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目からウロコの逆さま世界史
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歴史
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第1章 地球規模化する世界

『目からウロコの逆さま世界史』
[著]島崎晋 [発行]PHP研究所


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21世紀から20世紀へ】
〜なぜ、世界紛争と世界大戦は起きたのか?

拡散する世界の紛争
第2次世界大戦と中国共産党
揺れるヨーロッパ

2010  チュニジアで反政府デモ(ジャスミン革命)
2003  イラク戦争
2001  アメリカ同時多発テロ
1991  旧ユーゴ紛争(〜2001)
1980  イラン・イラク戦争(〜88)
1979  イラン・イスラーム共和国の誕生
1973  第4次中東戦争(十月戦争)
1971  第3次インド・パキスタン戦争
1967  第3次中東戦争(六月戦争)
1966  中国で文化大革命がはじまる
1962  キューバ危機
1960  ヴェトナム戦争(〜75年)
1959  キューバ革命
1956  第2次中東戦争(スエズ戦争)
1950  朝鮮戦争(〜53)
1949  中華人民共和国が成立
1948  第1次中東戦争(パレスティナ戦争、〜49)
1947  「マーシャル・プラン」を発表
1946  チャーチルが「鉄のカーテン」演説
1941  太平洋戦争(〜45)
1939  第2次世界大戦(〜45)
1937  日中戦争(〜45)
1936  スペイン内戦(〜39
1931  満洲事変
1929  ニューヨークで株価の大暴落が起こる
1923  トルコ共和国が成立
1920  国際連盟の結成、セーヴル条約
1918  ウィルソン大統領が「14カ条」を発表
1917  ロシア革命
1912  清滅亡。中華民国が成立
1911  中国で辛亥革命が起こる
1906  全インド・ムスリム連盟の結成
1905  ロシアで血の日曜日事件
1899  南アフリカ戦争(〜1902)
1897  第1回シオニスト会議開催
1870  イタリアの統一

拡散する世界の紛争
1 2011年 1884年
アラブの春は19世紀末の一思想家に由来する

思想家アフガーニーの思想がアラブを変えた!


 2010年1217日、チュニジアで一人の青年が焼身自殺を遂げた。これをきっかけに反政府デモが全国に広がり、翌年1月14日には、23年間、政権の座にあったベン・アリー大統領が退陣を余儀なくされた。この事件はジャスミン革命と呼ばれ、その影響は周辺アラブ諸国にも及んだ。一連の変動は「アラブの春」と総称されている。

 エジプトは30年間にわたりムバラク大統領の独裁統治下に置かれていたが、2011年1月25日から反政府デモがはじまり、そのうねりに呑み込まれる形で、2月11日、ムバラクはやむなく政権の座から下りた。これにともない非合法化を解除され、国政の鍵を握る存在として一躍表舞台に躍り出たのがムスリム同胞団だった。しばしばイスラーム原理主義組織と報道されることもあるとおり、これはイスラームの教えに基づいて社会の復興を目指そうという組織である。こうしたイスラーム復興の動きは19世紀、世界を股にかけて活躍した思想家アフガーニーを源とする。

 アフガーニーの思想は1884年、彼自身がパリで発行した政治評論誌『固き絆』のなかによく表わされている。つきつめると、その主張は2点に尽きる。一つは、イスラーム世界の弱体化は社会内部の停滞に一因があるとする考え方で、いま一つは、ヨーロッパ列強の帝国主義政策に対抗するにはイスラームという宗教の絆を軸とした広範な連帯が必要であるとする考え方である。

 アフガーニーの思想は直弟子、ついで孫弟子へと受け継がれ、その間に2つの大きな流れが生じた。一方にヨーロッパ近代の政教分離に基づく政治体制とイスラームの教えは矛盾しないとする近代派が現われ、また一方に預言者ムハンマド時代の純正なイスラームに立ち返ることでのみイスラーム世界は再興しうるとする復古派が現われたのである。後者の流れを受けて、1928年、エジプトではムスリム同胞団が結成された。

1967年以降、アラブ民族主義は衰退した


 アフガーニーの死(1897年)からしばらくの間、その後継者たちは政局を左右するほどの力を持つまでに至らなかった。アラブの多くの人びとがイスラームよりも、国家の壁を越えてのアラブ民族の連帯を訴えるアラブ民族主義に強く惹かれたためである。

 アラブ世界では、1948年の第1次中東戦争(パレスティナ戦争)の敗北後、民族主義熱がさらなる高まりを見せる。1952年にはエジプトで自由将校団による革命が起こり、青年将校のナセルが実権を握った。ナセルは1956年に大統領となり、それから死ぬまで同職に留まって、アラブ民族主義の牽引役を務める。第2次中東戦争(スエズ戦争)における勝利、および1958年2月からおよそ3年半におよぶシリアとの国家連合などにより、その権威は最高潮に達するが、1962年10月、北イエメンの内戦に介入した頃から陰りを見せはじめ、1967年の第3次中東戦争(六月戦争)における敗北でその権威は完全に失墜した。

 これを受けて、アラブ民族主義は下火となる。アラブ民族全体のことを考えるのは二の次とされ、列強が引いた国境線に従い、それぞれの国内で国民としての一体感を構築することに一番の重きが置かれるようになったのである。政治体制のうえでは、王政と世俗主義的な独裁政権とに二分された。

ムスリム同胞団の草の根活動が実を結んだ


 アラブ民族主義の退潮は一般庶民の間でも深刻に受け止められた。欧米の価値観を至上のものとするグローバリズムへ抵抗するには、停滞する社会を再建するには何を頼りにすべきか。考えたあげく、多くの人びとがイスラームへの回帰をはじめた。

 これよりさき、エジプトではムスリム同胞団の地下細胞が着実に増殖していた。1940年代末にはエジプト最大の政治結社に成長しており、当時、団員50万人と同数のシンパがいたとされる。1949年に初代最高指導者のハサン・アルバンナーが暗殺、さらに1954年に組織が非合法化されて以降、ムスリム同胞団は冬の時代を余儀なくされたが、アラブ民族主義の退潮とともに、再び日の目を見ることになった。

 イスラーム復興の動きが顕著になるなか、ムスリム同胞団には穏健派急進派の分化が見られた。やがて穏健派が主導権を握ると、急進派の排除が行なわれたが、このとき穏健な中道政策をよしとしない人びとは同胞団を離れ、ジハード団やイスラーム団といった過激な新組織を立ち上げた。1981年のサダト大統領暗殺や多くの外国人観光客が犠牲となった1997年のルクソール事件などは彼ら急進派の犯行である。

 ムバラク政権の退陣とともにムスリム同胞団は合法化され、最初の議会選挙で第一党の座を獲得した。これはイスラーム復興の流れだけで説明できるものではなく、それまで同胞団が行なってきた下層大衆への医療・教育・福祉サービスなどの草の根の活動が実を結んだ結果といえよう。

 エジプトの反政府デモには、ムスリム同胞団に代表される復古派のほか、近代派の流れを汲む都市部の若者も多数参加していた。イスラームへの考え方の違う両者ではあるが、自由と正義と豊かさへの願いは共有していたのである。

まとめ 思想家アフガーニーが説いたイスラームの絆がエジプトの反政府デモへとつながり、ムバラク政権を倒した。

豆知識
パレスティナのガザ地区を実効支配するハマースはムスリム同胞団のパレスティナ支部を母体に結成された。

おすすめ参考図書
横田貴之『原理主義の潮流 ムスリム同胞団』山川出版社

2 2008年 1906年
インドとパキスタンの対立はイギリスのインド分離政策にさかのぼる

全インド・ムスリム連盟VSインド国民会議派


 2008年1126日、インドのムンバイで同時多発テロ事件が起きた。犯行はイスラーム過激派によるもので、背後にパキスタンの関与が噂された。ヒンドゥー教徒が多数派を占めるインドと、イスラームを国教とするパキスタン。両国関係に緊張が走ったのはこれがはじめてではなく、過去に何度か核戦争の危機が訪れたことがある。なぜ両国は、それほどまでに仲が悪いのか。

 そもそも南アジアにはじめてイスラームが伝播したのは712年のこと。ウマイヤ朝の遠征軍が海路アラビア海を渡り、インダス川中流域まで進んだのを嚆矢(こうし)とする。陸路による伝播は11世紀にはじまり、320年間続いたデリー・スルターン朝のあとを受けて、16世紀にはムガル帝国が成立した。これに対し、イギリスは18世紀中頃から本格的な進出に乗り出し、1858年には南アジア全体を植民地体制下に組み入れた。

 インド国民会議派*を中心に自治・独立を求める声が強まると、イギリス政府は選挙制度の導入など一定の譲歩を見せるかたわら、民族運動の力を弱めるべく、ヒンドゥーとムスリムのあいだに対立意識を植え付けようと考えた。ときあたかもムスリム*の間では、人口的に少数派である自分たちにとって完全な自由選挙は不利益でしかないという危機感が広まっていた。それも手伝って、彼らはイギリスの思惑に乗る形で、1906年、全インド・ムスリム連盟を結成した。

ムスリムとヒンドゥー間の修復しがたい溝とは?


 全インド・ムスリム連盟は南アジア全体のムスリムの声を代弁する組織として期待されたが、結成から30年余りは、大地主や弁護士など特定の階層に奉仕する利権団体としての性格が強かった。組織力と大衆的基盤に欠けたことから、1937年はじめに実施された州議会選挙で惨敗を喫する。ムスリムに割り当てられた議席492のうち108議席しか得られなかったのだ。これに追い打ちをかけるようにインド国民会議派から、連立の名のもと実質的には同派への吸収合併にほかならない呼びかけがなされた。

 全インド・ムスリム連盟はこの呼びかけに強く反発した。それと同時に選挙結果を真摯(しんし)に受け止め、大衆の声に大きく歩み寄ることを決めた。インド国民会議派との協調をやめ、イギリス政府への依存体質を改めたうえ、「完全独立」という言葉を掲げるようにしたのである。

 こうした努力のおかげか、連盟への加入者は急増した。これに力を得て、1940年3月23日のラホール大会では、議長のジンナーは、インドのムスリムがヒンドゥーとは言語、宗教、習慣などを異にする別個の民族であるとし、民族自決主義に基づいてムスリムが国家を持つべきであるという内容の演説を行なった。イギリス政府に対し、ムスリムのための分離独立国家を要求したのである。

 ラホール大会の決議はムスリム大衆の支持するところとなり、連盟は1945年12月の中央議会選挙と1946年2月の州議会選挙において、ムスリムの投票総数の75パーセント以上を獲得するという圧倒的勝利をものにした。

 一連の大会を経て、インド国民会議派と全インド・ムスリム連盟との関係は修復しがたいものとなった。独立を求める点では意見が一致するものの、単一国家というのはもはや現実的ではなかった。
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