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いま沖縄で起きている大変なこと 中国による「沖縄のクリミア化」が始まる
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政治・社会
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第二章 被害者史観が生んだ「仮想空間」を超えて──琉球王国の実相とアメリカ統治の意味

『いま沖縄で起きている大変なこと 中国による「沖縄のクリミア化」が始まる』
[著]惠隆之介 [発行]PHP研究所


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 反日教育と反米教育で座標軸を喪失


 沖縄独立を主張する人たちは、かつて存在した琉球王国を理想国家であったかのように喧伝している。彼らは廃藩置県から終戦までを、日本に植民地支配された搾取と抑圧の時代であったと解釈している。実際、私が小学生の頃に教えられた琉球王国というのは、豪華絢爛たる文化が栄え、人々は皆平等で平和な社会であったという。沖縄県人は多かれ少なかれ、そのような琉球王国への郷愁を持っている。

 しかし、そのような琉球は、被害者史観に基づく幻想でしかない。戦後のアメリカ統治時代には、日本への復帰運動が起こらないよう、反日教育が行われていた。そして日本復帰の直前、それに加えて反米教育を左翼勢力が主導した。そのため、沖縄県人の多くは琉球王国以外の拠り所を失ってしまったのだ。自分の立ち位置を琉球王国という高みに置き、その幻想の中を漂っているのである。

 その琉球王国を潰したのが、一六〇九年(慶長十四)の摩侵攻であり、一八七九年(明治十二)の廃藩置県であるという怨嗟(えんさ)がいまも沖縄を(おお)っており、その空気に異論を唱えたり反発したりする県民は地域社会のリーダーになれないという特殊な空間ができあがっているのだ。

 私が小学校に入った年、教師に引率されて、一年生全五クラスで映画館に行ったことがある。観せられたのは、第四代沖縄県知事・奈良原繁を描いたドラマであった。奈良原は摩藩士時代、生麦事件でイギリス人を斬ったと言われる男である。

 後で知ったことだが、奈良原は十六年にわたって沖縄県知事を務め、戦前には沖縄近代化の最高功労者として、県民によって銅像まで建てられていた人物である。ところが小学一年生の私が観せられた映画では、奈良原知事は横暴で沖縄県出身の県庁官吏を狂死させるドラマが描かれていたのだ。私の心の中に、摩に対する恨み、日本国民に対する恨みがふつふつと湧き上がったことを、昨日のように覚えている。

 この歴史改竄はアメリカ陸軍第七心理作戦部隊が行った、沖縄県民に反日思想を植えつけるための宣撫工作の一環だったのである。こうした反日教育の底流に左翼勢力による反米教育が後年加わった。結果として、被害者意識に基づく反日・反米・反軍事の「仮想空間」がつくられたのだ。

 本来であれば、自分たちの座標軸を見つめ、それに基づいて教育や産業振興策を進めるべきだったのだが、その座標軸が失われてしまったのだ。

 いまの沖縄県人に必要なことは、自分たちの座標軸をしっかりと見据えることだ。そのためには、かつて存在した琉球王国の実態を知ること、そして二十七年間のアメリカ統治の成果を総括することが必要だと私は考えている。


 庶民は農奴と化していた原始共産主義社会


 では、琉球王国とはどのような社会であったのか。琉球社会における最も特徴的な制度が「地割制(じわりせい)」である。冊封正使の陳侃(ちんかん)が一五三四年に記した『使琉球録』に地割制への言及があることから、当時、すでにこの制度が確立していたことがわかる。

 地割制とは、農民の土地私有を禁止し、集落単位で課税する制度である。耕作地は二、三年ごと、または十年ごとに、集落単位で交代させた。これを「地割替え」という。農民は地割替えのとき以外は各集落間の往来を禁止され、集落内で目立つ行動をとる者は村八分にされ、野垂れ死に追いやられた。

 本土では江戸時代、すでに農民には自由が認められており、世界一の識字率を誇り、農書なども広く農民に愛読されていた。そしてコメよりも収益性の高い商品作物の生産や、出稼ぎ、商売、日雇いなども活発化し、農民の生産収入は増加していた。ところが琉球では、当時人口の九割を占めた農民はこれとは対照的に、地割替えが行われる前の一、二年は施肥(せひ)さえ怠ったという。まさに農奴であった。

 十八世紀琉球史に名宰相として名を残す三司官・蔡温(さいおん)(琉球名・具志頭文若(ぐしちやんぶんじやく))は、土地共有制が生産意欲を沮喪させると危惧していた。

 要するに、地割制とは、毛沢東やポル・ポトが試みて無残に失敗した原始共産主義そのものであった。

 明治政府は一九〇三年(明治三十六)、この地割制を廃止するが、その後も集落内には死罪を含む(おきて)や、他集落居住者との結婚時には両集落青年団へ罰金を支払うという掟が残り、このような悪弊は終戦まで続いた。このため、結婚も集落内、とりわけ近親婚が慣習化していたのだ。その結果、戦後に至っても遺伝子異常による奇形や精神異常が多発していたのだ。

 なぜ、このような支配体制が確立されたのか。琉球王国は最後の(しよう)侯爵家に至るまでに少なくとも六王朝の交替があったとされている。人々はこれを「世替(よが)わり」と呼んだが、その主因は食糧問題に起因した内乱か謀反であった。

 沖縄には毎年、台風がいくつも襲来し被害をもたらす。しかし、襲来する台風が少ないと、今度は干ばつが起こった。農業にとっては非常に厳しい自然環境にあったのだ。

 そのため本土式の稲作は定着せず、農民たちはソテツの実を食べており、人口も七万〜八万にすぎなかった。ところが一六〇五年(慶長十)に中国から甘藷(サツマイモ)が移入して以降、人口が急増し、十七世紀末には人口二〇万を数えるまでになった。ちなみに戦前、沖縄の唯一の商品作物とされたサトウキビは一五三四年(天文三)頃から南西諸島にすでに伝播していた。

 しかし、自然条件を克服できなかったため食糧事情は厳しく、「物()る者ど我御主(うしゆう)」という諺が定着する。要するに、食料さえ与えてくれる者であれば、誰でも主君として仕えるという意味だ。このため政権は短期に交代した。
「沖縄学の祖」といわれる民俗学者・伊波普(いはふゆう)はその著『古琉球』(昭和十七年十月十六日、琉球新報社刊)において、沖縄人の最大の欠点は事大主義にあるとして、「恩を忘れ易い」とまで表現しているが、その要因にこのような事情があった。なお伊波は、「廃藩置県は沖縄住民にとっては奴隷制からの解放であった」とさえ語っているのだ。


 スパイの監視下で自由を弾圧


 地割制下の農民の疲弊ははなはだしく、一八五三年(嘉永六)、琉球に来航した米国・ペリー提督や一八八一年(明治十四)に第二代沖縄県令として赴任した上杉茂憲(うえすぎもちのり)(米沢藩最後の藩主)は、その惨状に胸を痛め、詳細な記録を残している。同時にこの二人は、中国型官僚体制で生じた琉球官吏の腐敗も指摘している。

 たとえばペリーは、「メキシコの労働者を省けば、これほどまでに不幸な生活をしている人民を世界に見たことがない」「琉球住民を専制的法律の圧迫から救いたい」(合衆国上院行政文書、および神田精輝訳著『ペルリ提督琉球訪問記』国書刊行会)と、琉球農民の惨状に同情し、それが王国自体の統治制度に由来することを指摘している。

 ペリーは琉球の階級社会をこう表現する。

《最下級の人民(農民)はまったくの奴隷であって、公民権もなくまた個人的自由もない。そして貴族や学者のどんな命令にも従わなければならない。それゆえに貴族階級は全く怠惰である》(前掲書)


 また、徴税役人の腐敗についてもペリーはこう述べている。

《農地は政府(王府)が所有し、しかもその監督人は収穫物を集めるために雇われているが、その収穫の大部分を横領してしまうということがわかった。我々が得た最も正確な説によると真の耕作者は収穫の一〇分の二しか手に入らず、残りの一〇分の六は地主すなわち政府に納め入れ、残りのうち一〇分の二は監督人が収穫物取立ての賃金としてもらい受けることになっている、ということである。したがって農民の働く奮発心も起こらず、ただ鞭をみて仕方なく労働する、という調子であった。そして、王国内には探偵政治が横行し、スパイが至る所を監視していた》(同)


 琉球農民の年貢率はさしずめ八公二民ということになる。ちなみに本土では、江戸時代の年貢率は六公四民、または五公五民といわれ、農民の取り分は生産枠の四割から五割は確保されていた。

 ペリーは「貴族階級について改革すべき点を下級の者に話しても、外観にも共鳴の色が現れなかった」と表現している。王府は王国内の不穏な動きには即座に弾圧を加えるからだ。

 琉球農民にとって、一六〇九年(慶長十四)、琉球に侵攻した摩軍はこの傲慢な支配階級を()らしめる新興勢力にも映った。一八六〇年(万延元)には、宮古島の元役人だった波平恵教が、王府の悪政を訴える書状を摩商人に託して、那覇の摩在番奉行所に届けようとする事件が起きた(落書事件)。しかし、書状は摩藩に届かず王府の手に落ち、波平恵教は処刑されている。


 琉球王国は非武装ではなかった


 巷間伝えられる「琉球の民は平和を愛し、武器を持たなかった」という説は事実に反する。一八四六年(弘化三)から約八年間、琉球で生活した英国の宣教師で医者でもあったベッテルハイムは、「琉球人は兵器も有せず、また武装した兵士も外国人に見せず、戦争を好まぬ者のごとく見せかけている」と発言しており、村人から暴行を受けてもいる。

 一八五三年(嘉永六)に来航したペリーも、「琉球各所の城址や首里城の防護城壁は琉球島がいつでも幸福な平和な状態にあるのではなかったということをはっきり示している」と記録している。

 たしかに中城(なかぐすく)城の城壁には弾丸や石弾の跡が残っており、すでに十五世紀中頃には、琉球には中国や朝鮮から火薬筒が伝わって実戦に使用された形跡がある。また、『李朝実録』には、倭寇から買い上げた朝鮮人奴隷に「火筒」の法を学ばせているとの記録もある。
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