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中国詩境の旅
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旅行
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さまよえる杜甫(岳陽・洞庭湖)

『中国詩境の旅』
[著]森本哲郎 [発行]PHP研究所


読了目安時間:19分
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 何としても洞庭湖(どうていこ)をながめたいと思った。できるなら秋、それも名月の夜に。私の胸中にはあの「瀟湘八景(しようしようはつけい)」のひとつ、「洞庭秋月(どうていしゆうげつ)」がいつもかかっていたのである。そのイメージは、大雅(たいが)が扇面に略筆で描いた懐しい風景だった。

 しかし、事はそう都合よく運ばない。念願かなって洞庭湖へ向ったのは陽春、三月の末であった。秋月がそれほどすばらしいのなら、春月もまた趣きが深かろう。私は「洞庭春月(どうていしゆんげつ)」を期していた。
「瀟湘八景」というのは、北宋の画家宋迪(そうてき)瀟水(しようすい)湘水(しようすい)とが落ち合うあたり、すなわち洞庭湖一帯から画題としてえらんだ八つの風景である。私は案内役の(どう)さんに、「その八つの風景、おぼえていますか」ときいてみた。道さんはメモ帳を取り出して、ひとつひとつ書き出した。
瀟湘八景(シヤオシヤンパーチン)ですか? えーと、まず平沙落雁(ビンサーローイエン)、つぎに遠浦帰帆(イエンプークーフアン)、それからと……山市晴嵐(シヤンシーチンラン)煙寺晩鐘(イエンシーワンチヨン)……これで四つですね、あとは、えーと……漁村夕照(イーツオンシーシヤオ)江天暮雪(チヤンテイエンムーシユエ)……それから何だっけな、そう、そう、瀟湘夜雨(シヤオシヤンイエユー)、うーん、最後のひとつ……」
「洞庭秋月ですよ」と私はいった。
「そうでした。洞庭湖へ向っているのに、洞庭秋月(トンテイチユーユエ)を忘れてはだめですね」と道さんは頭をかいた。それにしても「お見事!」と私は感心した。まだ若い道さんが、「八景」を知っているばかりか、そのほとんどを覚えているとは!

 この八景に(なら)って、日本でも何とか八景があちこちに誕生した。なかでも琵琶湖を洞庭湖に見立ててつくられた「近江(おうみ)八景」は有名である。ちなみに、その八景とはつぎの通りだ。
堅田落雁(かただらくがん)矢橋帰帆(やばせきはん)粟津晴嵐(あわづせいらん)比良暮雪(ひらぼせつ)石山秋月(いしやましゆうげつ)辛崎夜雨(からさきやう)三井晩鐘(みいばんしよう)瀬田夕照(せたせきしよう)

 私は洞庭湖へ旅立つ前、この近江八景のひとつひとつをたずねてまわった。といっても、その実景に立ち会ったわけではなく、琵琶湖を一周して、それぞれの景を思い描いたのである。が、残念ながら、それは幻滅の旅以外の何ものでもなかった。琵琶湖周辺の景色は見るも無残に破壊され、その一景とて思い描くのは容易なことではなかった。わずかに夕暮の三井寺(みいでら)の鐘楼が「晩鐘」の気分を味わわせてくれただけだった。私はその鐘楼でしばし茫然(ぼうぜん)とし、杜甫の句を口中でつぶやいた。ただし、杜甫とはまったく別の意味で。
(ケン)()レバ涕泗流(テイシナガ)ル。


 その洞庭湖に、いま私は向っているのである。長沙(ちようさ)の町から列車に乗ったのは午後六時過ぎだった。洞庭湖のほとりの岳陽(がくよう)まで、二時間足らずである。窓外にはところどころ白い(すもも)の花だけが暮れなずんでいる。白い李の花──それこそ李白(りはく)だ。李白も洞庭湖に遊び吟を残しているが、彼が岳陽楼(がくようろう)にのぼったのも深まりゆく秋のころだった。たまたま彼はここで詩人の賈至(かし)、遠い親戚(しんせき)にあたる李曄(りよう)両人に会い、三人で洞庭に舟を浮べたのである。
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