における日本最大の愚策は、このアメリカに戦争を仕掛けたことである。結果は壊滅的な敗北であった。彼らは自由の敵に対しては徹底的に戦う。生命の危険を冒しても戦う。魂の自由のためなら、現世での自己の肉体を犠牲にしても戦うのである。だから、日本が三国同盟を結んだ時点で、すでに太平洋戦争は必然であった。時の外相・松岡洋右はそのことがまったく見えなかった。アメリカ人のそういう精神層に盲目だったのである。


 彼は一三歳で渡米し、オレゴン大学の夜間部を苦学して卒業した。帰国後、外交官を経て近衛内閣の外相となった。そして、長いアメリカ生活を通じて、アメリカ人には弱いものを軽視し、強いものを尊敬する傾向があることを体験上知った。その確信をもとに、三国同盟をほぼ一人でとりまとめた。外交をほとんどやらない近衛首相は、すべて松岡に丸投げだったと言う(須藤眞志『ハル・ノートを書いた男』文藝春秋、一九九九年)。


 力をもたないとアメリカになめられる。ナチス・ドイツは強いから、ヒットラーと組めば日本は重視されるという確信が松岡の基底にあった。ところが、アメリカ人の精神は、もう少し多層構造になっている。「強い物好き」という気質の根底には「いかに強かろうが、自由の敵とは結局戦うしかない」という意識層が横たわっている。それは、彼らの世界建設の使命感と結びついている。事が進めば、結局はこれが頭をもたげてくるのだ。


 アメリカにとって、独裁的なナチス・ドイツやムッソリーニのイタリアは自由と民主主義の敵であった。政治交渉やパワーゲームの相手ではなく、つまるところは叩きつぶすしかない存在であった。だから、日本がこれらの国と同盟したその時点で、太平洋戦争の勃発は決まったようなものであった。

ハル・ノート」の解釈を誤ったとか、真珠湾攻撃をアメリカ大統領は知っていたとかいうのは、枝葉のことにすぎない。エネルギー資源封鎖体制をしかれるようなまずい外交さえしなかったら、というのも同じである。遅かれ早かれ封鎖されるしかなかったのだ。


日本はアメリカの制度や仕組みをなぞるだけ



 敗戦後、日本人はアメリカ進駐軍を目の当たりにした。そして物質的な豊かさや先進的な科学技術に驚いた。これでは勝てるわけがないと心底納得し、一転アメリカをめざして頑張ることになった。昨日の敵が憧れの国になり、追いつけ追い越せの目標となったのである。


 けれどもアメリカの物質的、文化的な繁栄、制度としての民主主義、能力主義、合理主義は、木の枝に咲いた花や実であるにすぎない。「なぜそうなのか」「その根底に何があるのか」という理解を抜きにして、制度や仕組みだけを輸入しても根づき難い。花を咲かせた土壌を知り、これを日本の土壌に植え替える際に計算に入れなければならない。そうでないと、もってきてもしばらくすると変質が始まる。短期の間にはそれなりの機能を発揮するが、しばらくすると歪みがひどくなって支障が出てしまう。それが日本の戦後の歩みである。そして、今まさにわが国はその渦中にあるのだ。


 戦後の日本はアメリカと喧嘩をすることだけは避けようと、いわば言いなりに近い状態でアメリカにくっついてきた。アメリカのものをどんどん取り入れた。まるで第二のアメリカになったようだった。


 だが、その奥にある精神層は、相変わらず見えていない。今われわれは、彼らの精神の奥底にあるものを理解しなければならないのである。


アメリカ魂はまずは二つの意識層がつくる



 では、アメリカ人の心の奥には何があるのか。アメリカ魂というのは本当にあるのか。それがわかればアメリカがわかる。だがそれは単純ではない。わかったと思っても、その奥があり、さらにそのまた奥がある。それがわれわれのアメリカ理解をさまたげるのだ。彼らの意識は三つの層からなる重層構造になっている。まずは上部にある二つの意識層から見ていこう。

1.合理的リアリズムの層


 彼らの最上層にある意識は、合理的な「リアリズム」である。リアルに見れば、現実を動かすものは、やはり力(パワー)である。彼らは、子どもじみた理想をもち込まずに力を直視する。そこでは、政治的、軍事的、経済的なパワーをどう獲得するか、そしてどう操るかが問題となる。


 アメリカ人が強いものが好きで勝者を英雄視するのは、この意識層から来ている。単純と言うか、素直なのである。ともあれパワーを巡るこうした意識がまず上層にある。

2.肉体より霊という意識層


 次に、その下には第二の層とも言うべき意識層がある。それは、聖書信仰の「霊」と「肉体」の二元論的存在観に基づいている。彼らは、霊は永遠に存続するものと考えている。だから、たかだか一〇〇年存続するにすぎない肉体よりも、霊が大事となる。この世のパワーなどの現実よりも、霊の問題のほうが実は彼らにはもっと大事なのである。


 後述するが、霊は意識体とされている。人の意識の本体は、脳神経などの肉体的なところではなく、霊にあるとするのである。だから、現世で人が抱く意識は死後も霊のなかで存続すると考える。したがって、彼らの思考がこの層まで降りると、割合簡単に肉体の死をおそれずに正しいことのために戦う人に変貌するのだ。

現世合理主義」と「霊本位主義」、この二つの意識が、時に応じて交互に出てくる。だから複雑なのだ。それは彼らに現実的メリットも与えている。彼らは、聖書における霊思想に世界観や人生観のベースを置いている。ここで、実は最終的な夢や希望を見いだしている。すると、この世の現実に対してはあまりたくさん夢をもち込まずにやっていけるようにもなるのだ。


 すなわちその分、現実社会に対してクールなリアリズムを保つことができるようになる。彼らの「現世合理的リアリズム」は、それ故に純度の高いものになる。夢と現実をごちゃまぜにして、機関銃に対して竹槍で戦うというような発想は、彼らの意識からはまず出てこないのである。


アメリカ人の意識の根底をなす第三の層とは?



 では、彼らが肉体の死をおそれずに求める「正しいもの」とは何か。それは自由であるとわれわれは聞かされてきている。そして、自由や民主主義、人権の思想のベースにはキリスト教信仰が存在していると教えられてきた。ところが、われわれのアメリカ観はそこで停止してしまっている。


 それではわかったことにはなっていないのだ。それが、どのような信仰であり、どのような内容なのかというところまで踏み込んでいかないと、結局はアメリカはわからない。


 われわれは宗教が苦手だから、できればそのあたりはそっとしておきたい。その気持ちはわかるが、今やもうこの深層にまで踏み込まざるを得ないのだ。やっかいだが避けられない。そこには、第三層とも言うべきもう一つの意識層があるからだ。


 彼らの宗教は、日本の「(いわし)の頭も信心から」というような信仰心とは対極の構造をもっている。壮大な存在論に基づく論理性が横たわっている。これが日本人にはわからなかった。きちんと説明している本も見あたらなかった。


 今、アメリカの強さ、活力について見ると、それは彼らのキリスト教信仰のあり方を最も根本的なところで性格づけるものから来ている。それを筆者は「聖書主義」と呼んでいる。こう言うと、次のような論理をイメージする人が多いのではなかろうか──ヨーロッパだってキリスト教圏だが、アメリカはプロテスタントの国だ。だから活力が違うのだ、と。


 マックス・ウェーバーの名著『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の《精神》』を読んだ人は、だいたいそういう見解を抱く。けれども筆者は問いたい。だとしたら、カナダはどうだろうか。あそこもプロテスタントの国だ。だが、アメリカはカナダとも明らかに違う活力をもっている。比類なき創造性がある。カナダの主要都市で楽しまれているミュージカルやメジャーリーグ・ベースボールは、アメリカでつくり出されたものである。キリスト教会での新しい礼拝方式も、ゴスペルミュージックも、ほとんどがアメリカで生まれたものである。アメリカの若者には、「アメリカ合衆国、カナダ州」という失礼な言い方をする者もいるくらいだ。


 アメリカにそうした創造力をもたらしている最も根底的なもの、それは「聖書主義」である。あえて英語で言えば、「バイブリズム」(biblism)とでも訳すべきものだ。この運動がわからないと結局はアメリカがわからない。そういうものである。


 その「聖書主義」のキーワードが一言でいえば「自由」なのだ。精神の根底における自由である。それは「信仰の自由だ」と言って終わりにしていいような、そんな生やさしいものではない。キリスト教の教典である「聖書」に対して、その読み方も解釈も個人の自由にゆだねるというものである。それが「聖書主義」の神髄なのだ。


キリスト教の第三の潮流「バイブリズム」



 聖書という書物は、その論究範囲が深遠にして広大である。さらに、それを示すのには比喩(たとえ)がふんだんに使われている。だから本来、さまざまに解釈される余地を大きくもっている。これを論理的に解釈したものの一つひとつが「教理」だ。教義と呼ばれることもある。


 さて、一人ひとりの自由な解釈を許していたら、集団としての活動は存続していけるのだろうか。一つの解釈(教理)を選んで、これを統一見解としてみんなで共有しないと、教団としてのまとまりは難しくなるのではないか。そのとおりである。だが、この困難な道をあえて選ぶのが「聖書主義者」(バイブリスト)なのである。


 これは最も根本的でラディカルな自由である。聖書に記されていることは、人間存在の根本にかかわることである。宇宙はどうなっているのか、人間はなぜ存在するのか、どこから来てどこへ行くのか、死んだらどうなるのか……。これらに関する考えはわれわれの意識の最も根底的なところにある。そして、日常的判断のあらゆるものにかかわりをもっている。バイブリズムは、その層の思考(解釈)を個々人の自由にするという行き方なのである。


 日本の歴史の教科書では、キリスト教はカトリックとプロテスタントという二大潮流から説明されている。だが、ヨーロッパには、もう一つの、言わば第三の流れがあったのだ。それが「聖書主義」であり、人数的に大きな流れであった。だが、今述べたように、統率面に弱さがある団体だった。そこで、歴史の陰に隠れてしまった。


 彼らは、一つの「教理」を押しつけようとするものは、徹底的に拒否した。だから、カトリックはもちろん、プロテスタントからも迫害されてきた。両者は「教理主義」で運営していくという点では、共通した教団なのである。


 だが、聖書主義者たちは、殺されても“解釈の自由”だけは譲らなかった。実際に彼らの私的な文書では、紀元後五世紀中頃から一二〇〇年にわたって、ヨーロッパで約五千万人が殺害されてきたと述べられている。年平均で四万人を超える。にわかには信じ難い数字だ。


 だが、ともあれ聖書主義者たちは、大量かつ密かに自由の新天地をめざして、早期にアメリカ大陸に移民した。移民は初期であるほど、主として暖かい地域、すなわち南部に住み着く。そうした人々が最深部に根を張った国がアメリカだった、ということである。


 アメリカ魂の核にはこのような「聖書主義」に基づく自由がある。現実社会で主張される行動や言論の自由などの奥には、聖書主義者たちの精神が息づいている。それは、前述したパワー重視の在り方にも、色濃く表れている。


 たとえば、アメリカ人はパワーを求めるのと同時に、それが社会的に集中することにはかなり警戒する。政治的なバランス・オブ・パワーや経済的な自由競争を追求する。それは聖書主義者たちが、祖先の歴史を通して一つの確信をもっているからである。独占的な地位にある者は必ず腐敗し、他者の自由を抑圧するようにいずれなる、と。

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