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(2021/11/26 追記)

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名言でたどる世界の歴史
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歴史
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第五章 アジア・アフリカ植民地化への道

『名言でたどる世界の歴史』
[著]島崎晋 [発行]PHP研究所


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啓蒙専制君主

君主は国家第一の僕

フリードリヒ二世(プロイセンの王)



 啓蒙専制君主とは、十七世紀末頃から西欧で盛んに説かれるようになった啓蒙思想を政策に反映させ、富国強兵を図ろうと試みた君主たちをさす。代表的な君主としてオーストリアのマリア・テレジアやヨーゼフ二世、ロシアのエカチェリーナ二世、そしてプロイセンのフリードリヒ二世があげられる。

 啓蒙とは文字どおり、「蒙を(ひら)く」、すなわち理性の光によって人びとの頭のなかを明るくすることを意味した。各人が何事によらず理性にもとづいて合理的に考え、合理的判断を下し、行動できるようになるべきというのがこの思想の主眼である。とくに十八世紀のフランスで盛んだった。

 啓蒙専制君主たちは行財政から教育・司法にまで及ぶさまざまな文野で改革を推し進めた。フリードリヒ二世などは「君主は国家第一の僕」と称していたが、かれらは国民の自立的発展をめざしていたわけではなく、目的はあくまで富国強兵と君主制の強化にあった。

 だが一方、かれらが当時の名だたる啓蒙思想家を敬愛し、親密な交際をしていたことも事実である。エカチェリーナ二世は全ヨーロッパを代表する思想家ヴォルテールと親しく文通を交わし、啓蒙思想の象徴である『百科全書』を監修したディドロを宮廷に招き厚遇した。フリードリヒ二世もヴォルテールをサンスーシ宮殿に招いて清談を楽しむなどしている。

 改革の成果がもっとも大きくあらわれたのはプロイセンだった。皇太子時代のフリードリヒ二世は哲学や読書に凝って軍務を嫌がり、「兵隊王」の異名をもつ父フリードリヒ・ヴィルヘルム一世をやきもきさせたが、即位後は人が変わったかのように戦争に明け暮れた。

 オーストリア継承戦争、七年戦争、そして第一回ポーランド分割によって大きく領土を拡大させたが、けっして順風にばかり恵まれていたのではない。マリア・テレジアはオーストリア継承戦争で奪われたシュレジェン地方の奪回をもくろみ、長年の宿敵だったフランスとの提携という「外交革命」をおこない、さらにはロシアとも同盟してフリードリヒ二世に挑んだ。これが七年戦争である。

 当時ロシアの君主は女帝エリザベータ、フランスで実権を握っていたのはルイ十五世の愛妾ポンパドゥール侯爵夫人、彼女らとマリア・テレジアの三人の貴婦人に攻めたてられ苦境に陥ったフリードリヒ二世は腹立ちまぎれに、「三人の娼婦」と罵ったという。

豆知識

 ロシアではエリザベータが死去して、ピョートル3世が即位するとともに、外交政策の転換が図られた。ピョートル3世は大のフリードリヒ2世びいきだった。

アメリカ独立革命

代表なくして課税なし

アメリカ植民地住民



 十八世紀中頃までに北米にはイギリスの一三植民地が成立した。移民の数は一〇〇万を超え、黒人奴隷が全体の約二割を占めるなか、そのうち九割が南部に集中していた。

 イギリスはフランスとの植民地戦争に勝利した。そのため北米植民地では、本国の軍事力に依存する必要性が減り、自立的傾向が強まっていた。

 だが、イギリスは逆にほかの植民地と同様、課税と支配を強めた。度重なる戦争のつけから、極度の財政困難に陥っていたからである。新たな課税に対して北米植民地はイギリス商品不買などの大衆運動で対抗したが、一七七〇年にはボストンで流血の事態が起きるなど、緊張は高まるばかりだった。

 イギリス政府との関係が悪化していたとはいえ、独立を唱える声はまだ少数で、総じていえば政策変更を迫るにとどまっていた。ところが一七七三年、経営危機に陥っていた東インド会社に事実上茶の販売の独占権を認める茶法が制定されたことで、両者の関係は抜き差しならぬものとなる。貿易独占化の第一歩になるのではないかと恐れた植民地側は、ボストン港に停泊中のイギリス船に乗り込み、茶箱を海に捨てるという直接行動にでた。ボストン港の封鎖、植民地自治権の剥奪など実力行使にでたイギリスに対し、植民地側はフィラデルフィアに大陸会議を招集して対応策を話し合うが、ジョージアが欠席するなど必ずしも足並みはそろわなかった。

 一七七五年四月にレキシントンでイギリス軍と植民地民兵が小競り合いを演じ、これをきっかけに独立戦争の火ぶたが切って落とされる。翌月には第二回大陸会議が催され植民地軍が創設されるとともに、ヴァージニア代表のジョージ・ワシントンが満場一致で総司令官に選ばれるが、ここにいたってもまだ独立派が大勢を占めているわけではなかった。イギリス国王に対する忠誠心、イギリス人であるという意識が強く、独立に踏み切れずにいる人間が多かったのである。

 世論が一挙に独立に傾くのは七六年一月、トマス・ペインが『コモン・センス(常識)』を刊行してからだった。これは一般の人びとにわかる平明な言葉で書かれたパンフレットで、三カ月で一二万部も売れたベストセラーである。本国への思いを断ち切るのに大いに貢献した。七月四日にはトマス・ジェファソンが起草した「独立宣言書」が採択・公布され、独立への趨勢が固まっていく。

 独立戦争はフランスの援助を得たこともあって、植民地側の勝利に終わった。

豆知識

 1781年1019日、ヨークタウンのイギリス軍が降服したことで戦争は事実上終結。83年9月3日のパリ条約でアメリカの独立が承認された。

フランス革命

いいえ、陛下、革命でございます

リアン・クール侯爵(フランスの政治家)



 表面上の華やかさとは裏腹に、ルイ十四世の治世末期から国家財政は悪化の一途をたどっていた。ルイ十五世の時代には増えつづける戦費に歳入が追い付かず、フランスは破産寸前の状態に陥り、抜本的な税制改革の必要に迫られた。これまで税を免除されていた貴族・聖職者など特権層に課税する必要がでてきたのである。

 もちろん特権層は強硬に反対した。課税問題は議会で話し合うべきだという彼らの要求を入れて、ルイ十六世は一六一四年を最後に召集されていなかった三部会、すなわち身分制議会の復活に同意せざるをえなかった。

 三部会を構成する第一身分とは聖職者のことで、第二身分は貴族、第三身分は平民をさした。全国の土地の四〇パーセントは総人口の二〜三パーセントにすぎない第一、第二身分に占有されており、しかも彼らは免税特権をもっていた。総人口の八〇パーセントを占める農民たちは、一七八八年からのひどい凶作で、苦しい生活を強いられていた。都市部でも食糧難と物価高から労働者の困窮化がめだっており、全国各地で暴動が頻発していた。三部会はこのような社会的・経済的危機のなかで開催されたのである。

 全国民注視のなか百七十五年ぶりにヴェルサイユで開催された三部会だったが、身分間の対立から空転がつづき、業を煮やした第三身分代表たちはみずからの部会を国民議会と宣言した。

 彼らの行動の背後にはシェイエスの『第三身分とは何か』の影響があった。同書は彼らのあいだで広く読まれており、そのなかの「第三身分はこれまで無であったが、これからは力をもつべきだ」という主張は大きな共感を得ていたのである。第一、第二身分からもこれに合流する動きがでるにともない、国王も妥協せざるをえなくなり、国民議会を承認する。国民議会はただちに憲法制定に着手した。

 国王の妥協は軍隊の集結を図るための時間稼ぎにすぎなかったが、パリではそれを知った市民たちによる武装蜂起がおこる。一七八九年七月十四日のことだった。彼らは武器を手に入れようと、廃兵院(アンヴァリッド)とバスティーユを襲った。

 蜂起の成功を受けて憲法制定国民議会はアメリカ独立宣言を参考にしながら、将来制定される憲法の前文となるべき、「人間および市民の権利宣言(人権宣言)」を採択する。主権在民、法の下での平等、表現・出版の自由、財産権の不可侵といった革命の基本理念が明確化されたのである。

豆知識

 バスティーユはパリ防衛のためにつくられた要塞兼監獄であり、専制政治の象徴と目されていた。

フランス共和政の樹立

祖国は危機にあり

フランス立法議会



 一七八九年十月、ルイ十六世一家はパリの女性たちと国民衛兵の総勢二万七〇〇〇人の手によってヴェルサイユからパリのチュイルリー宮に移された。それ以来、市民の監視下におかれていたが、九一年六月、逃亡を図ろうとした(ヴァレンヌ事件)のを境に、反国王感情がにわかにわきあがる。革命の勃発以来、フランスと周辺諸国の緊張はこれまでになく高まっていた。革命の波及を恐れるオーストリア、プロイセンなどはフランスからの亡命者を援助して反革命の準備を整えつつあった。オーストリアは王妃マリー・アントワネットの実家という事情もあって、反革命にもっとも積極的だった。

 一七九二年、立法議会は亡命者の送還を求める最後通牒に応じなかったオーストリアに宣戦布告をおこない、つづいてオーストリアと同盟条約を結んでいたプロイセンとも戦争状態に入った。オーストリア・プロイセン両国はルイ十六世に危害を加えぬよう厳しい調子で警告を発したが、これはパリ市民の反国王感情に油を注ぐ結果となった。そこで「祖国の危機」が叫ばれ、全国から義勇兵が集められたが、このときマルセイユから来た義勇軍のうたっていたのが「ラ・マルセイエーズ(現在のフランス国歌)」だった。八月、パリ市民らによるチュイルリー宮襲撃がおこり、王権停止が宣言される。国王一家はタンプル塔に幽閉の身となった。周辺諸国との戦いでは、フランス軍は劣勢に立たされていた。将軍・将校を構成していた貴族の多くが亡命してしまったため、軍の戦闘能力が著しく低下していたからである。

 戦況はヴァルミーの戦いを境に流れが変わる。要衝ヴェルダンを攻略してパリをうかがおうとしたオーストリア・プロイセン軍を、新兵主体のフランス軍が押し返したのである。
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