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プロ野球「悪党」読本 「組織の論理」に翻弄された男たちの物語
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有藤通世──国民的悪役となった「ミスターロッテ」

『プロ野球「悪党」読本 「組織の論理」に翻弄された男たちの物語』
[著]手束仁 [発行]イースト・プレス


読了目安時間:5分
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ありとう・みちよ──ロッテ監督。高知高時代に甲子園に2回出場。近畿大を経てロッテの前身の東京オリオンズに入団。不動の三塁手として1974年(昭和49年)の日本一に貢献。77年には首位打者を獲得。引退翌年の87年からは監督としてチームを指揮するも低迷が続き、わずか3年で辞任。


「名選手必ずしも名監督にあらず」


 これはプロ野球界でよく使われるフレーズであり、巨人の第1次長嶋茂雄政権はその象徴のようにいわれた。そしてパ・リーグでは、長嶋と同じく三塁をロッテで守り抜いた有藤通世の名を挙げることができるだろう。


 高知高、近畿大を経て1968年(昭和43年)のドラフト1位でロッテの前身の東京オリオンズに入団。1年目からレギュラー三塁手となり、走攻守そろった選手として新人王に輝いた。首位打者1回、ベストナイン10回、ダイヤモンドグラブ賞4回……と現役時代には華々しい活躍を続けた有藤である。その存在はまさに自他ともに認める「ミスター・ロッテ」であった。また当時はセ・リーグに比べると人気や認知度で劣っていたパ・リーグだったが、そんななかでは子どもにも知られているスター選手であり、間違いなくパ・リーグの顔といっていい存在のひとりだった。


 85年に2000安打を達成した有藤は86年かぎりで現役を引退。翌87年からは40歳の青年監督としてロッテを率いることになった。体は現役時代そのままに引き締まっており、(せい)(かん)な風貌どおりに厳しく後輩を鍛え、ロッテを常勝チームに育て上げることが期待された。スター監督としてチームを盛り上げれば、ロッテが全国区の人気球団になることも不可能ではないと思われていた。もちろん看板選手だったプライドもあったであろう。


 しかし、監督就任間もなく有藤と犬猿の仲と(うわさ)された2年連続三冠王の落合博満が中日に移籍。打撃の主軸を欠いたチームはなかなか浮上せず、1年目は5位、2年目の88年はもうひとりの主砲であったレロン・リーも退団していたことなどが影響して最下位をひた走る結果となった。


 名選手、名監督ならず……を地で行ってしまうと、精悍に映っていた風貌も、たんなる「強面」に見えるようになってしまう。そして何より低空飛行を続けるチームにロッテファンからも怒りが爆発していった。こうして、いつしか有藤監督には「悪党(ヒール)」のイメージが定着してしまった。


 そんななかで迎えたのが「1019」と呼ばれる近鉄との伝説のダブルヘッダーである。この年はパ・リーグ4連覇を狙う西武が順調にペナントレースを勝ち進んでいた。しかし、シーズン終盤になり、仰木彬監督率いる2位の近鉄が奇跡的な連勝街道を歩み、逆マジックを点灯させるなど西武に肉薄した。そして、すでに全日程を終えている西武に対し、1019日のロッテとのダブルヘッダーに2連勝すれば大逆転優勝を手にするところまで来ていた。


 この日、普段は閑古鳥が鳴いているロッテの本拠地である川崎球場には満員のファンがつめかけていた。川崎球場にライブでテレビカメラが入ってくることなどめったになかったのに、この試合はテレビで生中継されることになっていた。こうして、いつになく盛り上がりながら、全国のプロ野球ファンがパ・リーグの試合の勝負の行方を見守ることになったのだ。


 第1試合を逆転勝利した近鉄は第2試合も8回表にラルフ・ブライアントのソロ本塁打で4対3と勝ち越していた。まるで誰かが演出でもしたかのように近鉄の悲願達成、奇跡の逆転優勝の実現が近づいたと思った矢先、エースの阿波野秀幸からロッテの高沢秀昭がソロ本塁打を放ち、4対4となった。


 同点のまま迎えた9回裏ロッテの攻撃で“事件”が起こった。


 無死一、二塁で阿波野が二塁に投げた(けん)(せい)(きゅう)が大きく浮き上がってしまった。それをジャンプしてキャッチした大石第二朗(現大二郎)が二塁ランナーと交錯し、アウトの判定が下された。これに激怒した有藤がベンチを飛び出して猛抗議を始めた。近鉄は延長戦に期待をかけているだけに、1イニングでも多くプレーできる時間を残したいところであった。そのためには、ここで抗議など迷惑以外の何ものでもなかった。そこで仰木監督がなだめに入るが、有藤は引き下がらず、抗議は約9分間続いた。


 結局、判定は覆ることなく、試合は延長10回に突入。当時は4時間を超えると次の回に進めないという規定があったため、10回表を近鉄が無得点で終わった時点で残り時間は3分。ここで事実上、近鉄の優勝は消滅した。近鉄ナインは失望の表情で10回裏の守備につくことになった。ロッテの攻撃を無得点で抑えたものの、第2試合は4対4の引き分けで終了した。


 (ほう)(がん)びいきが強い日本では、数多くの人が奇跡の大逆転優勝をあと一歩で逃した近鉄ナインを「悲劇のヒーロー」に持ち上げた。逆に長い抗議をして11回表の攻撃を実現させなかった有藤を最大の悪党(ヒール)として「西武の味方をした」などと非難した。いまでも「あの抗議がなかったら……」と振り返られることが多い、有藤にとっては不名誉なシーンとなっている。


 しかし、有藤には近鉄の優勝を邪魔するような意識はなかったようだ。後年のテレビ番組でも語っていた。

「実際はアウトだと思ったが、選手が助けを求めているのだから、監督が行ってやらないわけにはいかなかった……」


 その苦しい心情を語っている。


 ともあれ悪党(ヒール)のイメージが定着してしまったことだけは否定できなかった。結局、有藤ロッテは翌89年も最下位の屈辱を味わうことになった。こうして、わずか3年でチーム生え抜きのスター選手だった指揮官はその座を降り、悪党(ヒール)のイメージだけが残ってしまった。

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