読みたいトコだけ買える本。
犬耳書店
初めての方へ 記事一覧 無料登録 ログイン
0
-2
kiji
0
0
1237347
0
国民精神の復権
2
0
0
0
0
0
0
ルポ・エッセイ
お気に入りとは?

お気に入りボタンを押すとお気に入りリストにこのページが追加されます。興味のあるページ・気になったページを後から確認するのに便利です。

お気に入り お気に入り
第一部 現代における危機の本質

『国民精神の復権』
[著]小堀桂一郎 [発行]PHP研究所


読了目安時間:1時間58分
この記事が役に立った
0
| |
文字サイズ


戦後思想との対決




 『ハイド氏の裁判』の寓話

 故竹山道雄先生が、昭和二十一年の十月に書かれた『ハイド氏の裁判』といふ文章があります。この寓話を私は既に自分の別の著書で引用してをりますので、又かとお思ひになる方もをられるかもしれません。

 これは当時、占領軍による事前検閲に引つ掛つて差し止められてをりましたが、日米間に講和条約が調印された昭和二十六年に検閲の枠が解かれたので、この文章もその年の内に『樅の木と薔薇』といふ単行本に収められて世に出たものです。この文章が書かれた昭和二十一年に広く世間に読まれてゐればいろいろ議論になつたでありませうが、如何せん時機を失して昭和二十六年の発表当時には特に話題にはならなかつたやうに記憶してをります。

 この『ハイド氏の裁判』といふ文章の内容を簡単にご説明申し上げますと、これは東京裁判の法廷に舞台を借りた現代の創作寓話といつた感じのものであります。その筆者、竹山先生は実際に東京裁判の法廷に通はれましたから、その経験が基になつてゐるのだらうと思ひますが、筆者がある日その法廷に傍聴に行くと、その日はある被告にたいして検事の論告が行はれてゐる。その被告は今まで見たこともないし名前を聞いたこともない人で、何と申しますか獰猛(だうまう)で凶悪な風貌が辺りを圧してゐる。筆者が隣りの人にそつとその被告の名前を聞いてみますと「あれは“近代文明”といひます」といふ答が返つてくる。正に寓話であります。すると、検事がこの近代文明に向つて厳しい論告を読み上げる。その論告がこの一篇の趣旨で、つまり、東京裁判での検事の論告の形を取つた近代文明に対する弾劾の文章であります。所謂A級の戦争犯罪被告を裁くはずの法廷で、近代文明が、日本といふ国の指導者の一員として戦争犯罪の責任を問はれるといふ意外な構造になつてゐるのです。

 この文章が執筆当時に占領軍の検閲に触れて発表を禁ぜられたといふのは、当時のタブーであつた東京裁判批判に触れたためですが、仮にこれが発表されてゐたとすると、恐らく占領軍のみならず日本人の側からも反論、といふより反感の声が上つたのではないかと思ひます。


 近代文明の二つの姿

 この文章の中で竹山先生は、現実の東京裁判の法廷が完全に見落してゐた近代文明の宿命を鋭く分析して見せたのです。現実の東京裁判がこのことを見落してゐたといふのは、或いは潜在意識のなかで故意に避けて通つたといふことであつたかもしれない。近代文明の責任を追及するといふことは、即ち西欧文明の責任を追及するといふことです。東京裁判は文明の名において野蛮を裁くといふ発想に立つてゐた法廷ですから、その大前提である文明そのものを裁くといふことは、欧米の検事や裁判官達にはあり得ない発想だつたらうと思ひますし、所詮欧米文明崇拝の一変種である東京裁判史観に呪縛されてゐた戦後の日本人には、あまりにも意想外の問題提起だつたでせう。

 この寓話の中で竹山先生は、東條英機大将をはじめ現実の被告を特に弁護してゐるわけではないのですが、とにかく誰にもまして最大の凶悪なる被告として近代文明といふものの罪を論じてゐるのですから、一切の罪を近代文明といふ非人格的なものに押しつける形で、間接的に日本国家、日本国民の無罪を主張してゐるといふ風に取られないこともない。しかし著者の意図するところは、被告たちの罪を近代文明に転嫁するといふことではないので、近代文明といふものの恐るべき逆説的性格を棚上げにしたままで、この世界を捲き込んだ大戦争の責任の所在を追及するのは公正を欠いてゐるといふことを述べたかつたのであらうと思はれます。

 さて、その『ハイド氏の裁判』といふ題名ですが、その法廷で今、検事の論告を受けてゐる“近代文明”は確かにジキル博士にして且つハイド氏であります。彼は、まづ世界史の過程の中で、譬へて言ふと、上品なお金持の家の客間に、教養ある立派な紳士であるジキル博士として姿を現すのです。お金持の家とは言つてみれば先進文明諸国、所謂“持てる国”です。持てる国においては、ジキル博士は驚嘆すべき業績を成し遂げ、高潔な品位を持つた事業家であります。さういふ紳士の発散する知的魅力に魅せられて、“持たざる国”、すなはち後進国も競つてこのお客を自分の国に招き入れようとする。ところが持たざる国にやつて来た途端に、このお客はもう一方の姿、つまり凶悪なハイド氏の姿に変身してしまふといふ寓話なのです。

 竹山先生は、ここでジキル博士が発明した二つの有用なる文明の利器を挙げてをります。それは同時にハイド氏でもある近代文明が、持たざる国に招かれて行つた時に教へた大変危険な性格を持つ発明でもあるのです。その一つは、簡単に言へば「情報支配」と言へませうか。あらゆる情報を支配して人間を集団として組織し且つ操作する為の手段です。これには所謂学問も入るし、時には芸術でさへもその目的の為に利用されることがある。もう一つは「科学兵器」です。つまり自然科学に基礎を置き、それの応用としての精密な機械工業、科学技術に基づいて開発された近代的な武器であります。

 この情報支配と近代兵器といふ二つの文明の所産は、勿論大戦争の直接の原因ではありませんが、第二次大戦のやうな恐るべき破壊的な大戦争を可能にした前提条件であります。これについて著者の分析が進んでゆくのですが、私はここで竹山先生の原文の文脈から少し離れて、この近代文明についての比喩に私なりに肉付けをしてお話したいと思ひます。


 ゴロヴニンの予言

 さて、ジキル博士の姿をした近代文明は十九世紀のヨーロッパにおいて素晴しい建設的な事業を達成しました。その崇高な事業を土台のところで支へてゐた経済的基礎は、自由競争を原理とする資本主義的な生産活動であります。

 ところでこの資本主義的な生産活動を長く支へる為にはどうしてもその原料の供給地と、製品を購入してくれる市場が不可欠である。この構造が欧米先進諸国の間に植民地獲得競争を惹き起こすことになる。やや大胆かもしれませんが、西洋の近代とは一体何なのかと定義を求めたといたしますと、一口に言つてそれは生産と交易の体系を植民地支配の上に打ち立てた文明であると定義してもよいと思ふのです。

 さて、西洋先進諸国は、閉ざされた国である国と日本の門戸を開かせて市場を提供させようとしますが、この二国は当初頑なに門を開くことを拒否してをりました。もし、強制的に開国を迫つて、この国と日本といふ二国を世界貿易の交流の中に引きずり込んだら事態は一体どうなつたか。

 そのことをかなり早い時期に予言して明白な文章に書き残した大変賢いロシア人がをります。即ち文化八年(一八一一)、これはナポレオンがモスクワに攻め入つた年の前年ですが、国後島に来て捕へられ、箱館で二年余りの捕虜生活を送つた、ロシアの軍艦ディアナ号の艦長であるゴロヴニンであります。彼は甚だ優れた人物であつたらしく、それはその『日本幽囚記』といふ文章によく窺はれます。

 その中に彼が当時の日本の鎖国政策を批評してゐる部分がありますが、これが即ち日本が西洋の諸列強と同じく、近代化に乗り出した場合どういふことになるかの見事な予言となつてゐる。

 ゴロヴニンはこんなふうに言つてゐます。――日本に隣接した東洋の諸国は日本の国法が鎖国政策を取つてゐるといふことを天に感謝すべきである。日本が現在のこの国家的方針を捨てて西洋式の政策を採用することになつたら大変だから、何とかしてその様な切つ掛けを阻止するがよい。つまり、日本に鎖国を続けさせるがよいとゴロヴニンは述べてゐる。さらに、もし、日本のやうな元来、聡明で有能な国民が我国のピョートル大帝の如き王者を統治者に戴いたとすれば、その王はいくほどもなくして日本を全東洋に君臨する帝国たらしめるであらう、といふのはそのまま明治天皇の御治世を予言した形になつてをりますし、また、仮に日本がヨーロッパ文明を取り入れ、ヨーロッパ諸国の国策に追随する様になつたら、支那人もまたすぐそれと同じ政策を取らざるを得なくなるだらう。さうなれば、東洋の二つの国はヨーロッパの問題を全く一変させてしまふことになる、といふのがゴロヴニンの予測なのであります。

 このヨーロッパの問題を一変させるといふ言葉遣ひが何を意味するのか、ゴロヴニンははつきり言つてをりませんが、それは現在の植民地の上に成り立つてゐる西洋文明の基礎が崩されてしまふといふ問題を衝いてゐるのだらうと思ふ。これは立派な見識だと思ひます。歴史の事実に即してみると、確かにそれはヨーロッパが主導権を取つて動いてきた世界史の潮流が方向を変へるといふことを意味してゐるはずで、そのことはやがて歴史上の現実となつていくわけです。

 ゴロヴニンは更に、日本人と支那人が西洋の制度を採用し、ヨーロッパ人にとつて危険な国民になることは遅かれ早かれ起り得る、といふ観察をもつて、この日本人論を結んでゐますが、この予言もロシア人にとつて現実になりました。彼らがつくづくとそのことに思ひ至つたのはそれから九十年余り後、日露戦争といふ大変手痛い体験を経ての上であります。


 転回点となつたポーツマス条約

 ゴロヴニンの言ふ、西洋文明の問題が一変するであらう、といふ転回点は明治三十八年のポーツマスで開かれた日露講和会議とその条約に求めることができると思ひます。これこそ十八世紀末以来百年余り西洋の列強が極東に対して持ち続けてゐた「西力東漸」(西洋の力が次第に東に移つて東洋を支配するやうになる)といふ特殊な関係が決定的な転換を遂げる切つ掛けになつたと思ふのです。

 この転換の構造をイギリスやアメリカ、つまりアングロサクソン民族の視点から見るとそれは一体どのやうに映るでせうか。

 米英両国は日露戦争において日本を外交的・財政的に支援し、或いは好意的な立場に立つて軍事的にも肩入れしながらこの戦争の成り行きを見守つてをりました。それはロシアの南下といふ現象を食ひ止める防波堤としての日本の役割に彼らが注目してゐたからです。ロシアの南進が好ましくないといふ理由はほかでもない、極東の市場を巡つてアングロサクソン民族の最大・最強の競争者がこのロシアだつたからであります。

 この競争者を何とか阻止しようと念願してゐたアングロサクソンの勢力が掲げた標語がある。即ち第一が国の主権尊重と領土の保全、第二が国市場の門戸開放・機会均等といふ有名な二大原則であります。主権尊重・領土保全といふと、いかにも国の独立国としての立場を尊重したやうな表現ですが、これは当時国家主権の尊厳といふ思想が国に確乎として根づいてゐなかつたことをいいことにしてロシアが容赦なく国の内部に勢力を扶植して行く、この情勢に苛立つた米英をはじめとする西洋諸国が、ロシアの南進を牽制しようと唱へ出した標語なのです。

 もう一つの門戸開放・機会均等といふ原則ですが、一八九八年にアメリカは米西戦争を起し、スペインに勝つた結果フィリピンを領有することになり、国との関係が地理的ににはかに密接になる。そこで、その機会に国務長官ジョン・ヘイが翌九九年に提議したことで有名になつた標語ですが、勿論この時、突如として出てきた発想ではなく、元来、主権尊重の原則と非常に密接な関係を持つたものです。要するに国での列国の利権獲得競争において、ある特定の一国だけが飛び抜けて優位な地位に立ち、それによつて各国の競争が無秩序に陥つて互ひに損をするだけといつたことがないやうにといふ、これも功利主義的な動機から唱へられるやうになつたものです。

 こんなふうに国の領土保全・機会均等といつた国際的な申し合せ事項とても所詮は功利主義に発した植民地分割競争上のルールなのです。言つてみれば泥棒達の仲間内のルールみたいなもので、泥棒に入られる側からすれば誠に迷惑といふか奇怪なものです。しかし、第三者の眼から見れば、一応国際関係における正義のルールを確立したと評価することはできますし、事実当時はそのやうに思はれてゐました。

 さういふわけですから、日本がロシアの強引な南進を阻止しようと、遂に戦争に踏み切つた時にも満洲における国の主権尊重・機会均等を唱へることによつて、日本は正義の戦ひとしての大義名分を保有することができたのです。そこで、イギリスは日英同盟を通じて日本を支援する。他方アメリカは大変友好的且つ忠実な仲介者として講和交渉の調停役を買つて出て日本のために骨を折つてくれる。その場合いづれも国際的正義を行ふものとしての安らかな良心を以て、正々堂々と振舞ふことができたわけです。

 ところが、その転回点としてのポーツマス条約以降どういふことになつたかといふと、日露戦争の勝利の結果、日本は皮肉な矛盾を抱へ込むことになる。つまり、日本は戦争前は正義の立場から帝国主義的な利権の存在をロシアに対して糾弾する立場にあつたわけですが、戦争の勝利者としてロシアの利権を肩代りして所有することになつたために、今度は日本がその帝国主義的利権の濫用者として糾弾される立場になつていつたのです。

 これが実は近代文明といふものの宿命であり、文明開化を国家目標として選んだ国々の辿る必然的な航路であります。しかしこれについては異論があるかもしれない。先にも述べたやうに、日本の脱亜入欧といふ歴史を可能にした物的条件は情報支配と近代兵器といふ近代文明のもつ条件でありました。しかしこれらはどこまでも物的な必要条件であります。戦争の前提であつて原因ではない。だから、これらの力を行使して戦争に及ぶか否かといふ精神の自由は人間の側にあるはずだ、と一応は考へられる。

 皆様の中にもさう考へる方が多いかもしれません。しかしそれは私には人間の精神についてあまりに楽天的、楽観的な考へであるやうに思はれるのです。

 近代文明といふものにはそれ独自の意志みたいなものがあつて、人間の意志を以てしては制御し切れないやうな運動法則をそれ自体の内に持つてゐるのではないか。人間はみな、その近代文明を温厚な紳士のジキル博士だと思つて付き合つてゐるわけです。そのジキル博士が何時ハイド氏に変貌するかといふことは人間の思量の外にあります。長い歴史の年月を振り返つてみて初めて、「ああ、あの時点が不吉な変貌の瞬間であつた」と指摘することは誰にもできる。しかし、それは所謂後知恵でありまして、その時その場でジキルがハイドに変貌するといふ瞬間を見届けた人は極めて少数である、或いはほとんどゐないと言つてもいいのではないか。

 そこで客観的に歴史学者たちが述べてゐる歴史説明を踏まへて、特に次の幾つかの点を指摘しておきたいと思ひます。


 日本が学んだ近代文明の論理

 日本が日露戦争の勝利の結果獲得した植民地的利権を継承して自分のものとし、更にそれを拡大したのは国民的要求であり、国民の輿論であつて、決して一部の侵略主義的な軍人の独断専行によるものではなかつた。このことは確かであります。もつとも徳川時代の日本人なら横暴な植民地的利権の拡大といふやうな輿論を形成することはなく、ロシア人から奪ひ返した諸々の利権は元々国のものなのだから国人に返してやるのが筋だ、といふ発想を持つただらうと思ふのです。

 しかし、脱亜入欧の道を選択してからといふもの、日本人が西洋から学び続け、やがて己の身につけるに至つた近代文明の論理はさういふものではなかつた。全て権利といふものは自ら戦ひ取るものであり、戦ひ取つたものは自分の所有であるといふのが文明の原則です。誰憚ることなく所有しそれを行使して構はない己の力となります。まして、これら戦ひ取つた諸々の権利は、その当時国際条約といふ形で成文化し、国際法による保障を得てゐるわけであります。当事者の一方にとつていかに不本意な条約でも、一旦取り決めた以上はその条約の決めたところが即ち合法であり、その法に(したが)ふことが正義でもある。これが厳しい現実なのです。そしてこの現実を日本人は、例の不平等条約の改正運動を通じて正に逆の立場から身に染みて知つてゐたのです。

 日本は西洋先進諸国に学んだ近代文明の技術を十二分に活用し、それによつて日露戦争を戦ひ抜き、勝つたわけですから、その戦後処理に当つても近代文明の論理に則つて決定するといふのは当然であり、当時、それに疑ひを抱く者はゐなかつたはずです。

 譬へてみれば、日本は先生から教はつた通りに行動した生徒の如きものです。ジキル博士に教へられた通りの手順でやつてみたら、自分のその手振りがいつか不吉なハイド氏のそれになつてゐた。それに気が付かなかつたとしてもそれはしかたがないことです。これを先見の明がなかつたなどと言つて咎めるわけにはいかない。それを見抜くほどの明識の人は当時極めて稀にしかゐなかつたのです。

 一方、当時の国の目から見れば、日本が国に先だつて西洋化を成し遂げたと言へるとしても高々五十年ほどの間に作り上げた急拵への模倣文明ではないか。五十年先に出て行つたといふだけで、自分たちに対して西洋列強と同じやうに己の植民地的利権を扶植し、横暴を働く、この事態には彼らは我慢できない。まして日本といふ国は中華の国から見れば二千年来、東夷であり、周辺文明の国であります。

 ところがまた逆に日本の立場から見ると、それは西洋列強諸国がつい数年前まで当然のやうな顔をしてやつてゐたことではないか。それに対して支那人は抵抗らしい抵抗もせず放置してゐたくせに、今我々日本人が同じことをやつて何故いけないのか。まして南満洲、東半島は日露戦争において、既に何万といふ尊い同胞の血が流れてゐる地であり、これだけの犠牲を払つてロシアから獲得した土地に我々が自由な権益を設定するといふのは当然であり、むしろこれこそ正義の実現ではないか――と日本人は考へる。これもまた無理のない話で、如何ともし難いことです。両方とも当然の言分である、共に自分の方が正しいと思つて、ぶつかり合つてゐる。大体、国際関係に生ずる見解の相違といふのはさういふものであります。

 確かに国民の輿論などといふものはまことに捉へがたいものではありますが、それが具体的に表面に出てくることもあります。

 例へば明治三十八年九月にポーツマス条約が成立しますが、その時民衆が日比谷公園に集り、国民大会と称するものを開催して、講和条約に対する不満を表明します。その時に日本の民衆が掲げた要求は(まこと)に理性を欠いたもので、要するに、「あれだけ勝つたのにこの程度の条件では不満だ」といふのです。「満洲全土どころかシベリアまで取つてしまへ」といふやうな、現実に対して全く盲目といふべき要求を国民は掲げてゐたのです。

 そのやうな民衆の輿論が表明されるといふこと自体、民衆の意識がそこまで成長したと言へるわけで、これは徳川時代の民衆の意識の中には決して見ることができなかつたものだらうと思はれます。それにある種の欲望の肥大といふ現象だと思ひますが、これも明らかに自由民権運動といふものを通じて育てられた、己の権利は此を主張することこそ正義である、といふ意識、つまりは西洋近代文明の産物なのです。

 講和条約を辛うじてまとめて帰国した小村太郎全権が国民の不満を恐れてほとんど一身上の危険を考慮しなくてはならなかつたと言はれてをりますけれども、かういふところに日本が明治維新以来国を挙げて努力してきた文明の近代化の一つの姿が現れてゐるのです。実に近代文明といふのはジキル博士的な性格もあると同時に、全くそれと切り離すことのできないものとしてハイド氏的な性格を持つたものであります。


 対華二十一箇条要求の意味するもの

 かうした近代文明のハイド氏的性格は日露戦争後約十年して、もう一度表に現れます。

 大正四年(一九一五)一月に対華二十一箇条要求問題が起こる。この事件は日露戦争後における日本の大陸政策に対する米・英・仏等の疑惑を決定的にし、また、新生の中華民国側の反日感情を本当に取り返しがつかないほどに増大させてしまつた非常に不幸な事件であります。

 この事件の歴史的評価は既に定まつてをりますから、今さら私が何か付け加へるほどのこともないのですが、あまり注目されてゐなかつたのではないかと思はれる一つの脈絡について一言コメントを加へてみませう。

 この要求を突きつけた時の内閣総理大臣は大隈重信です。当時大隈は特に民衆政治家として絶大な人気を博した人でした。日本の国民は、大隈が明治三十一年の短かつた第一次大隈内閣以来再び政権の座に就いたことに、政治に対する民衆の発言権の増大といふ象徴的な兆候を読み取つて歓呼の声を上げたのです。ずつと野にあつて不遇を(かこ)つてきた大隈が遂に政権の座に就いた、「これで真の政党内閣の実現も間近だ」と予感し、いはば新時代の幕開けを期待したのであります。事実それから間もなく大正七年九月には原敬の政党内閣が実現します。

 この対華二十一箇条要求は、その当時既に「まるで小間物店の如くに」と評されたさうですが、大きいものも小さいものもゴチャゴチャといろいろ盛り込んであつて実に乱雑な印象を与へます。政治学者の岡義武氏の説明によれば、外務省が中国に対して何か利権の要求を突きつけるといふ情報を聞きつけて、各省や財界がてんでに勝手な要求を持ち込んで便乗しようとした。そのバラバラな要求を十分に整理する暇もなく皆一様に盛り込んでしまつたためにあのやうな雑然とした性格のものになつた、といふのです。

 つまり、広範な民衆の声の代弁者として期待された政府が外国に対して積極的な姿勢を取つた場合、それは即ちデモクラシーといふ体制の一つの成果に他ならないのですが、結果的にどんなことになつたかといへば、その内実はこんなものだつた。
この記事は役に立ちましたか?

役に立った
0
残り:49865文字/本文:58792文字
この記事を買った人はこれも買っています
      この記事を収録している本
      この本で最も売れている記事
      レビューを書くレビューを書く

      レビューを書いてポイントゲット!【詳細はこちら】

      この本の目次