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昭和裏芸能史
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サージと呼ばれた男

『昭和裏芸能史』
[著]なべおさみ [発行]イースト・プレス


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「ほんまに腹立ってなあ! わし、弟を取っつかまえて、滅茶苦茶に殴りつけたんよ!」

「はーあ!」


 私は相槌を打って聞いていた。

「だって、こいつだけが分厚い手袋なんぞして、新聞配達してるんや! 父親が可愛がっとるんが気に入らんかったんや。そしたらな、組み敷いた下で、言うたんや!」

「……!」

「“兄ちゃん! 僕、手袋なんかしとらんよ”ってな!」

「……!」

「しとるやないか! って、手袋の手を目の前に持って来て、わし、声を呑んだわ!」

「……?」

「手袋しとると見てたこいつの手はな、実は霜焼けでポンポンに膨らんでいたんだよ!」

「……!」


 私が生島久次と言うヤクザを好きになったのは、この話をその兄から聞いた時だ。


 生島さんとは歳も同じだった。私も新聞や牛乳の配達をした経験があった。


 だから、兄さんの話を聞いてから、生島さんへの共感が生まれたのだ。

「わしら在日韓国人は、学校でも先生に苛められたんよ……わし、警察官になりたかった。そしたら先生に張り倒されて言われたんよ。“何が警官だ! お前らキョッポ(在日二世)はなれんのよ! 捕まる方やろが!”」


 そんな時代だったのだ。

「わし、大人になったら頭下げんで済む警官になりたかったんやが、それで止めた。わしらの世界で出世ったら、ヤクザか金貸しになるしかないんよ!」


 こう胸中を打ち明けてくれたのは、“我慢の男”たる生島さんだ。

「なべちゃん、大阪来たら、これと仲良しにしとったら間違いない! お前ら、仲良くせえよ」


 そう言って紹介されたのが彼だった。引き合わせてくれたのは伝説の、神戸国際ギャング、菅谷政雄さんでした。

「サージ! あんじょうしたってくれ!」

「はい、ボス!」


 大阪へ行けば、必ず生島さんと会った。


 何よりも嬉しかったのは、彼は酒を飲まなかった事だった。私が飲まない事を承知していての菅谷さんの配慮だったのだろう。


 サージさんとは、食事して、ゆっくりと話し、二人でウーロン茶を飲んでクラブで過ごすだけ。話は、ポツリポツリだった。


 とにかく喋らない。

「ヤクザは喋らん方がええ!」


 自分でもそう言い、若い衆にもそう教えていたのでした。その人が私に心を開くや、少しずつ話し出してくれました。


 そもそも私が、菅谷組の金庫番と言われる生島久次さんと会わされたのは、大阪は日本橋一丁目の橋の上でした。少し前、私が出演していた大阪のテレビ局の番組の稽古場へ、突然電話が掛かって来たのです。

「終わったら少しお時間頂けませんか? 迎えをやりますから、その車でどうぞ!」


 終わって表に出ると、車が待っておりました。連れて行かれたミナミのフグ屋さんの二階の広間には、びっしりとそれと判る人達が座しておりました。


 私を招いてくれたのは菅谷政雄さんでした。

「なあ皆んな! これがなべおさみさんや! ()()もわしが言うとる“上に立つには学ばねばならん!”言う奴や。この人、今度、仕事休んで森繁久彌はんの(つき)(びと)をやるそうや! 今更付人やらんでも食えるやろ。だが人生には上には上の者がおるんや! その人から学ぼうと考えてるんやが、残念ながら銭がない! 女房を安心させて志を遂げさせてやる為、皆んなの協力をお願いしたいんやがな!」


 片隅から拍手は起こり、卓上に置かれた野菜を盛っていた(ざる)が男達の前を回って行き、返って来た時には万札が山盛りになっていたのです。

「僅かやが、これ、奥さんに渡したりぃ!」


 そうして、その後四ヶ月間、森繁久彌先生の付人を終えた頃、サージさんと引き合わされたのでした。


 実際に生島さんに会い、私が黙って見ていて判った事は、この人の肝の太さでした。それは稼業に表れていました。


 何しろ橋上に停車していた車の後部席で、私と菅谷さんは一時間も待っていたのです。


 その間、菅谷さんから色々と話を聞かされていたのです。

「何んの商売でも稼業でも修業が大切やな。なべちゃんも三十六になっても、森繁はんに学ぼうと付人したやんか。まだまだ修業してるっちゅう事やろ? それがよろしいのや! どこ迄行っても我慢ちゃうか? そやろ!」


 こうした言葉は、あまり堅気の人から受けない。これが人生の不思議と言うものです。


 菅谷さんからは私は色々学ばせてもらいました。


 この静かな風情の菅谷政雄と言う人からは、およそ想像もできないほど、子供の頃はヤンチャだったそうです。


 煩悩の赴くままに狼藉を働くために、村の坊様から「このボンノ奴!」と、何時も叱責されていた事から「ボンノ」と通称されたのでした。でも、私の知っている時代では、「ボンノ」と呼べる人はそうそういなかったのが事実です。


 懐刀とも言うべき舎弟頭の浅野二郎さんも、最後の博徒と呼ばれていた波谷守之さんも「ボス!」「ボス!」と呼んでいました。それは神戸国際ギャング時代からのもので、菅谷さんはそう呼ばれる事を喜んでおりました。

「なべちゃん、時代が来たら男になれる者と付き合うと良いから、今、此処に来るから会わしたる!」


 そうして待っていると、車の助手席に乗って来た若者が生島さんでした。

「この男も我慢して来た男や!」


 そう言って、

「サージ! あんじょうしたってくれ!」

「はい、ボス!」


 と為りました。


 私が色々な人々と心を許す交際をして来た人生で、生島さんぐらい、その死を哀しんだ人はありません。


 菅谷さんが組を解散し、世を去って、生島さんも引退しました。


 再び復帰かの噂が流れた時、それを拒むかのように射殺されて世を去って行きました。


 ただただ、現場に出向き合掌しました。でも、サージさんは、私の心に生きております。

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