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プロ野球「悪党」読本 「組織の論理」に翻弄された男たちの物語
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濃人 渉──「権藤、権藤、雨、権藤」でエースを破壊

『プロ野球「悪党」読本 「組織の論理」に翻弄された男たちの物語』
[著]手束仁 [発行]イースト・プレス


読了目安時間:6分
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のうにん・わたる──中日監督→東京・ロッテ監督。広陵、広島専売局を経て、1936年(昭和11年)に(きん)()に入団。球団名変更などを経て、戦争による中断を迎える。国民リーグで復活後、48年に金星へ。引退後は日鉄(ふた)()監督を経て中日でコーチ、監督。東京およびロッテでも監督を務める。



 広島市出身で、名門の広陵を経て当時の有力実業団チーム広島専売局で野球を続けていた濃人渉。広陵では1932年(昭和7年)春に甲子園に出場しているが、目立った活躍はなかった。戦後は社会人の()(じょう)(えん)から国民リーグに参加。その後にロッテの前身のひとつである金星スターズに入団して、そこで現役引退した。


 当時はプロとアマの線引きがそれほどない時代であり、すぐに福岡県の社会人野球の強豪・日鉄二瀬の監督に就任。そこで江藤慎一や古葉(たけし)(現(たけ)())らを育て、58年には都市対抗でチームを準優勝に導いたこともあり、その手腕が評価されて2リーグ制が定着してきたプロの世界から再び声がかかった。


 60年に(まな)()()の江藤が入団していた中日のコーチ兼二軍監督を務めた。そして翌年からは一軍監督に就任することになった。中日を球団創設以来初の優勝に導いた原動力のエースだった杉下茂が33歳で一度引退すると、59年に即監督に就任したが、翌年の後半戦で失速して2リーグ制となって初めてのBクラスに転落し、2年で退陣を迫られた。


 代わって就任したのがコーチという立場で二軍監督も務めていた濃人だった。期待の主砲である江藤の恩師ということでも期待が高まった。折しも中日はその年に株式会社中部日本野球協会から株式会社中日ドラゴンズに変わった年でもあった。


 その新体制で、かつての(あま)()俊一の流れに沿った体制から思い切った人事をということになった。濃人体制になって、まずヘッドコーチに濃人の師匠的立場である石本秀一が就任。それとともに、伊奈努、大矢根(ひろ)(おみ)、岡嶋博治といった生え抜きの看板選手を放出した。これは結果的には「天知カラー」の一掃ということになった。


 いうなれば、中日では()(ざま)的な存在となる濃人である。なんとか自分色のチームにしたいという思いも強くあったはずだ。これは一般の会社でも同じことで、新しく部長なり社長なりに就任した人間は旧体制から何かを変えるべく動こうとするものだ。その最もわかりやすいのが人事である。よく社会では「人事は最大の経営である」といわれるけれども、それはプロ野球の世界でもまったく同じなのである。


 ましてやプロ野球は個人事業主の集まりともいわれている世界だ。みんな「オレがオレが」というタイプである。だから前任の上司(監督やヘッドコーチ)の体制で活躍できて重宝がられていた者は、当然そのままの形を維持したいと思うものだ。しかし、その頭が変わり、自分の役割に変化を求められてくると、窮屈さを感じる。


 一方、新たに上に立つ立場になったほうとしても、何ができるのだろうかと試しつつも、自分の思惑と違ってくると、「な〜んだ」ということになってしまう。そうした要因もあって、新監督が就任して大幅なトレードが行われるケースが少なくはない。この年の中日も、まさにそんな状況だったのだ。しかもシーズンの成績も2リーグとなって初めての5位に沈んでいた。


 濃人新体制は比較的やりやすい体制でスタートした。そんななかで新戦力として圧倒的な結果を残してくれる投手が現れた。それが社会人野球のブリヂストンから入団した権藤博だった。()()高3年で内野手から投手になったということもあって、肩の消耗が少なく、伸びしろも大きかった。その権藤が濃人中日の救世主となっていくのだ。まずオープン戦で10試合28回3分の1を投げて自責点はわずかに1。この実績で開幕2戦目の巨人戦に先発。1点に抑えて完投し、初勝利を挙げる。これで濃人は権藤を100パーセント信頼することになる。早くもエースとしてローテーションの軸となっていった。


 いや、軸どころではなかった。4月は4勝2敗、5月は7勝2敗という数字。しかも先発だけではなく、行けるときはどんどん投入していった。なんと7月20日の段階でセ・リーグ一番乗りとなる20勝をマークしている。しかもチームも好調で、巨人と首位争いを続ける。優勝して手腕を評価されたい濃人は、ここぞとばかりに権藤を起用しまくった。周囲からは中日の投手起用を「権藤、権藤、雨、権藤」というようになった。なんといわれようと、濃人監督も結果を残したいので権藤を起用しまくった。権藤も投げまくって、8月はなんと8勝3敗という驚異的な数字を残した。そしてチームは月末には首位に立った。


 しかし、肝心の終盤戦でさすがの権藤も力尽きた。疲労も蓄積していた。結局、中日は勝ち数では上回りながらも勝率で巨人に劣り、2位となった。それでも権藤は新人王はもちろん35勝で最多勝、沢村賞などを獲得した。


 手ごたえを感じた濃人は翌年、さらにトレードを断行した。主砲の森徹や児玉泰、吉沢岳男のバッテリーなど濃人体制に反発する選手は放出。シーズン途中には元メジャーリーガーとの振れ込みのラリー・ドビー、ドン・ニューカムなども獲得。相変わらず権藤の登板過多は続いていたが、この年も30勝を記録。移籍2年目の柿本実も20勝をマーク。この二人でチーム70勝のうちの7割以上を挙げたことになった。


 しかし、ファンは生え抜き選手の大量放出に不満を抱き始めた。「ドラゴンズは名古屋のチームだで、名古屋で応援されて意義があるんだわ」。そんな声も漏れ聞こえ出した。


 もちろん球団もそんな声に反応した。権藤や江藤が育ったことは喜んだものの、なんとなくチームが地元からは愛され切っていないということを感じ取っていた。結局、その要因は濃人監督のワンパターン采配や地元を無視した補強にあるだろうという判断となった。濃人にもどこかに疎外感があったのだろう。あっさり2年で監督の座を降りた。


 結果的には権藤も消耗品のように使われて、3年目の10勝以降は酷使がたたって球威が衰えた。濃人はAクラス2度にもかかわらず、権藤を壊した監督として、その印象は中日ファンの間では完全な悪党(ヒール)としてしか残らなかった。

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