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愛されなかった時どう生きるか
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生き方・教養
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愛が憎しみに変わる時

『愛されなかった時どう生きるか』
[著]加藤諦三 [発行]PHP研究所


読了目安時間:38分
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神経症者は憤慨する


 世のなかは自分の願いどおりになるのが当然だと思っている人がいる。ホルネイのいう神経症の人である。神経症とは俗にいうノイローゼであり、漠然とした不安に悩まされる症状を示す。

 誰だってかなわぬことを願うことはある。しかしそれはあくまで願いである。その願いがかなうことを自分の周囲の世界に要求することはない。しかし神経症の人は要求しそれがかなうことを当たりまえと思う。

 自己中心性からぬけきれないのである。誰だって株を買えばそれが上がることを願う。しかし上がって当たりまえだとは思わない。ましてや上がることを要求したりはしない。自分にだけ特別にそのような権利があるとは思わない。だからこそ損をした時あきらめがつく。

 しかし、神経症の人はどうであろうか。自分にはそのような特別な権利があると感じている以上、損をしてしまったという状態を受け入れるわけにはいかないのである。

 神経症の人は、何か他人と違って自分には特別の資格があるとでも感じているような様子を示す。

 神経症患者になると、自分にとって重要なことにはすべて特別の権利があると感じるようになる。

 自分も他人と同じ人間である以上、恋愛もするが、他人と同じように失恋もする。他人はふられることはあっても自分がふられることはない、と感じるとすればおかしい。

 ところが神経症者は、他人はふられることがあっても自分がふられることはない、と感じてしまう。

 恋愛のトラブルはどれをとってみても、「よくある話」である。自分も他人と同じようにまきこまれることはあろう。

 それなのに、それらのことをきわめて不当なことと感じてしまうのである。

 ホルネイの『ノイローゼと人間の成長』から神経症者の感じ方について一つの文を引用してみる。

 The world should be at my service.

 自分の周囲の世界が自分に奉仕すべきだと感じているのだから、不当だと感じることは多いであろう。

 自分が他人と同じようにあつかわれると不当だと感じる。他人から常に特別にあつかわれることを要求する。

 或る神経症的学生が夏のアルバイトで道路工事をした。こういう肉体労働をすることの意味をやたら述べたり、他の学生は勉強ばかりしてこの世の中を知らない、汗をたらたら流した時の辛さは地獄であり、終った時の喜びは天国であるとまくしたてる。まるで天地がひっくり返るような騒ぎなのである。「このオレが」という意識なのであろう。

 他人から単純に道路工事のアルバイトという見方をされるのが許せない。人と同じことをしても、他人と同じように見られることが許せないのである。

 正常な人間は、自分は特別な権利をもっているとは感じていない。従って他人と同じことをやれば、他人と同じように見られると思うし、他人と同じように失恋すると思うし、他人と同じように損する時もあると思う。

 かといって誰も失恋や損失を望んでいるわけではない。できれば避けたいと願っている。できれば恋愛がうまくいき、賭けで得することを願っている。

 神経症者とそうでない人間の違いは、その願いがかなわなかった時の感じ方なのである。心理的に健康な人間は、願いがかなわない時、不公正とか不当とか感じないし、憤慨したりはしない。

 神経症患者は憤慨する。なかなか事態をそのまま受け入れることができない。

失恋を納得できないあなたは幼児と同じである


 一般に健康な人間は対象喪失にどのような反応をするのだろうか。

 事業に失敗するとか、失恋するとかという喪失がおきた時、さっとあきらめて次の瞬間には別の目標にむかっている、などという人はいない。

 たいていの人はすぐには素直に受け入れられない。夢ではないかと思ったり、何かの間違いではないかと思ったりしよう。

 失恋の場合であれば、「あの人は私の愛をためしているのではないか」と思ったり、「いつかきっと帰ってくる」と思ったりする。そのように対象喪失を否認する時期というのがあろう。

 或いは自分を捨てていった恋人を恨んだりする。激しい憎しみにかられ怒り狂う時もあろう。

 だが、そのような時期を経て、たいていの人は喪失を最終的に受け入れていく。やっぱりだめだったと断念する。

 やがて、新しい情熱の対象を発見して生きていく。

 これが心理的に健康な人の対象喪失にともなう悲哀のプロセスであろう。
「愛の解消も、生涯、人によく愛され、愛を確信している人間にとっては、それほど脅威とはならないものである」(マズロー、小口忠彦監訳、『人間性の心理学』産業能率大学出版部 一八五頁)

 しかし、すべての人がこのようにして喪失から再生への道を歩むわけではない。神経症の人などは、喪失から再生への道をうまく歩めないであろう。

 世界は自分に奉仕すべきであるという世界観をもっている人は、喪失を最終的に受容することはできないのであろう。「あいつを許せない」という怒りが終る時がない人もいよう。

 失恋にさいしてたいていの人は、「一生憎みつづける」と怒っても、やがては新しい恋にめざめ憎しみも消えていく。

 しかし世のなかには、本当に一生昔の恋人を憎みつづける人もいる。

 ホルネイの前掲書には次のような神経症者の説明がある。

 I should not be bothered.

 自分を悩ます人がいれば、それはその人が悪い。その人の自分に対する態度はきわめて不当である、と彼は考える。

 自分は悩むことなく生きていく権利のある人間だ、と彼は考える。

 そんな彼にも対象喪失はおきる。希望がかなわない時がある。出世の夢が実現されない時もある。だが自分はそのような人間ではない。

 彼はその喪失を受け入れることはできない。

 なぜなら、自分の願いは実現されるべきであり、自分にはそのような資格があると考えるからである。

 このように自分を感じている以上、夢を断念することはできない。対象喪失を否認する段階にいつまでもとどまることになろう。
「腹のなかが変になるほどしゃくにさわる」ことはあっても、対象喪失を最終的に受容することは出来ない。

 彼は「あーしゃくだ、しゃくだ」という段階からまえにすすむことができないのである。

 どんなにしゃくにさわっても、彼のなかの依存性がなくならない限り、さきにすすむことはできない。

 甘やかされてスポイルされた子供は断念することができない。これと同じである。
「くやしい、つらい、苦しい、もう神経がすりきれそうだ、あー涙が出てくる」となっても断念することができない。

 私は執着性格というのはホルネイのいう神経症だと思っている。執着性格者は失った対象に固執する。対象喪失に適応できない。

 甘やかされてスポイルされた子供、或いは幼児は対象喪失に適応できない。ミルクがこぼれる、幼児は泣いてすねる。

 新しいミルクをコップに入れてやる。
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