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国民精神の復権
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ルポ・エッセイ
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第三部 伝統的精神の原型

『国民精神の復権』
[著]小堀桂一郎 [発行]PHP研究所


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日本における子供の発見




 修身教育の功績

 これからの話は、文化史の問題、あるいは日本人の感情生活の歴史の一端についての話にならうかと思ひます。
「日本における子供の発見」などと題しますと、まづ「発見」といふ語が何だか変だとお考への方が多いのではないかと思ひます。子供といふのは、親から見れば何も「発見」すべき対象ではない、「天からの授り物」です。有体にいへば、夫婦の間に文字通り「生まれて来る物」であり、自明の存在とでも申しますか、気づいた時には既にそこに子供がゐるといふ性格のものです。さういふものに対して、「発見」などといふ言葉を遣ひますのは、私共文学をやつてゐる者の悪い癖かも知れませんが、やがてこの「発見」といふのはどういふ意味かは御説明申し上げます。

 日本の義務教育には、昭和二十年まで「修身」といふ課目がありました。今で申せば大体道徳教育に当るもので、独立の教科として立派な教科書も編纂されてゐました。この課目が、昭和二十年十二月に、日本を占領してゐた連合国軍総指令部の指令によつて、日本の地理・歴史の教育と一緒に廃止されて了ひ、教科書も回収された。その後、地理・歴史はやがて復活してをりますが、この修身は、修身といふ形では遂に復活されぬまま、既に五十年余を経て了ひました。

 どうして占領軍は、わざわざ指令を出して修身の教育を廃止させたのかといへば、これは、彼らが国民道徳高揚の教育手段としての修身教育に対し、警戒心を抱いてゐたからに他ならないと思ひます。つまり裏からいへば、修身教育の功績の証明の様なものです。戦後、修身教育を復活させようといふ動きは勿論ありましたが、左翼の教育学者や日教組などの組合の運動に妨げられて、今日まで実現しないまま来て了ひました。

 この修身教育といふのは一体どんな内容であつたか、端的にはその教科書がどんなものであつたか、若い世代の方にはそこから申さねばなりませんが、今の道徳教育とは趣を異にしまして、その教科書の内容の大半は昔話、歴史物語です。修身といふのは、概して子供に対して古典の教養もしくはその予備知識を与へる効果を持つものでした。大変面白い課目で、こんな面白い課目の復活に何故反対が多いのか、私には分かりません。私も子供の頃、修身といふ課目が大好きでした。

 ここで、『第五期 国定修身教科書』から取つた「小子部(ちひさこべ)のすがる」の話を御紹介しませう。私も小学校三年の春に習つた記憶がありますが、ごくやさしいお話です。


  小子部のすがる

  雄略(ゆうりやく)天皇は、すがるといふやくにんをおめしになつて、「こ」をたくさん集めて来いとおほせになりました。

  そのころ、かひこのことを「こ」といひました。

  すがるは、心がやさしくて、子どもがすきでありました。「こを集めてまゐるのでございますか。かしこまりました。」と申しあげて、すがるは、出かけて行きました。「こ」といふのを、子どものこととはやのみこみして、にこにこしながら、町や村へふれて歩きました。

 「陛下のおほせだから、子どもたちは集れ。さあさあ、みんなついて来い。」

  天皇のおめしと聞いて、子どもたちは、いつたい何ごとであらうかと、男の子も、女の子も、すがるのまわりに集りました。

 「これこれ、そつちの子、はなをたらしてゐてはいけない。これこれ、こつちの子。口をあんぐりさせてゐるぞ。これこれ、さわいではいけない。みんな、おぎやうぎよくするのだ。」

  子どもたちは、大喜びで、すがるのそでにぶらさがつたり、腰にまきついたりします。

  すがるは、歩き始めました。子どもたちは、みんな、いろいろの歌を歌ひながら、後から、ぞろぞろついて行きます。

  御所(ごしよ)にまゐると、子どもたちを待たせておいて、すがるは、すぐにお取次ぎをねがひました。

 「おほせによつて、子どもをたくさん集めてまゐりました。」

  天皇がごらんになると、たくさんの子どもたちが、おぎやうぎよくすわつてゐます。みんな、すがるに教へられたとほり、両手をついて、つつしんでおじぎをしました。

  天皇は、お笑ひになりました。さうして、

 「子どもたちを、だいじに育ててやるやうに。」

 と、おほせになりました。

  御所の近くに、大きなやしきをたまはつて、すがるは、たくさんの子どもたちを、教へみちびくことになりました。

 「この子どもたちが、りつぱな国民となつて、陛下に忠義(ちゆうぎ)をつくし、お国のために、はたらくことができるやうに、育てあげなければならない。」

 と、すがるは考へました。

 「みんな、陛下のみめぐみを忘れてはならないぞ。」

  いつも、さういつて聞かせながら、子どもたちをだいじに育てました。


 これだけの話です。これはどういふ話なのか、大人の眼からしかるべく解釈・説明しようとすると、よく分からないところもあります。私が子供の時にも、何だか細部がはつきりしない話だと思つた覚えがあります。また、雄略天皇と申しますと皇紀千百二十年代の天皇でありまして、西暦でいへば四六〇年代ですから、ざつと今から千五百年前の話であつて、そんな昔の、しかも歴史上の重大事件でもない、文字通り子供じみた話が、どうしてこれほどの永い年月を消えることもなく伝へられて来たのか、これも分からなかつたのです。

 ところが大人になりまして、『日本書紀』の「雄略天皇紀」を繙いてみますと、この話が確かに雄略天皇六年三月の記事として出てゐます。


  三月(やよひ)辛巳(かのとのみ)朔丁亥(ついたちひのとのゐのひ)に、天皇(すめらみこと)后妃(きさきみめ)をして(みづか)(くは)こかしめて、(こかひ)(こと)(すす)めむと(おもほ)す。(ここ)(すがる)は、人の名なり。(これ)をば須我(すがる)()ふ。(ことおほ)せて、国内(くにのうち)()(あつ)めしめたまふ。(ここ)に、(あやま)りて、嬰児(わかご)(あつ)めて、天皇に奉献(たてまつ)る。天皇、(おほ)きに(みゑら)ぎたまひて、嬰児を(たま)ひて(のたま)はく、「(いまし)(みづか)(やしな)へ」とのたまふ。(すなは)ち嬰児を宮墻(みやのみかき)(ほとり)(ひだ)す。()りて(かばね)を賜ひて、少子部連(ちいさこべのむらじ)とす。


 雄略天皇は、支那の『礼記』の三月の部に農事関係の祭祀として「后妃」が蚕の祭りを行つて養蚕業奨励のきつかけとする記事があるのを読まれ、これを日本でも実行しようとなさいました。その為にはまづ蚕が必要です。そこでといふ役人に命じて、蚕を入手しようとなされた。しかし当時は文字普及以前のことで、たとひ天皇のご命令といへども、文書ではなく口頭で伝へられたのでせうから、自身蚕についての知識が乏しかつたこともありませうが、「()」といふのを人間の「()」の事だと思つて、子供を集めて来て了つた。

 の誤解でこの時蚕の祭りはできませんでしたが、天皇はそれほど怒られる事もなく、折角集めた子供だからに「お前が養へ」と仰せになつて、子供達を賜つたといふ話です。この時はこれを機縁に「少子部連」といふ姓を賜りまして、その子供の養育事業は朝廷の政事(まつりごと)の一環と見做され、高い扱ひを受けたといふことになつてゐます。


 注目すべき『日本書紀』の記事

 何故かういふ話に注目し、御紹介申し上げるかと申しますと、『日本書紀』といふのは官撰の正史、つまり国家の公式の歴史書であります。正史といふ概念は、支那の『史記』とか『漢書』、『惰書』、新旧の『唐書』といつた歴史書のあり方にならつて形成されたもので、当時の国際関係を十分配慮して編纂された、謂はば国家の表向きの歴史です。西洋でも、イングランド、スペイン、フランスあるいは神聖ローマ帝国といつた古い国々は、主として王家の年代記といふ形でその国の正史を持つてゐました。ところが、支那にせよ西洋の古い国々にせよ、正史といふのは概していへば政治史であります。大体王家の権威の高さを立証する為に編纂された、いはば権力と栄光の歴史、王家の事蹟と功業の年代記といつてもよいかも知れません。

 ですからかういふ国家の正史に、いかなる形にせよ、庶民の子供についての記事が現れるやうな事は、まづありません。私自身調べてみたわけではありませんし、そんなことはできもしませんが、歴史家はさういつてをります。ましてや名も無き民の子供に対し、民族共同体の最高首長たる天皇が直接目をかけておやりになり、臣下に命じて一種の養育事業を行はせたらしい、こんな記事が出てくる古代国家の正史といふものはまづ無い、実に珍しい事なのです。

 もう一つ、『日本書紀』における子供についての記事を挙げておきます。雄略天皇から五代目に繼體天皇が即位されます。これが六世紀の初めですが、この繼體天皇のご長男勾大兄(まがりのおほえ)皇子(後の安閑天皇)のお妃に春日(かすが)皇女といふお方がいらつしやいます。皇子とこのお妃の間には子供がゐません。そこで『日本書紀』には、この皇女が「空飛ぶ鳥も自分の子をいつくしむ為に高い木の梢に巣を営む。地を這ふ虫も自分の子を守る為に穴を作つて万全を尽す。人間にこの気持の強くないわけはない。それなのに私には愛し養ふべき子供がゐない」といつて嘆かれたといふ記事が出て参ります。

 子供のゐない女の嘆きといふ事それ自体は、古今東西決して珍しい事ではない。しかしそれが正史にとどめられた事は、注目すべき事です。ではどうしてこの様なエピソードが日本の正史に遺されたかといへば、春日皇女の嘆きがまことにひたぶるなものであり、そのお嘆きの言葉が文学的表現であつて、人の心をうつものである。それが勾大兄皇子や天皇の心を感動させ、天皇は皇女に直轄の領地を賜つて、それに皇女の名を帯びさせ、子供がなくとも皇女の名が長く後世に伝はる様、配慮しておやりになつたといひます。更にこのことが官撰の歴史編纂者の心をうつて、かういふ記事としてとどめられるに至つたものであらうと思ひます。


 万葉びとにおける子供の存在
『日本書紀』が編纂されたのが元明・元正天皇の頃、西暦でいへば八世紀の初めですが、これから約五十年ほど後に『万葉集』が編纂されてゐます。ですから、『万葉集』に載せられた歌の多くは、大体七世紀の末から八世紀の前半にかけての数十年のものです。『万葉集』の歌はこの頃の日本人の感情生活を反映したものといつてよいでせう。その中に山上憶良といふ歌人がゐます。『万葉集』の代表的歌人の一人で、日本人の家族と子供に対する感情を歌に詠みまして、正に千古不滅の傑作を遺してゐます。

 憶良が筑前の国の役人として赴任した時に、脱俗の風を気取つて父母妻子を顧みないで仙人じみた境涯に遊んでゐる男と出会つた。自分では脱俗の先覚と称してゐるが、憶良にいはせれば悟りに達した仙人でも何でもない、山野に浮浪する民と変るところはない。そこで憶良は、この男を諫める歌を詠むのです。


  父母を 見れば尊し 妻子(めこ)見れば めぐし(うつく)し 世の中は かくぞ道理(ことわり)もち(どり)の かからはしもよ 行方(ゆくへ)知らねば 穿沓(うけぐつ)を ()()るごとく ()()ぎて 行くちふ人は 石木(いはき)より成りてし人か ()が名()らさね (あめ)へ行かば ()がまにまに (つち)ならば 大君います この照らす 日月の(した)は 天雲(あまぐも)の 向伏(むかふ)(きは)み 谷蟆(たにぐく)の さ渡る(きは)み (きこ)しをす 国のまほらぞかにかくに ()しきまにまに (しか)にはあらじか

   反歌

  ひさかたの天道(あまぢ)は遠しなほなほに家に帰りて(なり)()まさに


 よく知られた歌ですが、省略が多くなかなか難しい歌です。まづ「かくぞ道理」までの段落ですが、そこまでは説明するまでもないでせう。それ以下は、要するに世間・人間の絆といふものは断ち難いものだ、それを断ち切つて了へば行方知らずに自由に飛んで行けるだらうがなかなかさうはゆかない、ところが、「穿沓を 脱ぎ棄るごとく 踏み脱ぎて」まことに気軽にそれを切り捨てて、好きなところに遊びに行つて了ふといふ人があるが、さういふふうに妻子の絆を棄てて顧みない人は「石木より 成りてし人か」、お前さんの心は木か石か、お前の名前をいつてみろ、「天へ行かば」自分の思つてゐる通り好き勝手にすればよからう、ただしこの大地にゐる限りは、天皇様がすみずみまでお治めになつてゐる大変すぐれた立派な国では、こんなふうに「欲しきまにまに」暮してゐるのは許されない、お前は間違つてゐるぞ、「然にはあらじか」さうではないか――さういふ意味です。

 反歌では、「お前が世俗を脱して天上世界に遊んでゐたいといふ気持は分かるが、天上世界はずつと遠い。夢のやうな事を考へてゐないで、ちやんと自分の家に帰つて世間並の生業にいそしむのがよくはないか」といふふうに諫めてゐます。
『万葉集』でこれに続いて収められてゐる歌が、やはり憶良の「子等を思ふ歌」といふ更に著名な歌です。


   子等を(しの)ふ歌一首并に序

  釈如来、金口(こむく)に正に説きたまはく、衆生を(ひと)しなみに思ふこと、(らごら)のごとし。又説きたまはく、(うつく)しみは子に過ぎたるは無しとのたまへり。至極の大き聖すら、(なほ)し子を(うつく)しむ心あり。(いは)むや、世間(よのなか)蒼生(あをひとぐさ)、誰か子を(うつく)しまざらむ。

  瓜食(うりは)めば 子等(こども)おもほゆ 栗食(くりは)めば ましてしのはゆ いづくより ()たりしものぞ まなかひに もとな(かか)りて 安眠(やすい)()さぬ

   反歌

  (しろがね)(くがね)も玉も何せむにまされる宝子に()かめやも


 大変有名な歌で、わざわざ私が解釈しなくてもよいと思ひます。この歌につきましては、個人的な経験を申し上げて恐縮ですが、私の子供が生れました時に、臨時に来てもらつた家政婦のおばさんが、我家の赤ん坊に哺乳瓶でミルクを飲ませながら、あやすやうに唄ふやうに「銀も金も玉も何せむに」と口遊んでゐるのを見て、感心したことがあります。

 別に特に国文の教養を受けたとも思へない、素朴な田舎風のおばさんなんですが、それでもかういふ古い歌をちやんと教へられ記憶にとどめてゐて、まことにしかるべき時に、赤ん坊をあやしながら正にしかるべく自然に口をついて出たこの歌を口遊んでゐる。この歌は約千三百年前につくられた作品ですけれども、現在でも日本人の心の中にそのまま生きてゐる、古典が民衆の心の中に生きてゐるといふのは、正にかういふ事態を指していふのだらうと思ひます。

 憶良の歌で、もう一つよく知られた歌があります。


   山上憶良の臣の、(うたげ)(まか)る歌

  憶良らは今は罷らむ哭くらむそのかの母も()を待つらむぞ

「わしはもう帰るよ、子供が泣いて待つてゐるだらう、その子供の母親だつて待つてゐるだらうからお先に失礼するよ」といふ歌です。この歌で面白いのは、憶良が自分の妻を「そのかの母」、わが子の母と呼んでゐる事です。現在でも日本の男性は、宴会の途中で帰る際に「家内が待つてゐますから」とはいへません。「子供が待つてゐるから」とはいへるのです。日本の男がもつてゐる一種のはにかみですが、憶良の歌を読みますと、それが千三百年くらゐの昔にちやんとあつたのかといふ感懐を抱くのです。

 それから「そのかの母」といふ云ひ方との関連で注目していい事は、日本の家庭において家族相互の呼び方について、子供を尺度にして決めるといふ慣行がある事です。まだ子供のゐない若い夫婦の場合「あなた」とか「君」「お前」と呼び合ひ、同居する父母に対しては「お父さん」「お母さん」と呼ぶだらうと思ひます。兄弟などは「お兄さん」「お姉さん」でせう。ところが、一旦その若夫婦に子供が生れますと、その呼び方がいつの間にか、「あなた」「お前」から「お父さん」「お母さん」に昇格し、それまでの「お父さん」「お母さん」は「おぢいさん」「おばあさん」に、「お兄さん」「お姉さん」も「をぢさん」「をばさん」に、その世帯の第三世代である孫といふ新世児を尺度、基準としまして、世代的に一目盛スライドします。かうした子供を基準とした家族の位置づけ、それが既に憶良の「そのかの母」といふ云ひ方の中に表現されてゐるのではないかと思ひます。万葉びとは、自分達の人生の連関の中で、既に子供が確乎として存在してゐる事を、つまり「発見」してゐるわけです。そして子供にその様なある種の尺度としての位置づけを与へてゐるのです。


 情感のこもつた親子の描写
『万葉集』は奈良時代ですが、次の平安時代になりますと、文学の中に現れる子供の姿は、ますますはつきりとした形をとる様になります。ただ「めぐし(うつく)し」といふ感情的な嘆美の対象であるだけでなく、明らかに文学的な美的造型の対象となつて参ります。

 日本で一番古い物語と伝へられてゐるのが、九世紀の半ば頃に成立した『竹取物語』です。これは、子供のゐない老夫婦であつた竹取の翁夫婦が竹林の中で女の子を見つけ、その子を天の恵みとして「(いつく)し」み育てる姿を、簡潔ながら実に美しい言葉で表現した、いはば「子宝物語」です。

 近年の研究によりますと、この物語は支那大陸南部の住民の間に伝承されてゐた説話と密接な関係があり、日本人の独創的な物語ではない事が指摘されてゐます。確かにかぐや姫の昇天や、その前の五人の求婚者に難題を課す場面などは、リアリティが欠けてゐて、何か(たね)がある物語ではないかと感じられます。しかし、その中の親子関係の描写に関しては、この話が日本の民間から発生した事を肯はせる情感があります。
『竹取物語』から五十年ほど後、十世紀の初めには『伊勢物語』が成立してゐます。その中に「筒井つゝ」の物語(二十三段)があります。幼なじみの恋物語であります。

 共同井戸のまはりで無邪気に遊んでゐた近所づきあひの男の子と女の子が、やがて思春期に達して異性間に自然に生ずるはぢらひをおぼえる様になる。そのとき互ひの思ひのたけを自分の髪の長さに托して歌に詠み交す。二人は結局自然に結ばれる。幸せさうな物語です。
『伊勢物語』の作者は在原業平ではないかともいはれてゐますが、この物語は作者自身か、その周囲の人の現実の体験を素材として成立したに違ひないと思はれてゐます。実にリアリティに富んだ、いかにもさうであつただらうと思はせる描き方です。『伊勢物語』は各段が大変短い、倹約された簡潔な言葉で描写されてゐるものですが、この第二十三段には実に見事に、真に迫つた子供の姿が描き出されてゐます。

 それから最も有名なのは、『源氏物語』の「若紫」の巻に描かれてゐる若紫の少女時代の姿でせう。光源氏が体の具合が悪くて、北山のお寺に加持祈祷をする立派なお坊さんがゐるといふ事を聞き、そこを訪ねます。その時に十歳くらゐの少女を見かける。この場面につきましては、谷崎潤一郎さんの口語訳でご紹介しますと、


 清らかな女房が二人ばかり、それから(わらは)どもが出たり這入つたりして遊んでゐます。中に十ぐらゐにもなるでせうか、白い下衣(したぎ)に、山吹(かさね)の馴れたのを着て、此方へ走つて来る女の子が、外の大勢の子供たちとは似るべくもなく、成人の後が思ひやられる美しい器量をしてゐます。
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