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戦うリーダーのための 決断学
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その四 覚悟を決めろ

『戦うリーダーのための 決断学』
[著]小和田哲男 [発行]PHP研究所


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事 例 
「厳島の戦い」にみるリーダーとしての毛利元就



  情熱こそが部下の心を動かすことを知っていた元就


 部下は、リーダーの情熱に心揺り動かされ、思った以上の力を発揮することがある。弘治元年(一五五五)十月一日の厳島(いつくしま)の戦いにおける毛利元就の勝利に至る経過を追っていて、そのことを強く感じた。

 元就にとって、厳島の戦いは、それまでの安芸の一国人領主から、中国地方一〇ヵ国を支配する大戦国大名への転身の記念碑的な戦いであり、そのときの捨て身の決断があったから、それが可能となったわけで、リーダーにとって、決断がいかに大事であるかを探る上で、この厳島の戦いは無視できない。

 そもそも、厳島の戦いの発端は、天文二十年(一五五一)八月から九月にかけての、陶隆房のクーデターであった。周防の山口に本拠を置き、中国地方から九州北部まで勢力をのばしていた戦国大名の大内義隆は、重臣筆頭で周防守護代の地位にあった陶隆房らを遠ざけ、寵臣相良武任に政治をまかせるという状態であった。

 陶隆房は義隆に対し、再三諫言を試みたが、ますます遠ざけられてしまう事態となり、ついに、自分の居城である若山城(山口県新南陽市福川)に引き籠ってしまった。謀反に、消極的謀反と積極的謀反があるとすれば、これは消極的謀反である。

 ふつうならば、ここで、大内義隆による陶隆房討伐のための軍事行動がおこされるところであるが、義隆にはすでにその力さえなかったと思われる。それを冷静に分析した隆房は、「いまなら義隆を倒すことができる」と考え、天文二十年八月二十八日、居城の若山城を発し、山口の大内館を襲撃した。守護代による下剋上である。

 義隆は大内館で防戦することもできず、館を脱出し、やはり重臣の一人である長門守護代の内藤興盛の保護をうけようと長門に逃れたが、その内藤興盛もすでに義隆を見限っており、結局、義隆は、長門の深川というところにある大寧寺に入り、そこで自刃して果てた。陶隆房の鮮やかなクーデターであった。

 このあと、隆房は、豊後の戦国大名大友宗麟の弟晴英(のち義長と改名)を名目上の主君に迎え、晴英の“晴”の字をもらい、晴賢と名を改めている。以下、陶晴賢と記す。

 義隆の寵臣政治を苦々しく思っていた武将たちは、この晴賢のクーデターを歓迎したが、大内氏の家臣が皆同じ思いだったわけではなく、晴賢に反発する動きもでてきた。

 たとえば、石見国津和野の三本松城(島根県鹿足郡津和野町後田)の城主だった吉見正頼は、妻が大内義隆の姉だったということもあり、まっさきに晴賢に敵対する動きを示している。晴賢としては、不満分子を掃討するよい機会とみて、吉見正頼討伐の軍事行動をおこした。

 晴賢から毛利元就にも吉見正頼討伐に出陣するよう命令があった。毛利元就も、大内義隆の傘下に組みこまれていたからである。ここで、元就は、晴賢の命令に従って吉見正頼討伐に向かうか、あるいは、吉見正頼と同様、晴賢に反旗をひるがえすか、二つに一つの選択をせまられる形となった。

 ここで元就は、晴賢の命令を拒み、しかも、晴賢の命令をうけて石見に出陣していって留守の安芸の国人領主の城を次つぎに落としていったのである。天文二十三年(一五五四)五月のことであった。

 晴賢にしてみれば、「同時多発ゲリラ」のようなものであるが、各個撃破の戦略をとり、まず石見の吉見正頼討伐に全力をあげ、八月下旬、正頼を屈服させている。晴賢も、なかなかの武将だったと思われる。もちろん、晴賢の次のターゲットは毛利元就というわけで、晴賢は家臣の宮川房長に七〇〇〇の兵をつけて、元就に奪われた桜尾城(広島県廿日市市桜尾本町)の奪回に向かってきた。

 宮川房長が桜尾城の近く、折敷畑(おしきばた)というところに本陣を置いたことをたしかめた元就は、三〇〇〇の兵を四つに分け、折敷畑の四方から総攻撃をかけた。元就は、「陶軍が石見からの遠征で疲れている」と判断し、疲れが回復しない間に機先を制し、攻撃をしたのである。まさに、元就の作戦勝ちであった。


  情熱が、勝つためのさらなる知恵を生み出した


 しかし、宮川房長を討ったといっても、これは、陶軍の一部隊を破ったにすぎない。晴賢率いる二万余の大軍はまだ手つかずの状態であり、脅威が去ったわけではなかった。

 そのころの元就の最大動員兵力は三五〇〇からせいぜい四〇〇〇である。まともに二万の晴賢とぶつかっても勝ち目はない。そこで、「広い場所なら大軍が有利だが、狭い場所なら少ない軍勢でも勝てるかもしれない」と考え、その狭い場所として元就が選んだのが厳島神社の祀られている厳島、すなわち宮島であった。

 しかし、何か理由がなければ、広い場所での有利な戦い方を望んでいる晴賢を、わざわざ狭い厳島におびきだすことはできない。元就は、知恵をしぼって、晴賢をおびきだす方策を考えた。

 このとき、元就がやってみせた方策は三つあった。一つは、厳島に新しく宮ノ尾城という城を築き、そこに、晴賢側から元就側に寝返ってきたばかりの己斐(こい)豊後守と新里宮内少輔(あらざとくないのしよう)という二人を入れたのである。これは、晴賢の神経を逆なでし、「何としても宮ノ尾城を落としたい」と思わせる仕かけであった。

 二つ目は、晴賢陣営に、「宮ノ尾城を築いたのは失敗だった。いま晴賢に城を攻められたらひとたまりもない」という元就の反省の弁なるものを、わざと流させている。
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