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名言でたどる世界の歴史
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歴史
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第三章 民族の移動と大帝国の形成

『名言でたどる世界の歴史』
[著]島崎晋 [発行]PHP研究所


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唐・太宗の時代

空に飛ぶ鳥なく、地には走る獣なし

玄奘(中国の僧侶)◆『大唐西域記』



 唐は外から来る者は歓迎したが、唐人が外にでることは禁止していた。しかし、太宗の時代、その禁をあえて犯し、天竺(インド)まで旅した男がいた。男の名は玄奘、旅の目的は求法(ぐほう)にあった。

 ここでいう法とは仏法のこと。玄奘は仏門に入ってから十余年、各地をめぐり、多くの高僧のもとで学んできたが、経典の解釈だけでなく、経典そのものにも相違があって、誰に尋ねても満足のいく回答を得られない疑問点もたくさんあった。玄奘はこれらの問題を解決するには、仏教誕生の地である天竺に赴き、現地の高僧に尋ねるしかないという結論に達した。それに、天竺へ行けば、まだこの国にもたらされていない経典も手に入れられるにちがいない。ゆえに国禁を犯してまで、出国する決意をしたのだった。

 とはいえ、その道中は困難をきわめた。玉門関を迂回して通り、五つの烽火台のすべてを過ぎれば、いよいよ砂漠地帯。空には飛ぶ鳥なく、地上には走る獣もなく、あたりを見渡しても、ただ一つ自分の影があるのみという状態で、玄奘はそのなかをひたすら観世音菩と『般若心経』を心に念じながら歩きつづけた。

 玄奘が通ったのはいわゆる天山南路の西域北道だった。漢人の植民地国家だった高昌国を通過し、七〇〇〇メートル級の山々が連なる天山山脈をこえてイシク・クル湖畔にでた。そこから西突厥(とつけつ)の統葉護可汗(かがん)の王庭を通って厚遇を受け、シル川を渡り、キジル砂漠を経て、サマルカンドに入った。そのあたりはソグディアナと呼ばれる。

 その南端の鉄門の険からトハラに入り、五〇〇〇メートル以上の高山が並ぶヒンドゥークシ山脈をこえて、アフガニスタンからついにインドに入った。それまでに要した歳月は、実に三年余であった。

 インドに入った玄奘はナーランダで原典による大乗仏教の研鑽につとめるかたわら、各地にブッダの聖跡も巡礼した。

 天竺での遊学を終え、玄奘が帰国の途についたのは六四一年のこと。帰りは西域南道を使用した。(うてん)から太宗に上表文を送ったところ、赦免と帰国の許可が下りたので、玄奘は安心して旅をつづけ、六四五年正月、群衆の歓呼に迎えられながら長安に帰りついた。

 長安をでて再びそこへ戻ってくるまで都合十五年半。実際に訪れた国は一一〇、持ち帰った経典は七四部一三五八巻にも及んだ。

豆知識

 玄奘は帰国した翌年、その西方大旅行中に通過した国々のことを『大唐西域記』12巻にまとめた。また門弟の手で、日記風の『大慈恩寺三蔵法師伝』10巻がまとめられた。

玄宗の治世と迷走

後宮の佳麗三千人、三千の寵愛一身にあり

白居易(中国の詩人)◆『長恨歌』



 太宗の跡を継いだ高宗は心身ともに虚弱な皇帝だった。そのため政治の実権は皇后の武氏に握られた。高宗が没すると、武后はわが子を帝位につけるが、実権は与えず、すべての命令は武后から出された。

 やがて武后はみずから帝位にのぼり、則天皇帝となる。王朝の名は周とした。

 七〇五年に則天皇帝が病床につくとともに政変がおこり、唐が復活する。しかしその後もしばらく、()后、太平公主など女性が実権を握る時代がつづいた。

 史上、武韋の禍と呼ばれるこの時代を終わらせたのは唐の皇族の李隆基だった。彼はまず父を即位させ、ついで自分が帝位についた。これが玄宗である。玄宗の治世の前半は、ときの年号をとって、開元の治と呼ばれる華やいだ繁栄の時代だった。

 ところが、楊貴妃という美女を寵愛するようになってから、玄宗は変わった。政治を顧みず、管弦や宴遊にうつつをぬかすようになってしまったのである。中唐の詩人、白居易はその代表作『長恨歌』のなかで、こううたっている。「後宮の佳麗三千人、三千の寵愛一身にあり」。

 玄宗の後宮には三〇〇〇人もの美女がいたというのに、その寵愛は楊貴妃一人に向けられたという意味である。この結果、政治の実権は「口に蜜あり、腹に剣あり」とうたわれた宰相の李林甫(りりんぽ)が、李林甫の死後は楊貴妃の縁につながる楊国忠が握ることとなった。

 七五五年、かねて楊国忠と反目していた平盧・范陽・河東の三節度使を兼ねる軍界の最高実力者安禄山が、君側の奸を除くという名目のもと反乱をおこした。世にいう安史の乱である。一時は長安も反乱軍の手中に帰するが、唐は莫大な恩賞と引き換えにウイグルの援軍を得て、かろうじてこれを鎮圧することができた。

 反乱は鎮めたものの、唐は二度と昔日の勢いを回復することはなかった。地方では五〇余りにも増加した節度使が割拠の様相を呈し、朝廷内では皇帝の廃立は宦官の思うままというありさまになっていったのである。

 九世紀末におきた黄巣の乱によって、その寿命はさらに縮められ、九〇七年にはついに、節度使の朱全忠によって滅ぼされてしまう。

 なお、長安を脱出してまもなく、近衛軍の将兵が楊国忠を誅殺。さらに彼らの要求により、玄宗は楊貴妃を殺さねばならなくなった。

豆知識

 玄宗は北魏以来の府兵制にかわり、募兵制を採用。その軍団の長として辺境の要地10カ所に節度使を配置した。

五代十国と宋

一榻(いつとう)の外、みな他人の家なり

趙匡胤(中国の皇帝)◆『十八史略』



 右の言葉は、自分の寝台のほかは、みな他人の家同様である、不安で眠れない、宋はなお多くの国に取り囲まれているからだ、という意味になる。

 唐王朝の滅亡後、五代十国という群雄割拠の時代が到来する。この命名は、華北に後梁・後唐・後晋・後漢・後周の五つの王朝が、華南などに一〇余の国が興亡を繰り返したことに由来する。この間、周辺民族の策動も活発で、後晋などは北方の契丹の援助を得て王朝を設立。その見返りとして燕雲十六州を割譲している。現在の北京から山西省北部に相当する地域である。

 さて、五代十国は後周の柴栄(世宗)の御代、天下統一の機運が生まれた。しかし、柴栄は契丹征討に赴く途中、急な病を得て死亡した。跡継ぎはまだ七歳の少年である。ここで禁軍(近衛軍)に動揺が走った。幼帝に論功行賞はできない。自分たちの働きが正当に認めてもらえない。そんな状況では戦えないという不安が全軍にみなぎったのである。

 そこで禁軍の将兵は禁軍の総司令官にあたる殿前都点検の趙匡胤(ちようきよういん)に目をつけた。ときに趙匡胤は深酒をして寝込んでいた。寝ぼけ眼でおこされたところ、無理やり黄袍(こうほう)を着せられ、皇帝に擁立されたと史書は伝えている。趙匡胤は、後周の皇室や政府高官に危害を加えないこと、都の開封市内で乱暴狼藉を働かないことを条件に、擁立を受諾した。宋の太祖の誕生である。

 とはいえ、太祖は不安だった。状況しだいで、諸将がまたほかの人間を皇帝に推戴するのではないかという不安である。そこで太祖はひと芝居うって、将軍たちの職を解き、全員を年金生活者にしてしまった。

 残る不安は周辺の諸国である。宋が建国されると、南唐や呉越のように後周に服属していた南方諸国はあいついで開封に入貢し、新政権樹立を祝福した。彼らは宋の建隆という年号を奉じている。宋に服属しない政権に対して、太祖は軍事的制圧政策を開始する。これは軍師の趙普(ちようふ)の献策に従ったもので、九六五年には後蜀、九七一年には南漢を滅ぼすことに成功した。

 残るは契丹だが、さすがの太祖も契丹と正面切って戦うことはできず、燕雲十六州の奪回は後世にもちこされた。

豆知識

 柴栄が親征に出る際、「点検が天子になるだろう」という予言書がみつかった。そこで柴栄は現にその任にある者を解任して、趙匡胤をその職につけたのだった。

宋の国政大改革

天下の憂いに先立ちて憂え、天下の楽しみに後れて楽しむ

范仲淹(中国の政治家)◆『岳陽楼記』



 宋は太祖、太宗と二代つづけて名君がつづいたが、三代目の真宗、四代目の仁宗の時代になると、さまざまな弊害が噴出した。当時の有識者が気づいていた弊害とは、国家の財政危機であり、その原因は大きく次の三つからなる。

 一つ目は、軍隊である。宋は北の契丹と西北の西夏に備える必要から、国境警備に大軍を割かねばならず、それを維持するだけでも莫大な経費を要した。

 二つ目は、官僚組織である。節度使の跋扈を抑えるべくしかれた文官体制は、本来の目的を達成していた。が、その反面、官僚の数の過剰という問題が生じていた。その解決策としてとられたのが、機構の拡大、複雑化で、これまた莫大な経費の浪費となった。

 そして三つ目が、節税である。法律上の抜け道を使って、資産家・土地保有者が名目的にその資産や土地を手放し、税や徭役を免れようとする。具体的には、税制上優遇措置が講じられていた、寺院・道観(道教の寺院)への寄進、官僚特権階層への贈呈というかたちがとられた。

 こうした弊害をただすため、慶暦年間、西夏との講和で実績をあげた(かんき)范仲淹(はんちゆうえん)ら新進官僚が中央に抜擢され、官界の綱紀粛正を柱とした大改革に手を染めた。しかし、それは理想に走りすぎたせいか、改革を現実化する戦略に駆けていた。ために改革は何の成果もみないまま終焉を迎えた。

 かくして慶暦の新政は挫折したけれども、つぎのつぎの神宗の時代、またしても改革の機運がもりあがる。国政改革の必要性が、いっそう切実になっていた。二十歳で即位した神宗はやる気十分で、大胆な人材登用をおこなった。そこで抜擢されたのが王安石である。

 王安石は均輸法・青苗法・市易法・保甲法・募役法・保馬法といった新法をつぎつぎと発布した。これに対して、既得権益を侵害されるとして、各方面から反対の声が強くあがった。そのため改革はまたしても失敗に終わる。
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