『プロ野球「悪党」読本 「組織の論理」に翻弄された男たちの物語』
[著]手束仁
[発行]イースト・プレス
えがわ・すぐる──巨人。作新学院時代から「怪物」といわれ、センバツでは大会通算60奪三振の記録を樹立。法政大時代にクラウンライター(現西武)から1位指名されるも拒否し、浪人生活を経て、すったもんだのあげくに巨人に入団して現役9年で引退した。
プロ野球選手としての現役生活は9年。それでもこれだけメディアを含めてプロ野球を語る際に話題にのぼる選手は、やはり江川卓をおいてほかにないといっていいだろう。
というのも、やはり江川という選手は、プロ入りの経緯から引退に至るまで、絶えずなんらかの形でメディアで話題になり続けたからだ。ことに入団に関する経緯は社会問題になるくらいの騒動だった。そのことによってダーティーヒーローとしての像がつくりあげられていったという経緯があったからだ。
それまでの江川は、高校野球では最後の夏の甲子園では雨のなかの2回戦、延長で押し出しのサヨナラ負け。大学進学も第一志望だった慶應大受験に失敗。その後に進んだ法政大で活躍するものの、東京六大学記録にあと1勝届かず。そんなこともあって、どちらかというと悲劇のエースという印象さえ与えていた。
それが突如として悪党としての立場の野球人生が始まってしまうことになったのである。それは大学4年時の1977年(昭和52年)のドラフト会議で一番くじを引いたクラウンライターが江川を指名、それを本人が拒否したところから始まった。
江川が巨人入りを熱望していたことは事実だった。そして、その思いを強引に貫きとおしただけならば、志望球団にこだわったというだけですんだであろう。しかし、その後の展開が、江川をより悪党として存在させていくことになった。
それは本人の与り知らない場所で、みずからの意思を超えた、大人社会の都合も含めた部分で行われていたことだった。野球協約の条文の盲点を突いた、いわゆる「空白の一日」に、浪人していた江川が巨人と入団契約をして、それをドラフト会議の前日に発表してしまったのだ。
そのことによって江川本人のイメージそのものを悪党として位置づけしてしまったことは否めない。それに江川も半ば意図的といえるくらいに歯切れのいい返事を避けて、のらりくらりとかわしていく答弁で、それがまた取材陣をいらつかせた。そんなことを繰り返していくうちに、ついつい質問もケンカ腰のようになっていった。
「みなさん、そんなに興奮しないでください」
23歳の若者が発したその言葉が、さらにメディアの神経を逆なでした。江川としては同じような質問を繰り返されて、自分自身が悪の存在としてしか見られていないことに対しての、精いっぱいの抵抗だったろう。
たしかにドラフト会議で交渉権を得た球団が選手と交渉できるのは翌年のドラフト会議(この年は11月22日)の前々日までという野球協約の文言をそのまま解釈すれば、どこにも属さない日が一日だけ存在することになっていた。しかし、そこを突いて契約するのは正義ではないということで、「悪党江川」対「取材陣」という構図が成り立っていった。読売系以外のメディアはいずれも江川を悪党として扱った。系列新聞も世論を気にしてか、「巨人が取った態度は法的には正しい」という論調は極力抑え気味にして、淡々と事実だけを報じていくというスタイルを貫くことになった。
後見人として地元の有力代議士だった船田中が登場したことも、より取材陣を刺激した。いまとなってみれば、江川もある意味では「大人の都合」に翻弄されたというところである。しかし、あの段階では世論を敵に回したという空気が蔓延していただけに、どのメディアも江川側に立っての報道はなかった。
こうしてプロ野球選手になる前に悪党としての江川卓はつくりあげられていった。
周知のように、結局、江川はいったんドラフト会議で交渉権を得た阪神と契約し、その後、巨人にトレードをするという運びになった。巨人からはじき出された形で阪神に移籍した小林繁が黙々と状況を受け入れて従ったことで、同情もあって悲運の男として称えられた。マスコミは「周囲を顧みないで強引に自分の要求を押しとおしていくこと」という意味で「エガワる」という造語も用いた。それが一種の流行語となったことで、さらに江川の悪党度はアップしていった。
思っていた以上の大ごとになって、巨人としても79年シーズンは比較的おとなしく過ごし、ことの顛末をファンに謝罪した。その結果として、江川を2カ月間の出場自粛とし、二軍で調整を命じた。
その結果、初登板は6月2日、因縁の阪神戦となった。ホームの後楽園球場だったが、悪党として阪神ファンからヤジを受けたのはもちろんである。江川はマウンドからスタンドに一礼したが、巨人ファンも複雑な思いで見守っていた。試合はマイク・ラインバックの3ランをはじめリロイ・スタントンや若菜嘉晴にも本塁打を打たれるなどして敗戦投手となった。初勝利は、その2週間後の17日の広島戦まで待つことになった。
1年目の江川は、それでも9勝をマーク。防御率2・80というまずまずのものだった。ところが、小林が対巨人戦8勝0敗で男の意地を示し、シーズン22勝を挙げて絶賛されたことで、ますます江川は悪党としての色を濃くしていかざるをえなくなっていた。
しかし、やはりその実力はずば抜けていた。80、81年と江川は2年連続で最多勝に輝く。81年には20勝を挙げて優勝に貢献し、MVPを獲得している。ところが、当時、プロ野球担当の記者投票で選ばれていた沢村賞は、投票権のある記者たちの心情に大きく左右された。「沢村賞の人格に江川は値せず」という新聞記事の影響もあり、結果として江川ではなく同僚の西本聖に票が集まった。入団して3年という年月が経過しても、メディア側にとって、江川は悪党であり続けていたのだ。この結果は江川の悪党ぶりを如実に表す現象といっていいものだ。
結局、江川のプロ野球選手としての活躍は9年間だった。84年のオールスター第3戦では8人連続三振を奪いながらも9人目の打者(近鉄・大石大二郎。近鉄は現在オリックスに合併)に内野ゴロを打たれて快記録は達成にならなかった。こうした話題にはこと欠かなかったが、87年シーズン後半の9月20日、広島の小早川毅彦にサヨナラ本塁打を打たれると引退を決意。「打ってはいけない禁断のツボに鍼を打った」と発言して鍼灸医の団体からクレームを受けるなどして物議を醸した。球団は慰留したが、入団の意思と同様、退団の意思も固かった。
こうして入団から退団まで、時に「すごい投手だ」と思わせながらも、メディアのなかで何かと話題をつくりながら、江川はプロ野球の投手としては135勝72敗という記録を残して球界を去った。とてつもなくすごい記録ではないものの、番記者たちが集まって『江川ってヤツは…』(ネスコ)などという書籍が刊行されたことでもわかるように、明らかに記録よりは記憶に残る存在としてファンの間には定着している。それは、やはり当初の悪党としての存在感が大きかったからであろう。
果たして江川の全盛期とはいつだったのか。それも50代以上の野球ファンたちにとっては、いつも話題になることである。ある人は高校2年の秋、関東大会のときではなかったかという。また、ある人は高校1年の秋に頭部に死球を受けて入院するまでだったという。高校からそのままプロ入りしていたら、どんな投手になっていたのだろうか。いまだに興味は尽きることなく、語り続けられる存在であることだけは間違いない。