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京都学派と日本海軍 新史料「大島メモ」をめぐって
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歴史
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第二部 京都学派と「大島メモ」をつなぐ精神史

『京都学派と日本海軍 新史料「大島メモ」をめぐって』
[著]大橋良介 [発行]PHP研究所


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 下村寅太郎著『東郷平八郎』



「日本的なもの」という問題


 過去の出来事は、単に過ぎ去ってしまうということは決してない。それは現在を形成する地層として、現在のなかに「過去の現在」として蔵されている。太平洋戦争は今日の日本にとって、その後の国家の在り方を定めたという意味で、国家規模での「過去の現在」だ。それは単に過ぎ去ることなく、現在の地層のひとつをなしている。


 この地層を蔵する戦後日本は、米国の社会システムの傘下で復興を遂げた。もちろんそれは日本だけについて妥当するのではない。第二次世界大戦後にマーシャルプランのもとで復興の途についた欧州諸国についても、同じことがいえる。しかし、日本の場合にはそれは大きな文化的ないし精神史的な断層をともなう出来事だった。おなじく米国モデルの傘下といっても、「欧米」間にはもともと宗教(キリスト教)や文字(アルファベット)や言語(インド・ヨーロッパ系言語)の親和性があった。それに対して「日米」間には、そのような文化的親和性はなかった。


 戦後半世紀を経て、この米国システムはグローバリズムという名のもとに、さらに強力な浸透力を得てきている。かつてドイツの哲学者・ハイデッガーは、「アメリカ主義」が、やっと解き放たれたばかりでまだ全く発現していない、ある「巨大なもの」の変種だと述べた(1)。その発現形態はいま地球全体を覆う規模となり、グローバル化しつつある。


 このグローバリズムのなかで、「日本的なもの」は消えるのだろうか。こういう問いを出すとすぐに、「日本特殊論」だとか「エスノ・セントリズム」とかというレッテルを持ち出して警戒する人もいる。そこには戦後知識人に特有の文化コンプレックスが見られるだろう。加えてその人々は、論理的には「特殊」というものを特殊に見過ぎているように思われる。「特殊」を「普遍」から切り離して捉える見方がそこにあるからだ。


 普遍から切り離された特殊は、「特殊」とも言えない。「日本的なもの」は「普遍世界的なもの」の対極にあるのではなくて、文化の多元性を構成するひとつの要素にすぎない。それらの構成要素が相集まって「宇宙」(ユニバース)を成すかぎりは、それらは「普遍的」(ユニバーサル)な性質を共有する。


 しかし同時に、特殊なるものは他者に還元できない個性をもつはずだ。アメリカン・グローバリズムが世界の構成部分の個性を押しつぶしていくだけなら、そこにはグローブ(地球)のデスマスクしか残らないだろう。


 太平洋戦争の終結とともに、「日本主義」や「皇道主義」といった神がかり的な「日本特殊論」は、没落した。それは太平洋戦争がもたらしたプラスの「成果」だ。かれらの極端な閉鎖ナショナリズムは、「世界性」の開示性の場を自ら拒絶していた。そういう主張が壊滅したことによって、戦後の日本は明るくなった。ただ、その明るさを手放しで称賛することもできない。経済的価値だけが追求される風潮のなかで、気概というものが失われているからだ。敗戦とともに、精神の武装解除までなされたのではないかという気がする。


 太平洋戦争の勝者となった米国自身は、「マニフェスト・デスティニー」(天与の使命)と呼ばれる楽天的な自己肯定観を、さらに強めた。この稿を執筆している現在、この「マニフェスト・デスティニー」観は米国の連続テロ報復爆撃という形で、極限形態へ高められている。自国の正義を世界の正義とみなす超ナショナリズムは、爆撃を受けるタリバン側の原理主義と結果において酷似している。


 他方の日本では、「日本的なもの」を語ること自体を拒絶する、一見開明的な「文化人」がいる。それはかえって「日本的」な現象だ。こういった状況を踏まえて太平洋戦争を見直すということは、これまでとはちがった意味をもつことだろう。それは過ぎ去った歴史にいつまでも拘泥するということと異なる。それは「過去の現在」の一地層を掘削する作業にほかならない。


ペンネームは「野々宮朔」


 その作業を(たす)けるものとして、ここである一書に眼を転じよう。京都学派の学者のひとり、下村寅太郎が著した『東郷平八郎』だ。それはもと、昭和十八年(一九四三年)六月から八月にかけて、「野々宮朔」というペンネームで、雑誌『知性』に連載された。下村にこのような著書があることを知る人は、少なかった。


 戦後になってこの論考は、下村のエッセイ集『明治の日本人』に実名で再録されたが(2)、それでも下村の業績がライプニッツ論をはじめとする精神史論や科学史・数理哲学にあることは周知だったから、彼の『東郷平八郎』は彼の余技的な副産物くらいにしか思われていなかった。


 しかし昭和十八年にペンネームで「東郷平八郎」という人物について発表するということが、下村ほどの学者において、単に余技的になされた筈はない。下村は戦後このエッセイが単行本となった折りのあとがきにも、この理由については触れなかった。また自叙伝的な性格をもつ「著作遍路或は自画自讃(3)(以下「著作遍路」と略称)でも、「一生に一度きりのペンネーム」を用いたと述べたきりで、その理由は記さなかった。


 しかし、思い入れが深いほど理由は記さない、ということもしばしばある。私には、下村の『東郷平八郎』はそのようなケースのように思える。以下、その理由を述べることにしよう。


 まず、この書が東郷平八郎に関する文献のなかで占める位置を見たい。近年出た田中宏巳著『東郷平八郎(4)』に文献目録が載っているので、その位置はすぐに確認できる。東郷に関する単行本文献の刊行数には、三つのピークがある。昭和の最初の十年間に二六点、昭和十五年から十八年にかけて一〇点、そして平成になってから一一点である。


 第一のピーク時は、満州事変、二・二六事件や五・一五事件、日中戦争突入、等がつづく時代だ。第二のピーク時は、太平洋戦争の時期である。このとき下村の『東郷平八郎』が著述された。第二ピーク時の東郷文献類は第一ピークにもまして、愛国心を鼓舞せんとする勇ましい表題をもつものが多く、東郷を「聖将」ないし「大東郷」元帥として神格化する傾向をもっていた。


 これらの文献類のなかで、下村の『東郷平八郎』は極めて例外的な位置をもっている。それは、東郷大将の神格化という傾向をまったく含まずに、この人物をどこまでも「明治精神史」の一つの問題として捉えようとするからだ。それは下村が当時にあって、まったく孤絶した見地から東郷平八郎を捉えようとしていた、ということを意味する。それか、あらぬか、前記の田中の書に挙げられる主要文献表には、下村の著は入っていない。


 この孤絶した見地を著作において表明することは、当時にあっては当然ながら緊張をはらむ行為だ。言論統制が行われていた昭和十八年当時、京都学派が「何をどう書くか」は、書く本人にとっても常に覚悟を必要とすることだった。そのように見るなら、ペンネーム使用の理由もわかるだろう。それは京都学派の会合が秘密裏におこなわれていたことと、呼応する行動だったのだ。


「隠された陸軍批判」


 この呼応は、『東郷平八郎』の内容に立ち入るとき、さらに歴然とする。下村は東郷と日本海海戦だけを描き、()()(まれ)(すけ)には触れていない。乃木に関しては、英国国王の戴冠式参列の帰途に乃木が不遇のステッセルを慰問しようとしたときに東郷がこれをとどめた、という逸話を引用しているだけだ。二〇三高地の攻防にいたっては、まったく触れてもいない。しかし、それは関心が無いということを意味するものではない。おそらくは、敢えて黙したのだ。その黙殺には、乃木批判がこめられているのだ。


 司馬太郎の『坂の上の雲』にも詳しく描かれることだが(5)、乃木希典大将と伊地知幸介少将を司令部トップとする陸軍の二〇三高地総攻撃は、後日の分析から、頑迷無策の采配に終始していたことが判明している。夥しい兵士が無駄に屍となった。そして無能な伊地知の採用の背景に、硬直した長州閥の閉鎖的な人事があった。


 司馬は仮借なき筆を振るってこれを描いた。描くことが可能な時代が昭和二十年代以降には到来していたのだ。しかし下村の時代には、それは不可能だった。ペンネームによる暗黙の批判しかできなかった。


 ただ、明治以来の陸海軍の体質のちがいを知っていた人は、昭和十八年という時点でことさらに海軍を称揚して陸軍に言及しないということが、何を意味したかを、歴然と理解しただろう。ペンネームによって発表された下村の『東郷平八郎』は、明治以来の陸軍の体質をひきずる、極右化しつつあった軍部への、当時におけるぎりぎり可能な範囲での陸軍批判だったのだ。


 しかしこの「隠された陸軍批判」は、同時に「海軍(しつ)()」を含意していた。昭和十八年の六月から八月にかけてという時期は、戦局でいえばミッドウェー作戦(昭和十七年六月)での大敗北につづくガダルカナル撤退(昭和十八年二月)とアッツ島玉砕(昭和十八年五月)のあとだ。ミッドウェー作戦をめぐっての矢次一夫のきびしい海軍批判は、すでに見たとおりだ。


 海軍もまた日露戦争の頃の清新な気概と体質とを失って、さまざまの失敗を犯していた。陸海軍の不毛な対立を一方的に陸軍の硬直性と(きよ)(ごう)とに帰することはできない。海軍内部で種々の構想立案にあたっていた矢部貞治自身が、やがて「海軍にも愛想が尽きた」と慨嘆したが(6)、その事態は昭和十八年当時すでに進行していた。精神史家の下村がその事態に気づいていないはずがない。


 ただ、そのような海軍が、なおかつ高木惣吉大佐を通じて京都学派に協力を求めていたことは事実だ。そうであれば下村の『東郷平八郎』は、海軍の現状への叱咤であり、極右国粋主義グループを保護する陸軍への批判だった。後者の意味が、乃木希典を黙殺したということの理由と考えられる。


思想戦参与の一冊


 それにしても、科学史と精神史の(せき)(がく)と見られた下村が、なぜこのような執筆動機を持ったのだろうか。それは彼の著作が単なる象牙の塔のなかの思索ではなかったからだ。昭和十六年(一九四一年)に出た下村の『科学史の哲学』の序文は、本論と異なって、時局的色彩をもっている。それについては下村自身がこう述べる。

何よりも現代の戦争にとって生産力と科学技術の発展が不可避の重要な実質的な戦力であったのにその劣勢と不備とが危機に臨んで認めざるを得なかったことは[日本にとり]致命的であった。

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