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京都学派と日本海軍 新史料「大島メモ」をめぐって
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歴史
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第一部 京都学派と日本海軍

『京都学派と日本海軍 新史料「大島メモ」をめぐって』
[著]大橋良介 [発行]PHP研究所


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 ふたりのオピニオン・リーダー、高木惣吉と矢次一夫



海軍からの京都学派への接近

大島メモ」に記される京都学派の秘密会合参加者のなかに、学者だけではなくて、ひとりの海軍軍人の名が混じっている。海軍調査課の高木惣吉だ。それはどういう人物で、京都学派とどのような関係にあったのだろうか。

大島メモ」が発見された年とおなじ平成十二年(二〇〇〇年)七月に、『高木惣吉 日記と情報』(上・下)が刊行された(以下『高木情報』と略称。高木の著には『高木惣吉日記』もあるので、略称には「日記」の語を避けた)。この(ぼう)(だい)な資料を追って、ついでにおなじ高木の回想録『太平洋戦争と陸海軍の抗争』(以下『高木回想』と略称)を併せ読むと、高木についてのみならず、高木を通じての京都学派と海軍との交渉の経緯も、見えてくる。


 まず高木についてだが、彼の自伝では、海軍中尉のころに士官としての前途を悲観して転身をも考え、進退決断のために石龍子という名の著名の観相師を訪ねたという。矮小奇相の石龍子は中尉軍装の高木を凝視し、「夜明前は一番暗い、()く帰り暁に開ける大道を見定めよ」と大喝した。高木は返すことばもなく退去したが、しかしそのときから迷いがふっ切れて、心を決めて再出発したという(1)


 戦争がおわって、まだGHQの占領統治が動き始めていない時、彼は内閣副書記官長に任命されたが、新聞はこれを次のように報じた。「明治廿六年熊本県に生まれ大正四年海兵卒業、昭和三年海大卒業後仏国駐在、海軍省副官、軍務局員を経て同十五年からまる二年本省調査課長として活躍、(中略)。海軍部内で(つと)にその人材たるを知られ、殊に調査課長の椅子は海軍の『企画院総裁』ともいふべきもので地味ではあるが大きな役割を果たしてその存在を(うた)はれた(2)」。


 フランス駐在の経験を有する、海軍きっての俊秀、そして海軍の企画機能を担う調査課のトップ──これが石龍子に大喝されて再出発した後の高木惣吉だ。


 ではそのような人物がどうして「大島メモ」にも登場するのだろうか。同じ日の新聞の人物紹介にはこう記されている。「高木氏は海軍少将だが部内では(つと)にその人材たるを知られ、主として教育方面を担当していた。故西田幾多郎博士の高弟で哲学的色彩を持った文化人である(3)」。


 混乱のさなかにある終戦直後の新聞記事だから、記事をそのまま鵜呑みにして良いわけではない。以下に見るように、高木は西田幾多郎の弟子ではなかった。ただ、新聞記者の眼に高木が西田の高弟と映っていたということは、ひとつの事実として受け止めてよいだろう。彼自身が西田を尊敬し、哲学書を読み(『高木情報』には、高木が哲学書を手にする記述が何度も出てくる)、ついには西田を筆頭とする京都学派を、海軍のブレーン・トラストに招き入れた人物だったからだ。


 西田の日記では昭和十四年(一九三九年)二月十八日に「大磯原田方へ行く、高木という海軍士官、野村大将、池田(なり)(あきら)。七時頃帰宅」という記述が出てくる。この会見は『高木回想』にも記される。だから西田の日記に出てくるこの日の会見に出席した高木以外の人名についても、『高木回想』から説明を得ることができる。すなわち、「私が先生東上後[西田が京大退官後、鎌倉に隠棲したことを指す]、初めてお会いしたのは十四年の二月で、大磯の原田熊雄氏(西園寺公望公の秘書)のところであった。それも池田成彬(三井財閥の大御所、近衛内閣の大蔵大臣)、野村吉三郎(日米交渉の全権大使)という大先輩と一緒で、片隅に小さくなってあまり歯車のうまくかみ合わない三巨頭会談を傍聴した(4)」と(丸括弧内は大橋の注)


 大磯の原田邸は、その後も西田の日記に何度も登場し、西田と海軍の接点となる場所だ。ここで近衛内閣の大蔵大臣と日米交渉の全権大使が西田を訪れた目的は、分からない。しかし、おそらくは政府側の要人が時局について西田の意見を求めたのだろう。


 西田の日記では、やがて近衛文麿自身も西田に会いに来るようになった。昭和十四年十月三日にも、近衛は側近をつれて原田邸で西田と会っている。近衛は西田の講義を聞いたこともあるから、そのかぎりでは西田の「弟子」だった。その近衛と西田のつながりが、海軍と京都学派のむすびつきの礎石だった。しかし、西田と近衛の師弟関係はなお私的にとどまる。これがどういう事情で海軍と京都学派のむすびつきに発展していったのかが問題だ。

高木回想』ではつづいてこう記される。「その年の九月、西田先生を自宅に訪ねたとき、京都学派の協力を求めるなら、高山教授が連絡係として適任だろうということを示唆された。しかし、京都は東京と違って機微な点があり、今は田辺博士が中心であるから、順序として田辺博士に納得してもらう必要があることも注意された」。西田の日記では「大磯の原田へ行く。晩に高木(海軍)、長與も来会」という記事が九月十五日にある。つづいておなじ九月の二十八日には「海軍の高木惣吉といふもの天川勇と来訪」と記される。西田が高木に、田辺に納得してもらうようにと注意したのは、この九月二十八日のことだろう。「私が京都を訪ねたのはその後のことである(5)」と高木は記しているから、海軍と京都学派のつながりもここから始まったといえる。


高木のブレーン・トラスト構想


 海軍が京都学派の「協力」を求めるというのは、海軍調査課の「ブレーン・トラスト」編成計画の枠組みのなかだった。このブレーン・トラストについて、高木は戦後ながく沈黙していた。それは戦後の風潮から「これ以上の迫害や誤解をます危険を恐れたから(6)」だった。彼のいう迫害や誤解が、京都学派に対するものを意味していたことは、言うまでもない。


 高木はこのブレーン・トラストを考えるにいたった「直接の動機」について、『高木回顧』のなかで、ほぼ次のように述べている。昭和十三年(一九三八年)、国家総動員法が三月に成立し、五月にはメーデー禁止、七月には張鼓峰事件等がつづき、陸軍の主戦論勢力は武漢と広東を占領して意気盛んだが、国際連盟との絶縁がなされた。そのようなとき、陸海軍の中堅層の意見交換の会合が十一月になされたという。陸軍は対ソ戦を主張し、海軍は英米に対する考慮から対ソ戦の不利と日華事変の解決を主張し、両者は平行線をたどった。


 海軍は組織力と政治力において、陸軍には対抗できない。そこで陸軍の強烈な戦争意志を阻止する策として、高木はブレーン・トラストを構想する。黒田秀俊『昭和言論史への証言』には、高木惣吉を中心とする「太平洋研究会」という懇談会が、昭和十六年二月二日に始まった(7)とあるが、高木自身の言及を見るなら、この懇談会は高木の言うブレーン・トラストのことではない。それは「海軍の意向を国民に紹介してもらうのが根本の趣旨」の会で『中央公論』、『改造』、『日本評論』の各雑誌の編集長を含めた懇談会のことだ(8)


 他方、高木の組織したブレーン・トラストはこれより遥かに大規模で、一、思想懇談会(安倍(しげ)(よし)・一高校長や谷川徹三・法大教授、和辻哲郎・東大教授などが入る)、二、外交懇談会、三、政治懇談会、四、総合研究会(ここに高山岩男・京大助教授や矢部貞治・東大教授が含まれる(9)等の部門に分かれている。高木はこのブレーン・トラストへの京都学派の協力を、西田を通じて依頼したのだ。


 煩雑な引用を略してその後の経過を略述するなら、ブレーン・トラスト結成の具体的な行動は、昭和十五年(一九四〇年)になってから始まった。『高木情報』を追っていくと、彼が昭和十六年(一九四一年)から、西田のほかに和辻哲郎、高山岩男、西谷啓治、鈴木成高、等と会合や手紙等を通じて接触を保っていることが、跡づけられる。


 昭和十六年の十一月二十三日には高木は京都大学文学部を訪問して、有志教授・助教授の協力を謝した。それに先だって京大では、「ひとつの秘密な組織が生まれた。表面は高山岩男ひとりだけが海軍省の嘱託になることになり、文学部教授会で承認された。しかし同時に、高坂正顕、西谷啓治、木村素衞、鈴木成高が内々でそれに協力することになった(10)」。


 もともと一国の軍備は、単に物理的な経済力だけでなくて、一国の科学技術力と戦略思想の結晶でもあるから、物質面と精神面とを併せた「精神史」という観点からも、見られ得る。その限りにおいて、海軍と京都学派のむすびつきもまた、ひとつの精神史として捉えることができる。価値観や文明観という要素をも交えた、そのかぎりでは思想の問題が、根底にあるからだ。


陸軍と海軍の対立


 京都学派と海軍とのむすびつきの背景に、海軍と陸軍のあいだの、時局をめぐる方針の対立があることは、すでに上の経緯からも見えてきたであろう。そしてこの対立もまた、価値観の対立を含むという意味で、精神史的な側面をもっている。


 七百年にわたる長い武家政権の伝統をバックとし、(さつ)()藩を主なる閥とする陸軍と、蓄積ゼロの状態から出発し、まったく別の藩閥系譜の人脈からなる海軍とでは、おなじく装備の近代化をはかるといっても、思考体質が異なるのは当然だった。


 日露戦争において、陸軍が二〇三高地攻防の勝利で、また海軍が世界最強といわれたロシア・バルチック艦隊に対して、それぞれ劇的な勝利を飾ったことは、ともに富国強兵という明治のスローガンの達成をあらわす出来事だった。しかし同時に、その背後では陸海軍の競合と対立がドラマを織りなしていた。


 陸海軍の競合と対立自体は、本書のテーマではない。ただこの問題が、京都学派にも影を落とすというかぎりにおいて、それは本書の視野に入る。この問題に関するレポートは、言論弾圧という観点からはすでになされている。黒田秀俊氏の『昭和言論史への証言』に含まれる一章「京都学派をめぐる陸海軍の抗争」が、それだ(11)。黒田レポートは、『中央公論』と『改造』が、陸軍報道部の圧迫でついに解散に追い込まれたこと、その背景に、『中央公論』が擁する京都学派への蓑田胸喜一派の攻撃があったことを、詳しく跡づけている。


 陸海軍の対立が影を落としたのは、京都においてだけではなかった。東京大学の哲学教授をつとめた(いで)(たかし)はその『出隆自伝』のなかで、昭和十三年に東大で起こった「平賀粛学」事件を回想して、それが軍部の対立に関係していたことを推測している。平賀粛学とは、「反軍思想」の河合栄治郎が()(めん)された事件のことだ。このとき帝大総長工学博士の平賀譲は、河合だけでなく、粛学をとなえていた革新派の(ひじ)(かた)(しげ)()をも罷免した。その理由は、平賀総長が日本海軍の建造の親と言われた海軍造船中将だったこと、したがってまた河合教授の「反軍」が「反陸軍」であり、これに同情したであろうこと、が推測されるというのだ(12)


 出隆の叙述は推測の域を出ないが、罷免された河合栄治郎が原理日本社の蓑田胸喜に攻撃されていたこと、そして蓑田一派が陸軍による思想統制を(あお)ってこれを激化させた推進力であることは、ひとつの事実だった。


 その蓑田は「……河合事件等教授及び学生の赤化思想事件累次頻発しその(ちよう)()として紀元二千六百年奉祝の年、東京帝大法学部の東洋政治学講座に日本教学史上空前の大不祥事たる津田問題をまで惹起するに至つた(13)」ことを憤って、『国家と大学──東京帝国大学法学部に対する公開状』を記している。そして、「現日本万悪の出自本源は(ひつ)(きよう)『思想参謀本部』を以て目すべき帝国大学の違憲反国体学風である」と、考えていた。だから蓑田は、平賀総長が昭和十四年四月十二日の東京帝国大学創立記念日に於ける式辞で、我が国の学問のために「第一に国体の本義に照らして其の立脚する思想が根本的に(あやま)り無き事を認めねばなりません」と述べたことを評価しつつも、その反省の遅すぎることを批判している(14)


 出隆の自伝について付加するなら、これは二巻にわたるもので、京都学派に対して皮肉と距離をふくんだ叙述も出てくる(15)京都学派全盛のころの東京大学の哲学科の雰囲気を伝えるものとして興味を引くが、本稿のテーマにとってそれらはさほど重要ではない。むしろ、京都学派から距離をおいた東京においてすら蓑田の攻撃に悩まされていたということのほうに、注意したい。


 たとえば慶應大学の教授が蓑田からの攻撃を恐れていたことなども、この自伝で回顧される(16)。そうであれば、海軍と協力関係にあった京都学派が陸軍の思想統制に檄を放つ蓑田ら原理日本社の攻撃目標となったことは、当然だったと言える。


西田の激怒


 京都学派に関係するかぎりでの陸海軍の対立は、京都学派とつながりをもった高木惣吉の回想が多くを語る。彼の回想は「太平洋戦争と陸海軍の抗争」を副題としている。


 太平洋戦争初期における、西部太平洋地域を三カ月で席捲した第一段作戦のあと、大本営は第二段の作戦方針を決定することとなるが、「それまでもすでに戦争および作戦指導について陸・海軍の間にひそんでいた思想的対立が、戦果に酔った油断と猜疑からさっそく表面にあらわれはじめていた」ことを(17)、『高木回想』は語る。


 もともと陸海の予算、工場、資材、人員、等の奪い合いは、にがにがしい年中行事だった。決戦兵器となった航空機の争奪はその最悪の例となった。それは戦略のちがいでもあった。「前には満州事変、上海事変に反対しながら引きずられ、近くは張鼓峰事件、ノモンハン事件、山海関内侵入、盧溝橋事件に反対し、事変拡大、日独同盟、国内革新いずれも反対につぐ反対、いわば米内・山本時代は、失われゆく海軍の〈拒否権〉にいちまつの光彩をとどめたにすぎぬ(18)」。


 高木は海軍ではあったが、西田を訪問するときは軍部全体の立場を述べるほかなかった。その軍部が日米開戦のほかに方法はないと考えている旨を打ち明けたとき、西田は激怒して言う。「君たちは国の運命をどうするつもりか! 今までさえ国民をどんな目に会わせたと思う。日本の、日本のこの文化の程度で、戦いもできると考えているのか!」。


 高木は「西田の度のきつい眼鏡ごしに(にら)みすえられたとき、正直のところ息がつまったように感じて」、書斎にかかる絵もそのときばかりは眼にうつらなかったと、回想している(19)。かつて奇相の観相師・石龍子に一喝されたときは、まだ高木個人の人生の方向が問題になっているにすぎなかった。しかし、いまは日本の国の運命の方向がかかっていた。とはいえ、もはや高木ひとりの決断ではどうにもならなくなっていた。


矢次の「国策研究会」


 ここでバランスを期するため、そして京都学派と軍部との関係の全体像のために、陸海軍の対立についての陸軍の側からの証言をも、挙げておかなければならない。()(つぎ)(かず)()の『東条英機とその時代』だ。


 矢次は軍人ではなかったが、「陸軍省嘱託」の地位にあり、陸軍のブレーンという意味で、海軍における高木に対応する。かれらは年齢においても、ほぼ同じだった。


 高木は矢次についてこう記す。「その執筆(西田幾多郎の「世界新秩序の原理」)がいつであったか、その経緯や、内容についても知っていないが、先生を手玉にとった矢次一夫という人物を今の若い世代はご存知ないようである。矢次氏とか松井(空華)氏あたりは、陸軍をリードしたのは拙者である、と自称するに値するほど一般の想像を越えた強大な説得力と、世間を動かす術策を兼備した英雄である(20)」。


 やや皮肉の調子を含むが、自分よりもさらに上を行く人物という評価が基調をなしている。これは、高木が組織した「ブレーン・トラスト」に対する、矢次が昭和十二年(一九三七年)組織した「国策研究会」の関係でもある。矢次はこの国策研究会の活動のため、陸軍はいうまでもなく、(ちゆう)(ちよ)する海軍まで説得して機密費を提供させ、調査課長であった高木はしぶしぶその機密費を官房に請求し、そのことを回想して高木は、前述のように語るのだ。


 逆に矢次から見た高木への批評にも、触れておこう。彼はきびしい高木批判をしている。それは高木が、特攻隊の生みの親にして本土決戦の最強硬派であった大西瀧治郎を、おなじ海軍兵学校出身でありながら否定的に批評したからだ。終戦翌日の八月十六日に自刃した大西瀧治郎の「愚直と()(べん)性」を、矢次は愛してやまなかった。


 そこで彼は述べる。「高木少将など、大西をはじめ、海軍の同僚先輩に()(たん)なき侮笑を浴びせているが、どういう積りであろうか。とくに大西は攻城野戦に()()した者だが、高木などは久しく軍政の枢機にあって、戦争の起こることにも、戦争の指導にも、海軍の高級将校として責任重大の筈である。おのれ一人過誤なく清しの態度は、私共には、不思議なる神経の持ち主と言わざるを得ない(21)」。


すれ違う陸海軍のオピニオン・リーダー


 高木のために公平を期して書き添えておくなら、高木自身は、「かりにも祖国を敗残の四等国にまでおとし、広島、長崎、沖縄をはじめ、幾多の同胞を殺したことは泣いても泣ききれない(22)」と述べ、悔悟に身をさいなまれている。「敗戦後満足に残ったのは、製鉄、造船、製油工業ぐらいのもの、なかでもあの国民輿望の的でもあった連合艦隊……思えば先人七十年の苦心の結晶を、狂乱三年余にして滅し去ったこと」を恨んでもいる(23)


 この発言からも分かるように、高木は矢次の言うように「おのれ一人過誤なく清しの態度」をとったわけではない。むしろ、戦争中は軍部に迎合しながら戦後は太平洋戦争断罪の筆を振るう進歩的文化人に対して、不快の念を抱くという点で、高木は矢次とおなじ見解をさえ抱いていたのだ。


 高木と矢次のたがいの人物評が、どの程度に客観的だったかは、ここではどうでもよい。むしろ問題なのは、海軍と陸軍のそれぞれにおけるオピニオン・リーダーとして大きな影響力をもったふたりが、たがいにそれほど親しくなく、むしろすれ違いの関係にあった、という事実なのだ。それは陸海軍のすれ違いを映す関係にほかならなかった。そのような関係のゆえに、おなじ陸海軍の対立問題についても、矢次と高木の見解はおのずから異なる。


 矢次もまた、真珠湾攻撃のあと陸軍と海軍のあいだに戦略をめぐる論争が生じたことを回想している。陸軍は長期決戦論、海軍は短期決戦論だった。そこまでは高木の見解と食い違うことはない。しかし、その後の展開に関しては、ふたりの見解は一致しない。「遂に海軍が陸軍を引き摺った形で強行した、五月二十七日のミッドウェイ大作戦(24)」という矢次の見解は、陸軍が海軍の非を責めるという観点だ。


 昭和十七年五月に始められたミッドウェー作戦は、それまで攻勢をつづけてきた日本軍が取り返しのつかない大損害を蒙って敗戦の端緒をつくるという、太平洋戦争の流れの大きなターニングポイントだ。この決定的な局面での敗北について、高木はこれを海軍の責任とはせず、「日本の政治、軍事、産業、経済その他の部門において重ねられた過誤の総決算(25)」と述べる。


 矢次はこの総決算を承認しないだろう。矢次はむしろ、「海軍がこっそり軍隊を送り、これが窮地に陥ると、にわかに救援を騒ぎ立てるというやり方に陸軍が大いにつむじを曲げた(26)」という非難をふたたび持ち出すだろう。強硬な陸軍に対して理性的な海軍という図式を、矢次は受け付けないだろう。海軍の名将というイメージが定着した山本五十六元帥に対しても、彼は「大艦巨砲主義」に固執して空軍主義への転換を怠った致命的な過ちを批判している。


 しかし山本が立案した真珠湾攻撃は、空軍によるものだった。たしかにやがて米軍は空軍力でも日本軍を圧倒するにいたったが、それは明白な国力差から来たものというべきで、これを山本の過ちに帰するのは、矢次の八つ当たりの観がある。

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