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明と暗のノモンハン戦史
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歴史
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第六章 ノモンハン航空戦

『明と暗のノモンハン戦史』
[著]秦郁彦 [発行]PHP研究所


読了目安時間:30分
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(パオ)の「爆砕」で始まった


 ノモンハンの日ソ航空戦では地上戦とちがい、日本空軍がソ連空軍を圧倒しつづけたというイメージが主として当時の新聞報道を通じて滲透した。華々しい報道記事の実例を、いくつかの新聞見出しで眺めてみよう。
「外蒙機と空中戦 寡勢7機を撃墜 日満軍の輝く戦果」(昭和14年5月24日付読売新聞)
「前代未聞の大空中戦 戦果絶大」(6月28日付朝日新聞)
「輝しき我陸鷲の戦果 敵一千百一を撃墜」(8月27日付朝日新聞)

 他にも篠原准尉に代表されるエースたちの功名談、敵中に不時着した隊長機や僚友を救出する美談が紙面を賑わせている。

 珍しく陸軍省が死傷一万八〇〇〇という数字を公表したので、地上戦でかなりの犠牲が出たことを察知していた国民ばかりでなく、陸軍部内でも航空戦だけは例外的勝利だと思いこんだふしがある。その残像は戦後期になっても、しばらくは消えなかった。

 飛行第24戦隊長だった檮原(ゆずはら)秀見少佐が「確実撃墜じつに千二百機をこえ、わが方の損害は五十機足らず……類例のないのような事実」と揚言し、『ホロンバイルの荒鷲』(一九四一)というベストセラーを書いた従軍記者の入江徳郎が「空中戦では文句なしに圧倒していた」と回想したのは、二十年後の一九五八年である(1)。


 一九六七年に刊行された戦史叢書『満州方面陸軍航空作戦』の執筆者生田惇(いくたじゆん)は、冷静な筆致で航空戦の経過を記述し「空中戦の輝かしい戦果」と評しつつも「不敗の戦闘隊ではあっても、決勝の戦闘隊ではなかった(2)」と屈折した表現でしめくくった。

 より率直な本音が語られるようになったのは、一九八〇年代以降だろう。たとえば飛行第11戦隊に属し、ほぼ全期間を戦闘機パイロットとして戦った滝山(やまと)中尉は、「初期は楽勝、中期は五分五分、後期は苦戦」とか「やっと生き残ったなという実感、後期は負けであったと思った(3)」と語るようになる。

 そこで滝山の示唆に従って、次のような時期区分を立て、航空戦の実態を日ソ双方の情報を突き合わせ観察していくことにしたい。

 初期(第一期)五月十三日〜六月十六日

 中期(第二期)六月十七日〜八月十七日

 後期(第三期)八月十八日〜九月十五日

 これを地上戦の推移に対比させると、前期は発端の小競り合いから東捜索隊が全滅した第一次ノモンハン事件、中期は第二十三師団のハルハ渡河攻撃とひきつづく東岸の攻防戦を経た七月下旬の大砲兵戦、後期はソ蒙軍の八月攻勢から停戦の日までに相当する。しかし航空戦と地上戦は同時進行しているかに見えても、テンポやリズムは必ずしも一致せず、戦場感覚がチグハグになる場合も珍しくない。

 初期の航空戦では日本側が優勢だったのに、地上戦は劣勢に終ったし、後期の八月攻勢ではソ連軍の重囲に落ちた地上部隊がほぼ全滅し、ジューコフ司令官が作戦終了を宣言したとき、第二飛行集団司令部は「敵空軍の大半を撃滅……九月初頭に至り其活動を全く封殺し(4)」と見当ちがいの楽観気分にひたっていた。

 まずはノモンハン初頭における飛行集団の行動経過を概観するが、あいつぐ勝報のかげで、早くも越境攻撃と地上直協という二つの難題が登場している点に注目したい。

 小松原第二十三師団長が前々日からハルハ河を「越境」してきたモンゴル軍を撃破するため、東支隊を出動させたいと関東軍司令部へ要請したのは五月十三日である。それに先立ち、師団が同じハイラルに駐屯する戦闘機の飛行第24戦隊へ協力を打診したところ、戦隊長の松村黄次郎中佐は「我々は偵察や地上部隊との協力のために訓練しているのではなく、敵航空機と戦闘するため(5)」だという理由で要請を拒絶している。

 しかし関東軍は出動を認可し、小松原の要望を容れて第二飛行集団に所属する24戦隊(九七式戦闘機一九機)とチチハルにいた飛行第10戦隊(九七式司令部偵察機、九八式軽爆撃機各六機)から成る「臨時飛行隊」(長は田副登10戦隊長)を第二十三師団長の指揮下に入れ、地上作戦に協力するよう命令した。

 10戦隊が忠実に直協任務を遂行したらしいことは、ソ蒙側の記録で判明する。ジューコフ報告書によれば十四日、日本機が数回飛来し、午後に二機がハルハ河東岸に進出していたモンゴル国境警備隊の集結地を襲撃して馬一頭を殺した。この日ノモンハンに前進した東支隊は翌十五日、ノロ高地付近で包囲攻撃を企てたが、交戦を避けたモンゴル警備隊は西岸に退散してしまう。

 日本の軽爆五機が西岸の国境警備隊第七哨所本部に約六〇発の爆弾を投下し、戦死二名、負傷者約二〇名の損害を出し(6)たのは十五日の正午過ぎだった。10戦隊の戦闘詳報は残っていないが断片的情報だと、調(しらべ)正三中尉が指揮する10戦隊の軽爆が、東岸から退却したらしいモンゴル兵が集まっていた二〇棟の「包」(モンゴル式のテント)を爆撃、三〇〜四〇人を粉砕したとされる。


 中期以降に激化した彼我の爆撃に比べるときわめて小規模にすぎないが、ソ連側は日本軍の「侵略性」を裏づける証拠と見なした。東京裁判に体験者のチョグドン第七哨所長を出廷させ、モンゴル語→ロシア語→英語→日本語と三重通訳の煩をいとわず、委細を証言させている(7)。

 この明白な越境爆撃は戦隊本部以上のレベルが命じたのか、東岸から西岸へ退却するモンゴル兵の集団を目撃した調編隊長の独断行動だったのかは不明だ。
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