資本主義は戦争から生まれ、戦争に適応した経済システムである。それは全員の生存を目的とせず、株主価値を最大化するためには労働者を解雇する専制的システムであるがゆえに、世界のどこでもきらわれる。しかし資本主義は歴史上どんな文明も実現したことのない大きな富を実現し、人々を飢餓や疫病から救った。ほんの百年前まで、人類の平均寿命は四十年に満たなかったのだ。資本主義がいかに不平等で不安定なシステムだろうと、人々は豊かになった生活から昔に戻ることはできない。
しかし資本主義はその可能性をほぼ使い切り、長期停滞(収穫逓減)の傾向が見えてきた。それはマルクスが百五十年前に予言した資本主義の行き詰まりだが、彼の考えたアソシエーションで打開することはできない。特にこれから人口の減少する日本では、経済規模が縮小することは避けられない。成長という目標を失った人々は、これから何を目標にすればいいのだろうか。
成長から幸福度へ
幸福は金で買えない。行動経済学の調査でも、幸福度は所得が急速に伸びる発展途上国では所得とともに上がるが、年収一万ドルを超えると相関が弱くなる。四万ドルを超えると相関がなくなり、家族や名誉など他の要因の影響のほうが強くなる(1)。
狭い意味の功利主義で考えても、GDPは人々の得る効用を集計したものではない。たとえばビール一杯から私が得る効用からビールの価格を引いたものが消費者余剰だが、GDPはそのコストであるビールの価格などを集計したものだ。他方、企業の利潤はその価格から企業のコストを引いた生産者余剰なので、消費者の効用とは関係がない。利潤は独占レントだから独占企業では大きくなるが、供給制限によって消費が減ると社会全体の利益(消費者余剰+生産者余剰)は減ることが多い。
しかし巨額の投資が必要な産業では、完全競争的な市場がベストとは限らない。たとえば携帯電話には当初は多くの企業が参入したが、今はどこの国でも五社以内になっている。市場が競争的になると利潤率が下がり、資本力のない企業が淘汰されるからだ。イギリス資本主義が成功したのもスミス的な競争のおかげではなく、マルクス的な独占のおかげだった。
資本蓄積はGDPを高めるが国内の雇用を減らし、格差を拡大する。資本主義はもともと労働を節約するために生まれたシステムだから、労働者は機械と競争することを強いられる。かつてはそれは肉体労働がオートメーションになる変化だったから、労働者はそれに抵抗し、労使紛争が頻発した。
これに対して日本の資本主義は労働集約的であり、労働者の雇用を守る代わりに多くの職場に配置転換することによって成長を維持してきた。それは日本の賃金が相対的に安い(資本/労働比率が低い)ときは成り立つ経営戦略だったが、賃金が欧米並みになると労働を節約しないと競争に勝てない。これから労働人口が毎年一パーセント近く減る時代には、今のような産業構造は維持できない。
ここでわれわれは、富の分配をどうするのかという問題に引き戻される。資本主義は資本家がその利潤を独占する権利(残余コントロール権)をもつことによってインセンティブを強めるシステムであり、その原理は「自己労働の所有」というジョン・ロック的な所有権とは違う。
たとえばセールスマンの売り上げは個人に分解できるが、工場労働者の成果は分解できない。個人の労働を超える資本設備やチームワークなどの外部性があるから、自己労働のみによる分配は不可能だ。巨額の固定資本が必要でリスクの大きい現代の資本主義では、リスクを負った者がリターンも損失もすべてとる資本主義が合理的なのだ。