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北京報道七〇〇日
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ルポ・エッセイ
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I ふしぎの国の国際報道記者

『北京報道七〇〇日』
[著]古森義久 [発行]PHP研究所


読了目安時間:1時間16分
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第1章
アリスも驚くふしぎなふしぎな「日中関係」






 日中関係での新参の私は『ふしぎの国のアリス』の主人公のような思いだった。このイギリスの童話は周知のように、アリスという少女がある日、野原の穴に落ちると、下へ下へと落ちつづけ、たどり着いたところに、なんともふしぎな国が広がっている、というストーリーである。

 アリスの前方には、時間を気にして疾走しているのにちっとも前に進まないウサギや、にやにやと笑いながら姿を消す才能のあるネコ、空を飛ぶことのできるブタ、歌の上手なイモムシなどなど、おかしな動物たちがつぎつぎに登場する。みな一見はふつうに見えるのだが、よく見ると、根底がどこか大きく異常である。

 外観と実態とがまるで異なる世界、ふつうの理屈や常識が一見、機能しそうでまったく機能せず、何かがどこかでとてつもなくゆがんだ世界。それが「アリスのふしぎの国」である。私が日中関係に初めて足を踏み入れてみて、少女を気取るつもりこそ毛頭ないが、現実に感じさせられたのは正直、そんな世界に身をおくような思いだったのだ。

 私も国際報道にあたるジャーナリストとしての体験は嫌というほど積んできた。最初は『毎日新聞』、あとは『産経新聞』の特派員として、戦争中の南ベトナムのサイゴンからワシントン、ロンドン、またワシントンと、海外駐在の期間だけでも二十数年。その間、日本国内でも社会部や政治部の記者として取材歴を重ねた。日本の新聞でも現役記者としてはもう最古参の部類である。だから少なくともジャーナリズムの見地からの世間一般の規範とか道理とかはたっぷりと認識はしてきたつもりだ。

 ところが一歩、中国がらみの世界に入ると、自分がごく自然だとみなすそうした規範も道理も通用はしないことをつぎつぎに思い知らされた。常識の機能しないふしぎな世界がそこに広がっていたのだ。

尿検査の悲喜劇

 まずは中国側が日本人に求める健康検査だった。この検査についてはいまも北京で長期在住の日本人が数人集まって、その話となると、みな熱気をおび、文字どおり口角泡を飛ばして、その奇妙さを非難する。

 ビジネスでも報道でも、中国に三カ月以上滞在する日本人は、中国当局が指定する項目の疾病などについて日本国内での検査を求められる。長期滞在のビザ申請の前提なのだ。だがその検査項目がものすごい。

 発疹チフス、小児マヒ、肝炎、猩紅熱(しようこうねつ)、腸チフス、流行性脳脊髄膜炎などの病歴のチェックからまず始まる。心電図とレントゲンの撮影はもちろん、コレラ、黄熱病、梅毒、ハンセン病、結核の有無、さらにはエイズから性病一般の検査に及び、精神病の妄想型や幻覚型の病歴がない証明までが求められる。これだけの検査にはもちろんたいへんな手間がかかる。血液や尿、便の徹底した検査が必要とされる。

 他国とくらべれば異様なほどの徹底ぶりだが、それでもまだこれだけなら理解できる。自国内に外部から危険な疾患が入らないよう慎重には慎重を期す、ということだろう。だが、この徹底した検査を日本のいったいどこで受けるのかとなると、「ふしぎの国」が出現するのである。

 日本で受ける医療検診ならば、公的に認められた主要医療施設での検査であればあるほど、中国側からも歓迎されるはずである。かんじんなのは検査の徹底と、その結果の信頼性だろう。大きくて知られた病院での検査こそが中国側からも喜ばれるはずだ。

 だが現実には、中国の長期滞在ビザの申請のためにこの健康検査を受ける日本人は、みな東京でただ一カ所、有楽町の高速道路ガード下にある小さな小さなクリニックに出かけていく。首都圏では東京以外の遠隔地に住む人たちさえも、このNクリニックで検診を受けねばならないと感じ、あるいは感じさせられ、そこへ出かけるというパターンが長年、確立されているのである。

 Nクリニックはガード下の、雑貨店、理髪店、食品店など小さな店が密集した商店街ビルの奥深い一角にある。カウンターだけのスパゲッティ・レストランから細い通路を隔てただけのごく質素な施設で、医師一人に看護婦二人も入ればもう満員となりそうな小オフィスふうである。とても人間ドックをする病院や医院には見えない。

 実際にNクリニックで検査を受けた人たちはみな「びっくりするほど粗末な施設だった」とか「なぜこんなところへ来させられるのかふしぎだった」と、声をそろえていぶかりを表わす。とくにこのクリニックには便所がないために、無数の悲喜劇が繰り広げられる。

 受検者たちはみな尿検査では紙コップを渡され、二、三〇メートル離れたガード下商店街の公衆便所まで歩いて往復させられる。ところが最短距離のルートにスパゲッティ・レストランがある。レストランといってもそのカウンターは通路に直接さらされている。だからスパゲッティを食べる人のすぐ背後を、受検者たちは小便の入ったフタのない紙コップをささげて歩くことになる。

 ある時期はレストランのほうでその通路に「尿検査の方はここを歩かないでください」というサインを立てた。となると受検者は一度、屋外に出る回ルートをとらされる。だが屋外経由だと雨の日はコップの尿に雨水が落ちてくる。薄くなったらどうしよう。屋外は人の往来が激しく、商品配送係にぶつかり、コップの中身をひっかけそうになる受検者も出る。

 こんな体験を日本の代表企業の三十代、四十代の社員から六十代に近い常務取締役という大物まで、中国駐在になるというだけでみな余儀なくされるのだ。しかも家族もいっしょだから、中年夫婦がおしっこのコップをささげて商店街をあたふたという光景がいつも現出するわけである。

 十年一日のごとくこんな現象がなぜ起きるかといえば、このNクリニックは日本の中国大使館領事部から推薦されるからなのだ。指定でも強制でもないという。だが「健康検査はNクリニックで受ければ一番うまくいくでしょう」としっかり告げられる。受ける側には、もし他の病院で検査をすると、その後にいろいろトラブルが起きる、という認識ができあがっている。Nクリニックでの検査費用も三万五〇〇〇円ほどで、大病院の倍以上とされるが、もし中国側の機嫌を損ねたら、という懸念から、みなガード下へと出かけていくという。

 検査記録は受検者自身が中国に渡ってから北京の検疫局に提出し、引き換えに健康証明書をもらう。この証明書があって初めて長期の居留証が得られる。だから健康検査は非常に重要なのだ。その検査記録がNクリニック以外のものだと、検疫局でなにかと苦情が出るというのである。関西の国立病院で規定の検査を全部すませた記録を検疫局に出して、「なぜNクリニックで検査しなかったのか」と詰問された人もいるし、東京の公立病院の検査を不備とされ、北京での再検査を命じられた人もいる。

 だからトラブルを避けるにはとにかくNクリニックで、という情報がどの日本企業でも歴代、伝え継がれていくのだという。もし赴任に支障が出たらたいへんである。だがその結果、赴任する日本人の側は中国との出会いのスタート点で不快きわまる思いを体験させられる。対中友好にとって有害なこと、このうえない。

 日中関係へのかかわりが深い人たちに聞くと、どうも東京の中国大使館領事部とNクリニックとのあいだには長年、特殊な絆があるらしいという。私は中国に来てから、日本での奇妙な健康検査の実情を中国側の人たちにも語りつづけているが、日本にそれほど関係のない人たちは一様に驚きを示す。この「ふしぎの国」現象はどうも日中関係の特殊性の表われのようなのだ。というのは、アメリカの首都ワシントンの中国大使館領事部では、同種の健康検査はアメリカの一般の病院ならどこでもよいと明言しているからである。なお中国政府関係者のなかには、「東京の検査の状況は日中関係に有害ですから、是正すべきです」と断言した人もいたことをつけ加えておこう。

英語がどんどんうまくなる

 さて、いざ北京に赴任してみると、外国特派員への規制のきびしさは聞きしにまさる、だった。わが『産経新聞』はいろいろな事情があって、三十一年ぶりの北京特派員復活だから、私自身は中国側の法律や規則は最大限、尊重しようと思っていた。だから中国政府の「外国記者管理条例」もしっかりと読んだ。その内容は簡単にいえば、中国領内のいかなる取材活動も事前に当局の許可を得ねばならない、という趣旨である。どの地域でも自主的な取材はその地域を管轄する当局の新聞局とか外事局の許可を要する。一般の中国国民に対する取材も同様である。条例を厳密に解釈すれば、そういう全面規制なのだ。

 そもそも中国は共産党の一党独裁体制だから、国内のいわゆる「マスコミ」もみな政府や党の直接の管理下にある。外国報道機関にも同様の統制を求めるのは自然かもしれない。旧ソ連の例を見れば、よく理解できる。だがそれでも中国の「条例」は民主主義国家のふつうの報道機関がその最低限の任務を果すことさえも難しくしかねない。

 その後、外国人記者たちには実際は「条例」よりはいくらか多いゆとりが与えられていることがわかった。だがそれでも記者の側では日常の活動が「条例」の厳密な解釈の違反になるのでは、という不安がいつもふっきれず、目に見えない重圧となっている。

 私は以前にも共産主義体制のきびしい統制下で報道をしたことはあった。ベトナム戦争が終り、北ベトナムの大部隊に制圧された南ベトナムの首都サイゴンで六カ月、厳重な管理と検閲のもとで連日、取材と送稿を続けた経験である。三十年もの戦争が終った直後だから、その種の規制は当然ではあったが、送稿の言語は英語かフランス語だけ、どんな原稿も事前に検閲を受けるためのコピーを五枚も当局に提出しなければならないという新命令はたいへんな負担となった。なにしろ戦争中の長い期間、事前の検閲など皆無だったのが、戦争が終ったとたんにぎりぎり締めつける検閲が始まったのだ。外国人記者の活動範囲も同様にきびしく制限されていた。

 だがそんなベトナムの体験とくらべても、中国の規制はもっと構造的で体系的、よくいえば効率がよく、堅固な枠組みがぎっちりと築かれているのだ。目に見えない圧力がじわじわとのしかかっている感じは、なんとも特殊である。そして何よりも、その特殊性を特殊だと指摘することがお互いの友好に反する敵対行為として、相手方だけでなく、味方の側からもタブー扱いされている点が「ふしぎの国」なのだ。

 外国報道機関はオフィスからして、中国政府が指定する「外交人員公寓」という隔離された施設にすべておさめられている。市内の東側一角の数カ所にある外交人員公寓は高い塀で周囲を区切られ、入り口には昼夜、警備のガードが立ち、出入りの人間をチェックする。一般の中国人は入れず、中国社会からは完全に隔絶されている。

 外国の記者たちも原則としてこの外交人員公寓に住むことを義務づけられる。外交官も同様である。「原則として」と書いたのは、最近は中国側の規制がやや緩み、外国の記者や外交官も外交人員公寓の外に住むことが一部、許されてきたからだ。ただしその居住地域は市内の特定の一部に限られ、ふつうの中国人が住む地域や建物への外国人居住は認められない。このへんはNHKの数多い中国紹介番組あたりが伝える「開かれた中国」のイメージとは大違いである。

 仕事も居住も中国政府ご指定の場所というのが原則だが、これも先方からすれば、「外国の報道機関や特派員をいろいろのトラブルから守るための保護的措置」ということになるのだろう。監視を容易にするため、などとは思いたくない。だが、居住者だけでなく来訪者まで、出入りは自動的に必ずチェックされてしまうのは事実である。

 外国報道機関が中国人を助手や通訳や秘書として雇うときには、規制はさらに厳重となる。現地職員は中国政府機関の「外交人員服務公司」というところからの派遣要員しか雇えないのだ。市場経済がうたわれ、民間には優秀で勤勉な人材があふれているのに、一般からの募集は許されない。しかもこちらが払う給料は市場価格の数倍となる。服務公司の職員を雇えば、その職員はこちらの職務を果すと同時に、服務公司への定期的な業務報告も当然、任務の一部となるわけだ。

 中国がWTO(世界貿易機関)に加わるとなれば、市場経済の大原則に従い、外国機関の現地人材雇用も労働市場の需要と供給に従っての自由が求められるのではないか。そんなことを考え、当の外交人員服務公司に「本当にそちらから雇わなければならないのですか」とおずおずうかがってみると、「はい、そういう決りになっています」という返事だった。

 では日本語か英語のできる適当な人がいれば取材助手として雇いたいという考えを伝えると、服務公司は一方的に選んだ候補を一人ずつ送ってきた。こちらは一回だけの面接ですぐに採否を決めねばならない。日本語要員には中国外務省から日本に派遣され、東京などで勤務したという経験者が多かった。

 四十代のでっぷりした男性は立派な元外交官、というよりも現職の外交官で、日本語も流暢このうえない。こちらにとっては助手どころか、命令でもされかねない上司のような貫禄である。いかにも気のききそうな中年女性は、東京の中国大使館の電話交換手だったという。東京勤務の後は北京で日本報道機関数カ所で働いたという経歴だった。同業他社につい最近まで勤務していたというのには、どうしてもためらう。

 逆に英語要員は若手の未経験者という感じの人たちが数人、やはり一人ずつ送られてきた。日本語の要員にくらべると、語学能力の水準はずっと低かった。仕方なく、これまたいずれもお断りした。一つには『産経新聞』同僚特派員が、日本人ながら北京大学の卒業生で、中国語にはまったく不自由しないため、とくに中国人の助手がいなくてもやっていけることもあった。だが服務公司はそれでもなお頻繁に連絡してきて、新たな職員候補のインタビューを勧めてきた。
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