読みたいトコだけ買える本。
犬耳書店
初めての方へ 記事一覧 無料登録 ログイン

犬耳書店はRenta!へ統合いたします

(2021/11/26 追記)

犬耳書店の作品をRenta!に順次移行します。
詳しくはこちらでご確認いただきますよう、よろしくお願い申し上げます。

0
-2
kiji
0
0
1243779
0
自分の頭と身体で考える
2
0
0
0
0
0
0
ルポ・エッセイ
お気に入りとは?

お気に入りボタンを押すとお気に入りリストにこのページが追加されます。興味のあるページ・気になったページを後から確認するのに便利です。

お気に入り お気に入り
第四章 一歩間合いをとって日本を見る

『自分の頭と身体で考える』
[著]養老孟司 [著] 甲野善紀 [発行]PHP研究所


読了目安時間:42分
この記事が役に立った
0
| |
文字サイズ

自分で考えて自分の言葉でしゃべる人ってほとんどいないのでは……養老

甲野 コピーライターの糸井重里さんが、私の稽古会を見に来られて一番関心を持って下さったのは私の稽古会の形態なのです。私の稽古会というのは、とにかくまずこれを教えますというかたちではなくて、とにかく私は専ら初心者専門で、来た人にまず私の技がどんな感じか体験してもらう。

 常連で慣れた人たちなどは、もう好き勝手にやっているわけです。とにかく、ああだこうだと言いながらそこらじゅうでやってるものですから全然厳粛でも何でもない。当然、何の命令も号令もない。それで初めて来た人の多くは戸惑うんです。どうしていいか分からない。それで「まず何を覚えたらいいんでしょうか」という質問をされるのですが「いや、何も覚えるものはないです。ただ体験してもらって、どれがやりたいか、それぞれ自分で問題を作ってやって下さい」と言います。そうすると最初は戸惑っていてもこの稽古会のやり方が性に合って「自分でやっていっていいんだ」という自由に気づくと、後はもう自然といろいろ進歩してゆくようですね。

 それでこの稽古会の形態は、糸井さんがかねて考えられていた組織のあり様の一つが体現されているとのことでした。ですからさきほども話に出ましたが、誰もが共同体の建前を守っていかなければならないんだということを息苦しくも思っているわけですよね。それをいちおうは守っているけれど、それから外れて自由に展開していいんだということになると、やはり大きな解放感もあって変わってくるのだろうと思うのです。
養老 日本の研究所でそれをなくすことができる研究所というのは、おそらくほとんどないですね。ただ、世界中どこでもそうですけれど、うまくいった研究所というのは、おそらくそれをなくしたところだと思います。全然ないっていう意味ではないけれども、少なくとも研究に関してはそういう共同体の建前のようなものがないのが、うまくいく場所なのだと思います。そういう場所を作るノウハウみたいなものが、戦争突入前後、昭和の初め頃から、だんだんなくなってきたんじゃないでしょうか。

 なぜなくなったのか分からないのですが、無理やりうまくいったケースが、かつての理化学研究所だと思います。田中角栄から武見太郎、朝永振一郎までいたんですよ。田中角栄なんて研究員でもないのに、雇われていた。けれども、そういう世界が実際にあったんですね。昭和十年代の話ですから、もう古い話ですが。

 まあ、日本の研究所で成功したところってあまりないですね。それは今おっしゃったような雰囲気を所長が作れないからです。そういう意味では、理化学研究所の所長は偉かったのだと思います。だから科学史の人に、そういう日本で成功した研究所の例を調べたらいいテーマになるよと、よく言うんです。

 ある時期の京都府立一中から旧制三高もそうでした。その所長と朝永、湯川が同級生なんです。それから人文研を作った桑原武夫、今西錦司も同級生です。同じ学校の同じクラス。そんなこと滅多にあるわけないので、もう絶対それは環境なんですね。

 良い場所というのは、ある意味では当たり前なんです。だから、おそらく日本の社会の至るところであまりにも当たり前じゃなくなってしまったという状況があるのでしょう。たまたまこの間、布施英利君が「課外授業」というNHKのテレビ番組で先生やるというので、彼についてのインタビューを受けたのです。布施君って一言で言ってどういう人かと聞かれたので「自分で考えて自分の言葉でしゃべる、それだけでしょ」と答えました。そう言ってみて気がついたのですが、そういう人ってほとんどいないんですよ。甲野さんがずうっとおっしゃっていること、そういうことでしょ。

 自分で考えて自分の言葉で話す人って、当たり前みたいだけれど、実際に世間の中を見るとほとんどいないですよね。だから「ともあろうものが」という言い方をするんです。「ともあろうものが」ということは逆に言えば、ある立場である位置にある人が言うことも、することも決まってるということです。

 僕もよく言われたことがあります。赤提灯で酒を飲んでいると「東大教授ともあろうものが、こんなところで酒飲んでいていいのか」って。

 つまり東大の先生というのは、どこでどういうことをするものかっていうことが決まってるわけなんですよ。誰がそんなこと決めたんだと考えると、これは不思議なことです。どこに書いてあるわけでもない。国家公務員の服務規程に赤提灯で酒を飲むなと書いてあるわけじゃない。しかしそれは決まっている。「うっとうしい」とはこのことです。何で僕が、自分が入る飲み屋まで考えなければいけないんですか。

「昔はあったらしい」というのを受け入れるのが伝統だと思うんです……甲野

甲野 それは武道の中では、一番共同体意識の強い剣道世界にもありますね。規則では左足を前にしちゃいけないとは、どこにも書いてないのに、そういうふうに立つ人がいたら「そういうのは正しい剣道じゃない」と、注意されるのです。その他にも、ちょっとでも違えば、何のかんの言われるわけです。

 ただ共同体の幻想というのは、ある種それは伝統といえば伝統だと思うんですね。それで、その伝統があるなしの違いっていうことでこの頃あらためて思うのは、ブラジルで生まれたグレイシー柔術のことです。これは、日本の昔の柔道家の前田光世という人からブラジルに伝わってできたもので、今は寝技主体で、相手が殴ってきても蹴ってきても、組み付いて倒せばあとは寝技で(きめ)るという武術なのです。それでそのグレイシー柔術の最高実力者といわれているヒクソン・グレイシーという人物は、とにかく四〇〇戦無敗ということです。

 私もよく雑誌のインタビューなどで「グレイシー柔術をどう思いますか」と訊かれるのですけれど、誰が来ても、とにかく絡んで倒して寝技に持って行くというのは、確かに見事なものだと思います。しかし日本の昔の柔術では、組み付いてこようとした瞬間に投げたり押さえたりする技術があったのです。つまり一点接触の崩しです。

 やはりすごい人は一点接触で触れた時に相手の重心、立っている不安定さとこっちを頼りにしようとする重心移動のシステムを把握して、それで崩すことができたと思うんですね。もちろんそういう技術はほとんど消えてしまって、ある種の古武道とか合気道とかに型として残っているんですが、もうほとんどそれは現実に受け手がその型を受けてやられる役を演じてくれなければ技として成立しないものになってしまっています。

 それでもやはりどこかに日本の一つの共同体幻想というか、ある種の伝統、つまり「そういうことが出来た人間がいた」という意識は残ったと思うのです。ところが外国などの場合は、もうそういう一点接触で相手を崩したなどという話は完全に神話なんです。だから私は、その共同体の意識の中に「そういうことも昔あったらしい」ということを完全に信じてはいないにしても、昔そういうことができた人がいたようだ、ということをどこかで信じている、言葉をかえれば感覚としてそういうこともあるかもしれないと受け入れられる、というのがやはり一つの伝統かなと思うのです。

 それが全くないところからそれをやることは非常に困難だろうし、そのへんが日本で生まれ育った者とそういう伝承のない国に生まれた者との違いじゃないかと思うのです。ただ、今のリアルファイト系のプロレス、あるいは総合格闘技といわれるものの選手は、結局そのグレイシー柔術と同じように、まず一点接触で相手を崩すということは、ほとんど完全に諦めています。もうそういうことがあるとは思っていないわけですから、武道王国日本といっても実質的にそういう日本の伝統的な術は消えてしまっていると思うのです。
この記事は役に立ちましたか?

役に立った
0
残り:17769文字/本文:20986文字
この記事を買った人はこれも買っています
      この記事を収録している本
      この本で最も売れている記事
      レビューを書くレビューを書く

      レビューを書いてポイントゲット!【詳細はこちら】

      この本の目次