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国民精神の復権
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ルポ・エッセイ
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第二部 「国民の歴史」は復活するか

『国民精神の復権』
[著]小堀桂一郎 [発行]PHP研究所


読了目安時間:1時間57分
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国家意識の目覚める時




 国家とは何か
「国家とは何か」といふ問ひに対する答としまして、様々な定義があります。従来多くの日本の学者・学徒の信頼を集めてきたマックス・ウェーバーは「国家とは、ある特定の地域内で正当な物理的暴力性の独占を要求する人間共同体である」と定義してゐます。この人間共同体といふ規定は古くからありまして、既に古代ギリシャのプラトンは「人間といふ生物は一人では自給自足出来ない、それ故に結成された生活共同体、それが国家である」と説明してをります。

 しかしながら、国家を暴力機構だと呼ぶにせよ、ヘーゲルのやうに最高の倫理的現実だと見るにせよ、或いは人間の幸福の保障だといふにせよ、それはそれぞれの立場からする国家の価値とか本質についての、その学者の主観的な見解の表明であると見られます。言ひ換へれば、それぞれの学者の国家論あるいは国家観を一口に言ひ表した意見であつて、国家の学問的定義といふべきものではない――と、これは矢部貞治先生のお説であります。

 矢部先生は『政治学入門』(講談社学術文庫)といふ本の中で純粋に政治学的な意味での国家の定義とはどんなものかを論じてをられますが、それによれば、学問的定義としては上に述べた様な価値判断とは無関係に、ただ全く形式的に捉へた方がよろしいので、つまり、人民と領土と主権、この三つの因子が必要にして十分な国家の構成要件である、と定義されます。政治学の問題としての国家の学問的定義はこれで十分であるとしておきませう。


 曖昧な主権の概念

 そこで、我々にとつて日本といふこの祖国が何であるのか、さういふ現実問題にこの定義を応用してみたらどうなるでせうか。まづ、日本といふ国家を形成する人民とは何か。言葉の上ではそれは即ち日本人であります。幸ひに日本は一民族が一国家を形成してゐる。その民族は人種的にもほぼ単一であります。それから言語の方も多言語国家といふやうな不都合を持つてはゐない。国土に関しましても、我々は疑はしい問題は持つてゐない。

 北方領土の問題がありますけれども、あれは戦争状態の継続でありまして、国内でその領土の範囲について合意が形成されてゐないといふ事態があるわけではありません。細かく見ますと、韓国との間の竹島問題とか、あるいは台湾の中華民国との間に尖閣諸島の最終的帰属問題がありますけれども、これもつまり韓国とか台湾を相手にした外交問題でありまして、我々自身が内に抱へた領土問題ではない。つまり、私達日本人は一応安定した国土と人民を持つてゐる。その点で国家形成の二大要件は十分に満たされてゐると考へられるわけであります。

 ところが、もう一つの構成要素の主権については一般的な合意が成立してゐないのであります。主権とは何であらうか、といふことを憲法を手掛りにして考へてみます。
「日本国憲法」の前文には「ここに主権が国民に存することを宣言し」といふ文言があります。それから第一条の天皇陛下の御存在を規定した部分には、「この地位は、主権の存する日本国民の総意に基づく」といふ言葉が使つてある。

 これは「国民が主権の所有者である」といふ意味に読めますし、事実義務教育段階の教科書ではさう読む様に教へてゐますが、それは明白な誤りです。これは米軍の占領下であるにも拘らず、日本国は、国民が存する以上主権も保有する、従つて憲法制定権も存する、といふ理窟を自らの為す不正の弁解として述べてゐるまでのものです。しかし、これも一つの虚構にすぎないといふことをよくお心得下さい。日本国が米軍の軍事占領によつて棚上げにされてゐた国家主権を完全に回復するのは昭和二十七年四月の平和条約の効力発生を以てであります。この憲法が制定、いや採択を強制された時、日本国の主権は、国民にも、天皇にもなかつた。法人としての国家にも十全な意味においてはありはしなかつたのです。

 さて、国家主権の内容、即ち国家における最高権力とは何かといへば、それは一つの国における憲法制定権力に代表されると理解されます。憲法は言つてみれば国家基本法であります。国家基本法を制定し得るほどの権力ならばその国で最高位における権力に違ひないといふのは見やすい道理でせう。ところが、日本国憲法は周知のごとくアメリカ製であります。アメリカの占領軍司令部のほんのひと握りの軍人軍属が、六日六晩で書き飛ばしたといふ即席の英文憲法であります。当時の日本人は被占領国の民であり、主権はおろか言論・表現の自由さへ享受してゐなかつた。そのやうに束縛されてゐた当時の日本国民が他の国から押しつけられた憲法の中で、憲法制定権力といふほどの最高権力が人民にあるなどといふ妄説を宣言してゐる。これは矛盾といふ様な言ひ方では足りない、何か途方もなく滑稽で悲惨な状況ではないか、といふ気がいたします。

 次に、この憲法前文の終りの方に「政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務である」云々といふ言葉があります。この文脈での主権は明らかに一国の対外独立権であります。これは言ひ換へますと、国際社会における一国の行動の自主決定権だと言つてもよいでせう。

 この様に同じ日本国憲法の前文の中においてさへ、国語としての「主権」といふ言葉が二つの、意味を異にした脈絡で用ゐられ、おまけに現実には存しないものを、あたかも実在するかの様に装つて、それでともかく通用してゐるのでありますから、主権といふ言葉の一義的な定義について、広い合意が成立してゐるとは考へ難いのが現状であります。

 次に明治二十二年制定の「大日本帝国憲法」についてみますと、ここには主権といふ表現はありません。しかし最高権力といふ意味で用ゐられてゐる表現は、天皇条項と言はれる第四条にあります。つまり「天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ此ノ憲法ノ条規ニ依リ之ヲ行フ」といふ簡潔な表現であります。この統治権の総攬が国家の最高権力であらうと考へられる。
「日本国憲法」においては「主権が国民に存する」といふ言ひ方をしてゐますけれど、その主権にもし統治権といふ含みがあると致しますと、現憲法におきましては、国民が統治権を有するといふ意味になる。これは幾らなんでもをかしい。国民といふのは明らかに統治の対象であり、統治の主体ではないはずです。

 この様に主権の概念といふのは、実ははなはだ曖昧なものです。ただ、このことを一応わきまへた上で、我々は今この場では、主権といふのは一国家の対外独立権である、あるいは国際関係における自主決定権であると理解してよろしいのではないかと思ひます。

 ところで、この自主権には力の裏付けがなくてはならないといふ考へが当然生じてきます。国家が自主決定すべき選択肢はいろいろあると思ひますが、その中の最高の項目、それは疑ひもなく国家が存立する、国家といふこの存在を維持確保する権利でありませう。つまり、個人の場合には、基本的人権の中で最高の内包は生存の権利でありますが、それと同じことで、国家の場合は国家が自らの存在を維持する権利であります。さうしますと、主権概念の中ではなはだ大きな比重を占めてゐるのが、自己の存在を維持し、防衛する権利だといふことになる。つまり、国家意志の自主決定といふ権利が妨害された時、その妨害を跳ね返して、その決定を貫き通す力がなくてはならない。言ひ換へれば、意志の発動を妨げられた時にそれを否定し返すだけの力の裏付けを含んだ国家の自主決定権、これが我々が普通に考へる国家主権の内容である、とみてよからうと思ひます。

 さうしますと、国家といふのは、限界のはつきりした国土を領有し、その国土の上に国民意識を以て統合された国民がゐて、そして、この国民の集団が全体として対外的に自主独立のあり方を保有してゐる、その様な共同体が国家だ、と定義できると思ふのです。この国家の構成要件であります三つの要素が、ごく自然な形で充足されてをり、且つ外からの侵害が及ぶといふ恐れが直ちにはないとき――今の日本はその状態であると言つてよろしいかと思ひますが――国民は必ずしも自分達が国家の成員であるといふことを殊更に意識する必要がなくて済むのであります。つまり、国家意識といふものを特に自覚する必要がない場合がむしろ普通であり、その方が幸ひな状態なのだと言へるでせう。

 ところが一旦、この三つの成立要件のいづれかに対する侵害が生じますと、(あたか)も人が病気に(かか)つて健康が損はれることによつて初めて健康といふものを意識するといふ、それと似た理屈で、人は侵害に対する防衛の必要といふ形で国家を意識するやうになります。すなはち国家意識といふのは、国家の存在に対する何らかの危険を契機として生ずる、といふ場合が非常に多いのであり、又それが自然のなりゆきだといふべきでせう。

 それでは、これから少しばかりそのやうな意味での、国家意識の覚醒の歴史を辿つてみようかと思ひます。


 「防人歌」に表れた国家意識

 防人(さきもり)といふ古代日本の兵士・軍団のことはご存知でせう。防人は“防ぐ人”と書きますけれども、その元の意味は“崎を守る”といふ沿岸警備の兵士だらうと思ひます。防人といふ言葉が初めて歴史に登場しますのは、『日本書紀』の「孝徳天皇紀」、大化二年(六四六)です。防人は大化の改新に伴ふ諸々の官制の整備の一環として考へ出されたもので、最初は条文に応じて制度として用意された、形だけのものだつたのではないかと思はれます。

 ところが、この沿岸防備の軍団が、やがて実質的な意味を持つやうな事態が生じます。これは有名な史実でありますが、天智天皇の二年(六六三)新羅(しらぎ)に攻められた百済(くだら)の救援に日本の水軍が赴き、白村江(はくすきのえ)の戦ひで唐と新羅の連合軍に大敗を喫するといふことが起る。さうしますと、その翌年の『日本書紀』の記述に、対馬(つしま)壱岐(いき)筑紫(つくし)の国に防人を配置し、狼煙の装置を設備する、といふ記事が現れる。また、筑紫の国に水城(みづき)、今でいふ堤防を築いた、といふ記事も現れるのであります。『日本書紀』には、たださういふ年代記的な記述しかありませんけれども、それは当然、勝ちに乗じた新羅と唐の軍勢が日本に攻めて来るのではないか、といふ憂慮に発した備へであるに違ひありません。

 実際には両国の軍勢の来寇はなかつたわけですが、少なくとも外邦からの侵害を受けるかもしれないといふ認識が生じたはずです。これを契機にして、日本人は国家の防衛といふ課題が自分にせまつてきたことを意識したに違ひない。この時の防人は明らかに国家に徴用された国防軍の兵士に当るものであります。
『万葉集』に「防人歌」といふ特殊な部門があります。その中から六首を挙げてみます。


  大君の命畏(みことかしこ)み磯に()海原(うのはら)渡る父母を置きて

  霰降(あられふ)鹿島(かしま)の神を祈りつつ皇御軍(すめらみくさ)にわれは来にしを

  今日よりは(かへり)みなくて大君の(しこ)御楯(みたて)と出で立つわれは

  天地(あめつち)の神を祈りて征矢貫(さつやぬ)き筑紫の島をさして行くわれは

  大君の(みこと)かしこみ青雲(あをくむ)のとの引く山を越よて来ぬかむ

  大君の命畏(みことかしこ)(うつく)しけ真子(まこ)が手(はな)り島伝ひ行く


 八世紀半ばといふ古い時代の日本語の詩歌なのですけれども、それを読んでみますと、とにかくその意味も、こめられた感情も、もれなく現代の我々に伝はつてくるのです。日本語の伝統といふのは、本当に長く、立派なものだ、と思ひます。

 ただ、今たまたま六首を拾つてみましたけれども、その六首のうち三首まで〈大君の(みこと)かしこみ〉といふやうに詠ひ出してをります。また〈すめらみくさ〉といふ詞があり、〈大君の醜の御楯〉といふ表現がある。ここに私はやはり国防軍の意識といふべきものが表はれてゐると思ふのです。防人の軍団を編成する責任は、大化の改新の時代には国造(くにのみやつこ)とか伴造(とものみやつこ)とかいふ地方の支配者でした。律令時代になりますと、中央政府から派遣されました国司(こくし)になる。また、直接の事務を執るのは各地方の有力者をもつて任じてをりました郡司(ぐんし)とか、あるいは里長(さとをさ)、さういふ役人たちであります。

 しかし、この防人達は、自分達を徴集したのは実は国司を超えた、より高きところから発する何かやんごとなき一つの意志である、つまり大君の命令であるといふくらゐは、よく知つてゐたのであります。だからこそ「大君の(みこと)かしこみ」といふ歌の表現が出て来るのです。言ひ換へれば自分達は地方豪族の私兵ではない、大君の(みこと)をかしこみ奉じて故郷を出征して行く国防軍である、といふ認識を持つてゐたのでせう。

 国防軍といふやうな言葉で意識したわけではないでせうけれども、とにかくさういふ意識はあつた。だからこそ、その「防人歌」の九割五分ぐらゐまでが、(いと)しい妻子、両親(ことに母親でありますが)、それから恋人との別れの辛さといふものを歌つたものでありますけれども、そこには辛い別れに対しての恨みがましい表現がほとんど見られないのであります。

 恨みがましい表現と申しますと、私は直ちに杜甫(とほ)の「春望」といふ詩を思ひ出します。「時に感じては花にも涙を(そそ)ぎ、別れを恨んでは鳥にも心を驚かす」といふ悲痛な表現です。ひたすらな悲哀と感傷の表現としてこれは文学的には立派なもので、それとして我々の心に訴へますけれども、さういふ感傷の次元を超えた武士としての克己心が透けて見えるやうな表現に達してゐる歌が防人歌には多いのです。

 現在その『万葉集』に記載され、伝へられてをります「防人歌」といふのは、決して豊富な資料といふわけではありません。ほんの一時期の、しかも春一回の交替の時期にたまたま大伴家持といふ歌人が、集合してきた防人に接したために蒐集できたといふ、ほとんど偶然の成立といつてもいいやうなものであります。また、その防人の制度は、一世紀続いてゐたわけでありますけれども、その軍団のごく限られた一時期の意識の表現を記録にとどめたにすぎない文献です。しかし、さういふ限定をよくわきまへた上で、我々はここに伝へられてをります防人達の感情表現に日本人の国家意識、国防意識といふもののあるべき姿、原型みたいなものを認めてもいいのだらうと思ふのです。

 それは国家の要請が発せられたとき、男子たるもの、妻子や親族への眷恋(けんれん)の情、別れを悲しむ情を克服して国難に赴く覚悟と気概であります。そして、その国家の要請といふのは、大君の(みこと)といふ形で発せられるといふことであります。言葉を換へて言へば、大君の命、君命といふのは、つまり自分達がそこに所属してをりますこの国家といふ運命共同体からの要請として、現れて来るといふことを、彼らは知つてゐたのだらうと思ふのです。


 元寇とキリシタン国の侵攻

 その次に日本が国難を経験するのは、元寇であります。すなはち、文永の役(一二七四)と弘安の役(一二八一)が十三世紀の後半に起りました。この両度の戦役における国防軍の主体は、官命によつて徴集した人民軍ではなく、職業的戦闘集団たる武士であります。この時に武士達が出陣しましたのは、直接には北条得宗家の執権北条時宗の命令によつたものです。この場合の命令と服従の機構といふのは、封建制度の特質からして御恩と奉公といふ形で捉へられてゐたのは御存知の通りです。

 ところが、元寇に際して武士達を駆り立てたのは、例の「いざ、鎌倉」といふ言葉で表されます、得宗家、北条本家のお家の一大事といふ意識とはあきらかに性格の違つたものでした。北条時宗の背後の一段高いところに朝廷といふ御存在があつたのです。

 この文永十一年の一月に、時の亀山天皇が御位を後宇多天皇に譲られて上皇になつてをられます。この亀山上皇、そして後宇多天皇、御二人共に幕府と実によく協力され、国難に備へてそれぞれのお立場で力を尽されました。具体的には朝廷は諸国のお寺や神社に敵国降伏の祈祷を命ぜられる。特に亀山上皇はご宸筆(しんぴつ)の祈願文を伊勢神宮に奉じられる。あるいは、三十七枚の宸筆を筥崎宮の神座のもとに奉納し、〈世のために身をば惜しまぬ心ともあらぶる神は照し見るらむ〉といふ歌を詠じられて祈願されたといふことがありました。

 この空気は、素朴な武士達の心情に十分強く訴へただらうと思はれます。彼等はこのとき、いはゆる武家の棟梁である北条家の危急に馳せ参じたのではなく、明らかに国難に赴いたわけです。そしてまた、これを国難であると意識し得たのは、やはり朝廷がそれを要請されたからなのです。素朴な武士達にも「これは私の争ひではない。国家の大事なのだ」といふ意識、当時は今用ゐてゐる意味での「国家」といふ言葉はないのですが、いや、もし鎌倉武士達が「国家」といふ詞を用ゐたとすれば、それは当時端的に皇室を意味したのですから、まさしく皇室を象徴として日本国の一大事が出来(しゆつたい)したのだといふ自覚は十分あつたのです。

 こんな風に国難の歴史といふものを辿つてみますと、その次には十六世紀の半ば頃、キリスト教といふ一神教文明が日本に接触を求めて来る、といふことがありました。これは直接的な暴力による国土の侵害ではなかつた。普通は精神史的、あるいは思想史的事件と考へられてをります。つまり、キリシタン国――当時のスペイン、ポルトガル――の日本侵略の野心を予想して、秀吉が手を打つ。この秀吉が布告した“キリシタン禁制の布令”は結局は過剰反応であつたと評価されてをります。そしてそれが更に進展して、徳川家光の時代にポルトガル人・スペイン人の日本入国を一切厳禁し、又日本人の海外渡航と在外日本人の帰国をも全面的に禁止するといふ、いはゆる「鎖国政策」を実施します。正にこれも過剰反応だと思ふのですけれど、さういふ非常手段をもつてキリシタン国の侵攻に対応してきたのです。


 百年にわたる西洋文明の挑戦

 次に問題になりますのは、十八世紀の末葉に至つて帝政ロシアの南進勢力の尖端が遂に日本の北方領土に及んできたことと、それから十九世紀の半ばにおけるアングロサクソン勢力、つまり、アメリカが太平洋の東の方から、また同時に西南の海上からイギリスが迫つて来た、いはゆる西力東漸の現象です。西の力が東に次第に及んで来るといふのが、十八世紀半ばから十九世紀にかけての世界史的な趨勢でありました。西力東漸といふ世界史の潮流が、長年の自閉的姿勢によつて硬直し、脆弱になつた日本といふ国家の防波堤をのりこえ、突き崩す様な勢ひで押しよせてきたのです。

 嘉永六年(一八五三)に、アメリカの東インド艦隊がペリー提督の指揮のもとに浦賀にやつて参ります。そして日本に開国要求を突きつける。このときから数へまして、ちやうど百年目の昭和二十七年(一九五二)に、大東亜戦争の終結を約定する「日米平和条約」が発効するのです。十九世紀の半ばから二十世紀の半ばまで、このちやうど一世紀の期間が実は西洋文明の挑戦とそれに対応する日本の応答、といふ日欧米百年戦争の期間なのです。敢へて年代を区切るならば嘉永六年に、このいはゆる百年戦争は始まり、様々な曲折を経て昭和二十七年に終結したのだ、といふ考へも出来るわけです。この考へ方は、林房雄さんが昭和三十九年に『大東亜戦争肯定論』(番町書房)といふ著書を著され、その中で「東亜百年戦争」といふ表現を用ゐて書かれたことからよく知られるやうになりました。

 この林さんが名付けて言ふ「東亜百年戦争」、そして、その百年にわたる抗争の最終的な帰結として大東亜戦争は戦はれたのだといふ見方が、ここで打ち出されたわけでありますけれども、実はこの見方は、東京裁判における「パル意見書」の拠つて立つ意見と基本的には同じものなのであります。

 つまり、東京裁判における連合国の検察官達は大東亜戦争の性格を規定するのに、日米交渉の決裂のみならず、その交渉の案件だつた支那事変を問題とし、又その前哨戦だつた満洲事変を分析し、更に昭和三年のパリ不戦条約まで遡つて、ここを起点にして日本の現代史を裁かうとしたわけです。しかし、そこまで行つたのなら、その年に発生した張作霖爆殺事件が起つた原因は何かと遡つて尋ねることになる。すると満洲問題の前提としての第一次世界大戦中の対華二十一箇条要求といふものに突き当たる。その原因を更に尋ねて行くと、日露戦争があり、北事変があり、三国干渉があり、日戦争がある、といふふうにどんどん遡つて行つてしまふ。そして結局、一八五三年のペリー来航といふところにまで遡つて考へないわけにはゆかず、つまり大東亜戦争とは東亜百年戦争の終局だつた、といふことにならざるを得ない。林さんもパル判事もさういふ見方の上に立つてゐるわけです。

 この日本と欧米諸国との間の百年にわたる挑戦と応答の歴史の連鎖の中で、日本といふ国家は主として主権と国民といふ二つの因子について、先進欧米諸国から侵害を受け続けてゐたのです。幸ひに日本は、欧米の植民地化勢力によつて国土を侵害されるといふ経験はなかつた。
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