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資本主義の正体
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経済・金融
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第八章 日本型資本主義の終わり

『資本主義の正体』
[著]池田信夫 [発行]PHP研究所


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 マルクスの思想を「社会主義」ととらえて「資本主義」と対立するものと考えるのは誤りである。彼の思想はアソシエーショニズムであり、これは市場経済と共存できる。今でも多くの組合やNPO(非営利組織)が市場経済で活動している。日本の農村は村落共同体による協同組合であり、これは近世に市場経済と融合して発展した。日本型資本主義が成功した原因は、資本主義とアソシエーションをたくみに接合したことだった。

 しかし、それは彼の想定した「自由の国」ではなかった。組合で生産するには果てしない人間関係の調整が必要になり、タコツボ化した組織の合意で意思決定を行なうと部分最適にはまり込んでしまう。組合の中で評判を共有するためには、労働者を長期雇用と年功賃金で会社に囲い込み、彼らが他の会社に移る自由を奪う必要がある。日本企業の挫折は、マルクスの見落とした問題を示しているのだ。

日本的経営の起源


 アソシエーションの古い形が農村共同体だが、これにはいろいろなタイプがある。マルクスが「個人的所有」のモデルとしたのは世帯を単位とするゲルマン共同体だが、日本の江戸時代の共同体は「村」を単位とする組合だった。

 当時の農村は自給自足ではなく、十七世紀には大坂を中心とする全国的な市場経済や金融システムが成立し、米市場のような流通機構も発達していた。主として海路で集荷された商品は、仲買人から問屋を経て小売りに流れるしくみができており、農村もその中に位置づけられていた。

 つまり市場経済によって農村という共同体が結びついていたので、農村を一つの企業と見ると、それが市場を介してつながる状態は資本主義と似ている。農村の中では各人が地域的にも固定されていたので、これは長期雇用のサラリーマンのようなものだ。

 歴史の教科書に出てくる「五公五民」というのは間違いで、徴税の基準となる石高は一七〇〇年ごろに凍結され、再測量には農民が百姓一揆で抵抗したので、検地はほとんど行なわれなくなった。このため実効税率は下がり、幕末には二割以下だったと推定される。新たに開墾した土地や米以外の収穫はすべて農民のものになったのでインセンティブは強まり、長時間労働で果てしなく働く。

 税は村全体として納税する「村請」だったから、税率は領主と村の協議で決められた。もちろん領主が武力をもっているので、対等な交渉をするわけではないが、形の上では納税者が合意しないと税率が決められないという意味では、一定の民主的なチェックがあったともいえる。百姓一揆は領主に対する武装反乱ではなく、ほとんど増税に抵抗して現状維持を求める訴えだった。

 十八世紀以降は商品経済が発達したが、年貢は米による物納であり、商人は非課税だったため、武士の所得はほとんど増えなかった。速水融は、このように武士が剰余の獲得に失敗したことが、幕藩体制の没落の原因だったという。「商品経済に乗り遅れた武士層は、本来、政治的支配層であるのに貧窮化する。藩全体としても貧窮化が進み、武士層の富商からの献金・借財は増え続け、武士の中には破産する者もいた」(1)。

 石高制が硬直的だったため、農民がコントロール権を握り、武士は経済成長に取り残されて財政が崩壊した。こうして武士の特権に意味がなくなったことが、維新がスムーズに行なわれた原因だろう。明治維新はフランス革命のようなアンシャン・レジームに対する民衆の反乱ではなく、旧体制の自壊だったのである。

 江戸時代に全国を三〇〇の藩に分断して人口の移動を禁止した幕藩体制は、世界史上でも異例な長期の平和をもたらした。十七世紀には勤勉革命で生産性は向上し、日本の人口は一二〇〇万人から三一〇〇万人に急増したが、十八世紀に人口増は止まり、幕末には三二〇〇万人にしかならなかった。勤勉革命は与えられた土地を使い切ると、生産性が限界に達するので成長も終わり、それにあわせて「口減らし」が行なわれたために人口増加が止まったと考えられる。

 江戸時代の村の中核は、百姓(惣百姓)だった。これは各戸から一人ずつ選ばれて成年男子に限られ、メンバーシップに加入するには他の百姓の承認が必要だった。彼らは寄り合いで民主的に意思決定を行ない、庄屋(名主)もその決定を尊重した。百姓は、江戸時代の「正社員」だった。

 税負担を村内でどう分配するかは庄屋の裁量だったが、これも百姓が承認しないと課税できなかった。また村内の紛争や土地の移転などの問題も、百姓が管理した。村はボトムアップの「労働者管理企業」だった。十七世紀の農業経営はまだ不安定で、破綻して飢えに直面する家も少なくなかったので、土地を担保にして金を貸す相互扶助が発達した。こうした金融機能や土地などの生産要素の配分も、百姓の合意によって行なわれた。債務不履行には厳格な処罰が行なわれたが、質流れになった土地も百姓の承認を得れば取り戻すことができた。

 各藩は村の自治を尊重し、紛争は村同士の話し合いで決めるのが原則だった。しかし村と村の間で入会地などをめぐって訴訟が起こると、村役人から郡奉行に伺いが出され、彼が家老に伺いを出し、稟議書で承認された。ここでも徹底してボトムアップで問題が解決された。

 しかし十八世紀になって長い平和と労働生産性の向上で飢えから解放されると、村の中で家の自律性が高まり、百姓の力が弱まる。土地も各戸ごとに分割され、近代的な所有権に近くなったが、百姓は村に縛りつけられていたので、これが労働生産性向上の限界になった。十八世紀に人口増加は止まり、村は停滞期に入った。

 上の文章で百姓→正社員、村→会社、村役人→官僚などと置き換えると、現代にほとんど同じ行動様式が温存されていることがわかる。協同組合で業務命令なしに長時間労働が行なわれ、相互扶助で分配の平等も守られ、ボトムアップでローカルな意思は尊重されるが、全体最適は誰も見ていない。これは現在の日本企業の弱点とも共通している。

 明治以降の近代化に日本が適応できた原因も、このような労働集約的な構造に起因している。「[西洋の]方式は日本にあわず、コストが高くついた。不適合な技術のままもたついている国もあったが、日本の対応ははるかに創造的なものだった。低賃金経済の日本で採算がとれるように西洋の技術を作り替えたのである」(2)。

 産業革命は、賃金が高いイギリスで生まれた労働節約的(資本集約的)な技術進歩だったが、日本の勤勉革命では逆に、豊富な労働力を使って安い資本設備を使う工場ができた。たとえば西洋の技術を導入した富岡の製糸工場は赤字操業だったが、同じころ木製の紡績機械を使った築地の製糸場は、蒸気機関ではなく人力で操業して利益をあげた。このように労働集約的な技術は、人々の緊密なチームワークなしに実現できなかった。

所有と経営の分離


 協同組合でむずかしいのは、投資決定である。マルクスの描いた未来社会では、今まで富を分配してきた資本家に代わって労働者の委員会が分配を決め、「消費された生産手段を埋め合わせる補分」や「生産を拡張するための追加分」などが差し引かれることになっている。
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