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「自分」に執着しない生き方
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生き方・教養
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第1章 「本当の自分」が見える

『「自分」に執着しない生き方』
[著]加藤諦三 [発行]PHP研究所


読了目安時間:57分
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他人がわかれば自分が見えてくる



 よく若い人で、その道で名を成した大家(たいか)や高名な評論家などを「あんな人物、たいしたことないよ」とか「彼は正義漢ぶってるだけだよ」とかいっている人がいる。そういっている本人は、そういうことによって自分は、何か大変えらいことでもいっているつもりになっているらしい。

 だが、そんなことをいうのはまったくやさしいことであって、それによって自分は何も成長することはない。

 当の本人はそういうことをいうことによって、自分は何かよほどえらくなったつもりでいるらしいが、そんなことをいってみたところで人間は、けっしてえらくなってはいない。
「あんな人物、たいしたことないよ」ということによって、ただ日ごろの欲求不満を何とか解消しようとしているのだろうが、けっして、そんなことで欲求不満のほうも解消はしない。そのうえ、そういうことによって彼は、その対象となった人物のよいところを吸収することができなくなってしまっている。人間は「あんなヤツ、たいしたことねえよ」というような生意気な口をきいているうちは、けっして成長しない。

 人間は、やはりほれ込むことによってしか成長しないのだ。対象になった人物にほれ込むことによって、彼らの生活態度のいいところを吸収できるのである。

 人間は、生意気な口をきいた時、それでその人の成長も止まったのだ。「こんな本読んだってしようがないよ、くだらないことを書いてあるんだから。これで売れるんだから、いやになるよ」なんていうことを、書店で若い人がいっている。しかしその若い人は、それによって、その本から何も吸収できはしない。

 このあいだラジオで若い人が「今のような大学で勉強したってしようがない」などと生意気な、わかったような口をきいていた。おそらく彼は、それで自分は勉強している人よりえらくなったつもりででもいるのだろうが、彼はただ単に“ひねくれた若者”というだけのことだ。彼は学問の厳しさに耐えられなくなって逃げだした、弱い弱い、いくじのない男なのである。

 そして、その自分の怠けぐせを認める勇気さえ持てず、それを大学がどうのという言葉で合理化している。

 しかし、人生は甘くない。そんなことで生きていかれるような甘ったれたものではない。彼はいつしか破滅するだろう。精神的破綻者として、生きていくしかない。人生は厳しいのだ。そんな生意気な口をきいているだけで乗り切れるようなものじゃない。

 人生はいつしか、われわれにいやおうなく自分自身の真の姿を認めることを強制する。自分はえらくもなんでもない。怠け者でとりえのない人間だ。そう強引に認めさせてくる。そんな生意気な口だけきいていて謙虚に努力することを忘れていれば、いつしか、だれも相手にしなくなる時がくる。

 こんな童話をどこかで読んだことがある。ある村があった。その村に一人の青年がいた。彼はその村の生活に満足していなかった。そして町にでていった。が、やがてまた村に帰ってきた。そして、その村でいろいろな町の話をした。町では女も村の女より美しい。先生もかしこい。生徒も村よりかしこい。町で見る月は村で見る月より美しく輝いている。はじめのうちは、村の人は彼の話をおもしろがって聞いていたが、だんだんと飽きてきて、ついには、だれも相手にしてくれなくなってしまった。しかし町にまた行く気にはならない。なぜなら町の生活はもっと厳しい。ついに彼は居場所がなくなった──という物語だ。

 もっともこの物語、だいぶ僕の創作と解釈がはいっているかも知れないが、いずれにしろ、生意気な口というのは、はじめは他人におもしろい。しかし結局本当のものがないから、やがて飽きられてしまう。そして生意気な口は、自分の欲求不満を本質的に解決してくれるものでもない。

 生意気な口で自分をごまかしていたとて、やがては行きづまる。この地上に自分の生きる場所がなくなる。人生をなめてかかってはいけない。

 他人を非難したり、生意気な口をきくぐらいのことによっては、どうにもならないものである。

 自分の中の認めがたい感情が、ある外的な対象に属すると見做(みな)すことを投影と心理学の方ではいう。つまりこのような「たいしたことねえよ」と相手を非難する人は、心の底では自分は自分の望むほど、優れてはいないと知っている。しかし、それを認めることができない。

 まさに自分がたいしたことないと心の底の底で知っている。しかしそのことを認めることが神経症的自尊心にとって耐えがたい。その心の葛藤を解決するために他人を非難するのである。自分が劣っていると心の底で感じながら、そのことを認められない人間ほど、「あいつは頭が悪いよ、わっはっはー」と他人を声高に嘲笑する。

 実際の自分がケチであるのにケチである自分を認められない人ほど、他人のケチを見つけてきては激しく非難する。臆病である自分を認められない人ほど、他人の臆病を見つけてきては激しく非難する。実際には自分が冷たいのに、冷たい人間であることを認められない人ほど、他人の冷たさを見つけてきては「あいつは冷たい」と激しく非難する。そのような人は、自分の理想は愛情豊かな人間なのである。ところが実際の自分はその理想の人間ではないと認められない。そこで「あいつは冷たい」と非難することで安心しようとする。実際には自分が(ひど)い利己主義者なのにそれを認められない人ほど、他人の利己主義を見つけてきては激しく非難する。

 そして、相手の事を決め込む。「おまえは名誉が好きだから」と相手を決め込む。実はそう相手を決め込み、非難する人ほど自分の名誉欲を抑圧している。

 抑圧は投影されるという。もう一度いう。自分の中の認めがたい抑圧した感情が、ある外的な対象に所属すると見做すことを投影という。否定の哲学はたいていこれである。自分が心の底で求めているものを意識的に否定する。

 あいつはお金ばかりほしがっていると知人を非難する人がいる。その人自身がお金が欲しいという気持ちを抑圧し、投影していることがある。

他人という存在がわからない


 よく「先生、どうも大学がつまんないんです。何かしたいんです」といってくる人がいる。顔を見て少し話すと、その人が、もうエゴイストをなおす以外に方法はないと思うのがよくいる。

 最近では、この人は何をやっても長続きしないな、なんていうのがなんとなくすぐにわかってしまうようになった。だいたいにおいて、何か甘ったれていて、そして人を非難する者、こうした人たちは何をやらせてもだめな人である。

 たとえば「この学校つまんないんです。勉強じゃなくて、何か打ち込んでやることがほしいんです」
「やりゃあいいじゃないか」
「でも、ないんです」
「クラブ活動だっていいじゃあないか。演劇部だって合唱部だって、何だってたくさんあるじゃないか」
「でも、この学校の人って何かすごくエゴイストで、いっしょにやる気しないんです。それに私、演劇も合唱も、テニスもダンスも、このクラブにあるもので、何も好きなのないんです」
「それじゃあ、やりたいものつくればいいじゃないか。それに、演劇もダンスもテニスも合唱も、何もかもきらいでも、学友会があるじゃないか。学友会活動をやりゃあいいじゃないか」
「でも何となくやる気しないんです。ここの学校の人って親しみ持てないの。この学校おもしろくないんです。先生だって、いい人だれもいないし……」

 だいたいこうした人の特徴として、僕の都合など決定的に無視する。たとえば、彼あるいは彼女が来る。ちょうど僕は、次の約束で行く場所がある。
「今日はちょっとまずいんだ、これから行くところがあるから」
「でも私、どうしても試験前にこの問題を解決したいんです。試験、来週から始まるでしょ」
「その問題って、長くかかるの?」
「はい」と、まあこういった調子なのである。

 彼らにとって他人という存在はない。他人という存在がないということは、他人にとって自分という存在はどういう存在であるかということが分からないということである。自分にとってあることが重要である。しかし他人にとってそのことは重要ではない。他人には他人の重要なことがあるということがどうしても分からない。自分にとっていま失恋は重要な問題である。しかし自分の友人には借金のことが重要である。そんなときどうしてもそれが認められない。借金のことなんかどうでもいい、とにかく自分の失恋の相談にのれ、自分のいう通りにならない恋人はけしからんというグチを聞かない友人は許せない。

 他人には他人の問題が重要なのである。それは自分にとって自分の問題が重要だというのと同じであるということが分からない。そのように他人の存在を認めないような人間だから、恋人も逃げていこうとするのである。自分にとって「その人」は関係があっても、「その人」にとっては自分は関係ないということが分からない。自分が親しみを感じると、相手も自分に親しみを感じるものだというのが彼らの理屈なのである。自分が相手と会う時間があれば、相手は自分と会う時間があるはずだというのが彼らの感じ方なのである。自分は忙しくないけれど、相手は忙しいというのがどうしても分からない。自分が忙しくなければ相手も忙しくないはずなのである。相手が忙しいということが許せない。そんなことは、あってはならないことなのである。

 悩んでいる人というのは大抵自惚(うぬぼ)れている。他人がその人を見ているようにその人は自分を見てはいない。他人に自分をこのように見ろという要求がある。しかし他人にはその人がそのようには見えない。そこで怒り出す。そこで悩みだす。

 他人は自分のことをこのように見ているが、もしかしたら自分はそのような人間かも知れないとは考えない。

 自分にとって自分が重要なように、他人にとっては他人自身が重要であるということがどうしても理解できない。自分が相手に会う時間があるのに相手が自分に会う時間がないということがどうしても理解できないということは、他人の存在を認めていないことであり、同時に他人は皆自分に奉仕すべきものだという感じ方なのである。つまり自分に奉仕すべき他人しか自分にはいない。

特別あつかいされないと気がすまない


 例えば、悩んで私に会いたいといってくる人は、決して私という存在を認めていない。自分に奉仕すべきものとしてしかこちらを認めていない。そして他の読者もまた会いたがっているということは考えもしない。
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