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資本主義の正体
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経済・金融
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第一章 自由主義者マルクス

『資本主義の正体』
[著]池田信夫 [発行]PHP研究所


読了目安時間:35分
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『資本論』が社会主義革命のアジテーションだと思っている人が多いが、そこには革命とか階級闘争といった威勢のいい話は出てこない。むしろ過剰に観念的で衒学的(げんがくてき)な言葉で書かれ、今では意味不明の論敵に対するあてこすりが多く、きわめて読みにくい。危険分子としてアカデミズムから排除されたマルクスは、その学問的な正統性を過剰に強調し、価値形態とか物神性とか奇妙な言葉がたくさん出てくる。

 このため多くの人は第一篇「商品」で挫折すると思うが、こういう言葉を普通の言葉に直してみると、意外に使える部分がある。彼の分析した資本主義は、現代の経済学の想定している市場経済とは異なる資本家と労働者の支配関係である。第一巻の最後の「いわゆる本源的蓄積」には、資本主義の「原罪」と、その出生の秘密が書かれているが、それはいま新しい経済史の研究によって明らかにされた資本主義の姿に意外に近い。

疎外論から資本論へ


 マルクスの原点は階級闘争ではなく、ヘーゲルの法哲学だった。『資本論』など公刊された著書ではその影響は抹消されているが、初期の草稿はヘーゲル哲学の観念的な言葉で書かれている。そこでは、利己的な個人の集まる「欲求の体系」である市民社会の矛盾を、国家が解決することになっていた。

 ヘーゲルは「世界史は自由の歴史における進歩である」とし、「東洋人はひとりが自由だと知るだけであり、ギリシャとローマの世界は特定の人々が自由だと知り、私たちゲルマン人すべての人間が人間それ自体として自由だと知っている」と述べた(1)。これはベルリン大学の御用学者として当時のプロイセン国家を正当化するものだったが、現実のプロイセン王国は自由ではなく、皇帝が国民を弾圧する独裁国家だった。

 これに対して、彼の法哲学は皇帝の独裁を正当化するものだと批判したのが、ルートヴィヒ・フォイエルバッハなどのヘーゲル左派だった。彼らは、宗教が人類の矛盾を解決すると考えたヘーゲルとは逆に、宗教は人間の「類的本質」の疎外されたものだと主張した。フォイエルバッハは「神の意識は人間の自己意識であり、神の認識は人間の自己認識である」(2)と述べ、人々が神として信じているのは、実は自分の鏡像なのだと論じた。神は教会をまとめるためにつくられた観念であり、神の命令を絶対とするキリスト教は転倒している、というのが彼のキリスト教批判だった。

 ヘーゲルがよく使うのが、疎外(Entfremdung)という言葉である。かつて「疎外された労働」という言葉で、工場労働者の仕事の非人間性を糾弾するのが流行したが、ドイツ語の疎外はそういう具体的な現象をいう言葉ではなく、「疎遠になる」とか「本来とは違う」という概念である。
『法哲学』では、市民社会でバラバラに生活している個人は本源的な共同体(人倫)の疎外された状態で、それを統一して疎外を克服するのが国家である。ここでは共同体と市民社会と国家が「正・反・合」の弁証法的な関係になっている──といっても実は何も説明したことにならない。

 弁証法も、世界が一つの法則に従うように見せるレトリックである。正・反・合のトリアーデには何を代入してもいいので、自分の望む結論を「合」に代入すればどんな結論でも出せる。今でも「アンチテーゼ」とか「止揚する」とかいう言葉を使うだけで問題が解決したように錯覚する人が多いので、本書ではそういう言葉は使わない。

 弁証法の原型は、キリスト教の「父・子・聖霊」という三位一体説で、イエス・キリストは神の子だが、神ではなく人間でもない。この矛盾を神が「聖霊」を媒介にして統一する──といわれてもキリスト教徒でない人には何のことかわからないだろう。もともと三位一体説はカトリック教会の中の宗派の妥協の産物なので、論理的には説明できないのだ。

 フォイエルバッハのヘーゲル批判は、この図式をそのままにして神の位置に人間を置いただけである。これは革命的なことをいっているような感じがするが、具体的には何を示すのかわからない。疎外も「**はよくない」という主張を「**は本質の疎外されたものだ」という表現で哲学的に見せるレトリックで、論理としては意味がない。

 マルクスも初期には疎外や弁証法などのヘーゲル的な飾りを多用したが、後年の著作にはほとんど出てこない。彼はやがてヘーゲル左派から離れ、『経済学・哲学草稿』と呼ばれる二十代に書いた草稿では「労働者は、自分の生産する富が大きくなればなるほど、自分の生産活動の力と規模が大きくなればなるほど、みずからは貧しくなる。商品をたくさんつくればつくるほど、彼自身は安価な商品になる」という形で疎外をとらえる(3)。

 ここではまだヘーゲル的な言葉で論じられているが、マルクスの疎外論は宗教批判ではなく、商品経済で労働者がいくら生産しても豊かになれず、資本家がその成果を奪ってしまうことだ。彼の問題意識は労働問題にあった。ヘーゲルのいう自由で平等な市民社会から、なぜ資本家に隷属する労働者が生まれてくるのか、という問題の答えを彼は資本の所有権に求めた。


 資本とは労働と労働生産物に対する支配である。資本家は自分の個人的・人間的な性質のゆえではなく、資本の所有者であることによって権力を所有する。[中略]私たちは、まず資本家が資本を通じていかに労働への統治権を行使するかを観察し、ついで資本の統治権がいかに資本家を統治するかを観察する(4)。


 ここで注目されるのは、マルクスが資本の所有権を「支配」や「統治」の手段と考えたことである。資本家は資本をもっているが、労働者はもっていないので、資本家は労働者に命令できる。資本は単なるカネではなく、資本家が労働者に命令する梃子(てこ)になっているのだ。

 支配というと階級闘争のイメージが強いが、現代風にいえばコーポレート・ガバナンス(企業統治)である。企業統治という日本語は奇妙だが、企業は市場とは違って命令で統治される組織である。この違いを認識し、企業は自由な契約の形をとった支配装置だと考えたのがマルクスの重要な発見であり、彼のテーマだった。

 フォイエルバッハのように観念の世界でヘーゲルを否定しても、社会は何も変わらない。ドイツ人はイギリスに比べて遅れた社会を哲学の世界で「乗り超える」ことで満足する傾向が強いが、ロンドンへ亡命したマルクスは資本主義の現実に直面し、そういう観念遊戯のむなしさを知り、疎外や類的本質といったヘーゲル用語をやめて貨幣や資本などの具体的な言葉で社会を語るようになった。
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