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「こだわり」の心理 自分の救いになる人、自分の障害となる人
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生き方・教養
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1 嫌われ、見捨てられることが、なぜ恐いのか

『「こだわり」の心理 自分の救いになる人、自分の障害となる人』
[著]加藤諦三 [発行]PHP研究所


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人に「裁かれる」心理


なぜ、自分は完璧であらねばならないのか──!?


 赤面恐怖症の人というのは、まず自分は人前で赤面するのではないかという予期不安をもつ。普通の人は、そんなことをあらかじめ不安に思ったりすることはない。

 何かに失敗するということは、誰にでもよくあることである。失敗することと心の病いとは、直接の関係はない。どんなに心の健康な人にだって、いろいろうまくいかないことはたくさんある。

 心の病んだ人と健康な人の違いは、その失敗のあとに出てくる。心の病んでいる人は、その失敗にとらわれてしまう。そして、次に「また、うまくいかないのではないか」と、同じような状況を前にして不安になる。

 普通の人は、人前で赤面してはならないとも、人前でうまくしゃべれなければならないとも思わない。カレン・ホルナイ(アメリカの女性精神分析学者)のいう「Should(=ねばならぬ)の暴君」に支配されていない。「ねばならぬ」という暴君に支配されているからこそ、「もしそうでなければどうしよう」と不安になるのである。

 対人恐怖症の場合には、よく言われるように他人を前に完璧な自分を演じようとする。劣等感があるからこそ、自分の理想像に執拗にこだわるのであろう。彼らは普通に自然に人前にあらわれることができない。自分の表情、振舞いを意識しつつ人前にあらわれる。そして、意識したそれらの言動が完全であることにこだわる。劣等感が深刻だからこそ、完全主義なのである。普通の人は、他人を前に完璧な自分を執拗に追い求めたりはしない。

 ところで、この神経症者達は自分の理想状態に執拗にこだわるのだが、理想について一つの特徴的な考え方がある。

 それは理想的態度というのが、案外簡単に手に入るのではないかという安易な考え方である。普通の人は、そんな理想的人間には一朝一夕にしてなれるものではない、と感じている。しかし、神経症者が理想にこだわる時、この理想的自己はすぐに実現されるはずだ、されねばならないと感じているのである。

 彼らがわずかな身体的不快に意識を集中してしまうのも、身体的にいつも快適であらねばならないし、そうあるはずだし、それはそうあって当り前だと感じているからである。

 彼らの完全主義は、やはり人との関係であらわれてくる。完全でなければ人に受け入れてもらえない、という不安である。彼らが自分の不完全な部分、弱点にとらわれてしまうのは、完全な自分でなければ自分は他人にとって意味がない、と感じてしまうからである。この点においては、彼らに甘えはない。しかし、弱点のある自分を愛してくれというように相手に求めることができない。弱点のある自分は相手から見捨てられると感じて不安になる。

嫌われ、見捨てられる──不安の心理構造


 おそらく、小さい頃から親によってそのような不安を味わわされていたのであろう。強く(すぐ)れていなければ、完全でなければ見捨てられると、小さい頃から不安だったのであろう。親自身が内面の葛藤に苦しみ、子供に完全を要求したのである。子供は、その要求に応えなければ見捨てられると不安になった。

 大人になっても、その不安からどうしても脱けられないのである。親は、子供として完璧に振舞わなければひどく不快な感情をあらわにした。そこで、大人になっても、弱点のある自分は他人にとって不快な存在であると思ってしまうのである。だから何としても理想的な自分を演じようとし、自己の理想像を執拗に追い求めることになる。

 たとえ自分が完全でなくても、弱点があるなりに相手にとっては意味のある存在だ、とどうしても感じられないのである。自分は相手にとってすべて満足のいく存在でなければ嫌われ、軽蔑されると恐れてしまう。だからこそ、わずかの弱点にも偏執的にとらわれてしまう。再びホルナイの言葉を使えば、ただちに絶対の完全を目指すのである(=aim at immediate and absolute perfection)。そして、ほんの少しうまくいかないということにも耐えられないのである。

 彼らにとって、完全であってはじめてものごとは意味がある。完全にすべてが遂行されてはじめて意味がある。彼らにとって、「ここまでできた」という満足はない。「ここまでできた」ということは、彼らにとって挫折であり、失望をもたらすものでしかない。

 彼らにとって最も恐ろしいことは、相手に失望されることである。だからこそ、相手の前で完璧な自分を執拗に追い求めるのである。彼らにとって辛いのは、相手に失望されることであり、それ故に失望されまいとして頑張ることになる。そして、失望されるのではないかという不安につきまとわれる。その不安につきまとわれるからこそ、完全でない時には失望されたと思い込んでしまう。

 赤面などは誰でもするが、赤面体験が赤面恐怖になることはない。赤面する自分を恥じるのは、赤面する自分を相手が軽蔑するに違いないと思うからである。そしてその相手が親しい人であれば、相手は自分を友人としていることを恥じているだろうと邪推することになる。あるいは友人としての自分に不満であるに違いないと思い込む。自分の弱点を自分が許せないのは、相手が許していないと思い込んでいるからである。

 そして複雑なのは、心の底でもう一つ、自分には弱点などあるはずがないとも思っていることである。一方で深刻な劣等意識をもちつつ、他方で自分の弱点を現実のものとしては受け入れていないのである。

 相手がどんな人であっても、完全な自分を演じようとする。相手が年をとって元気がなくても、その相手に対して若く元気で完璧な自分であることに固執するのである。

人に裁かれるのみでなく、相手を裁いたっていいのだ


 神経症気味の人は、自分に対する高すぎる基準を下げることはできない。それは、そんな自分でなければ見捨てられると不安だからである。そのくせ、その高い基準に達していない相手を見捨てるということもできない。自分が完璧でないことによって見捨てられるならば、相手もまた同じように完璧でないことによって見捨てられたっていいのである。ところが、そのように感じられない。

 自分に弱点があることによって相手に失望されるなら、相手の弱点に自分が失望したってよい。ところが、そのように相手を感じることがない。自分がそんなにまで嫌われることを恐れるのなら、相手だって自分に嫌われることを恐れて自分に気を使ったってよい。しかし、そのようにはどうしても思えない。

 相手が自分にやさしさを求めるなら、自分だって相手にやさしさを求めたっていい。相手が自分を完璧な男ではないと責めるなら、自分も相手を完璧な女ではないと責めたっていい。しかしそれができない。それをすることは、なぜか不当なことと感じてしまう。

 よく執着性格とかメランコリー気質の人は、相手と対立することができないという。対人的摩擦の回避を特徴とする。

 自分の弱点にはおびえるけれど、相手の弱点を責められない。それをすることは相手と対立することだからである。それをすることは相手と対決することだからである。相手と自分を同じ人間と考え、同じようなことが期待されていると感じることは、どうしても相手との対決に至る可能性がある。ところが、神経症気味の人、うつ病気味の人はこの対決ができない。

 自分が完全でないことを責めることで、相手にとり入ろうとしているからである。自分の弱点を責めることで相手に迎合しようとしているからである。

 相手は自分の裁判官であっても、自分は相手の裁判官ではない。この不平等から心理的にどうしても逃げられないのである。相手が自分を裁くなら、自分だって相手を裁いてもいい。しかし、これがどうしてもできないのである。

 恋愛しても、相手は自分を完全な男であるかどうかを裁く資格があるのに、自分は相手が完全な女であるかどうかを裁く資格がないように感じてしまう。相手が自分を責めるのには正当性があると感じてしまうのに、自分が相手の弱点を責めるのは不当なことのように感じてしまう。

 他人に対して自分が尽くすことは正当なことなのに、自分は他人に借りをつくることはできない。尽くすのはいつも一方的にこちらが相手に尽くすことなのである。自分は自己犠牲的に相手に尽くすのに、逆に相手の好意に自分がひたることはできない。できないというのは、そうすることに居心地の悪さを感じるからである。

自分という存在に基本的な自信をもっているか


 恥しがり屋の人は、相手に助けを求めることができないという。それは、相手に助けを求めることで相手に借りをつくってしまうからである。そのくせ今度は、相手を助けなければ罪責感に苦しむことになる。

 要するに、これらの人々は、基本的に自分の存在の「望ましさ」について自信がないのである。自分は基本的に望ましくない存在なのであろう。どうしても自分を他人との関係で望ましい存在と感じることができないでいる。だからこそ、自分が相手にとって完璧でなければ、相手と一緒にいることが耐えられないのであり、絶えず完璧な振舞いをしようと緊張するのである。
「恥しさの研究」をしているスタンフォード大学のジンバルドー教授の本に、ある恥しがり屋の人(女性)の思い出の文が出ている。それは次のような文である。

 Good behavior was everything to my mother.

 母にとって良い振舞いがすべてであった、という。この母にとって、子供らしい振舞い、子供らしい発想、子供らしい感じ方、子供らしいいたずらは、許されないことなのである。そのうえに、この母は子供の自然の成長を待てなかった。

 この母はそうした意味で、子供にいつも完璧であることを求めた。しかし、子供はもちろん完璧ではない。その子は、完璧でない自分は母親に受け入れてもらえないと感じた。自分が自分であることによって、母親に受け入れてもらえないのである。母親に喜ばれるように振舞うか、振舞えないかが受容の条件である。まさに良く振舞うことが母にとってすべてであったのである。

 その子の存在そのものが問題なのではない。その子が母親にとって都合よく振舞うかどうかが問題なのである。「この子がどのように振舞っても私の子である」という感じ方、考え方が母親の側にあり、それが子供の心に伝わっていたら、彼女はそんなに恥しがり屋にならなかったであろう。

 自分という存在が、他人にとってそのままでは基本的に望ましいものではないと感じることが、どれほど人をいじけさせ、内気にさせ、恥しがらせるかということを、子供に完璧を求める親は知らないのである。毎日毎日気がひけて生きることのみじめさを、子供に完璧を要求する親は知らないのである。

 親に対してわがままをいえる子は違う。親に対して自己主張を許された子は違う。そのようにして育てられた子供は、大人になって他人が自分を裁く資格があるなら、自分もまたその人を裁く資格があると感じることができる。ところが、心に葛藤をもつ親に非現実的なほど完璧な態度を厳しく要求されて育った子供にとって、親は常に裁判官であり、自分は常に被告なのである。我執の強いサディスティックな親は、子供にとって最も悪い批評家である。
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