息の長い古典やロングベストセラーの本は多いが、『孫子』もこの中に入る。今日、東洋の兵法書といえば、多くの日本人が先ず思いうかべるのは、『孫子』であろう。
『孫子』は、二千数百年前に中国で書かれた、兵法に関する本である。兵法書とは、一言でいえば、“戦争に勝つためのノウハウを教える本”である。
一口に兵法といっても、二千数百年前と今日の世界とでは、兵器と装備はまるで違うし、戦術もすっかり変わっている。弓矢や刀を主要武器とした昔の戦い方を、ミサイル、航空機、銃砲を主力とする現代の戦争に適用したからといって、勝つとはかぎらない。それにもかかわらず、『孫子』が高く評価されるのには、それだけの理由がなければなるまい。その理由を客観的に探求しようとしたのが、この本である。
『孫子』は、春秋時代の兵法家
孫武の著、あるいは、その子孫で約百年後に活躍した兵法家
孫
の著と伝えられている。
歴史の資料によると、孫武にせよ孫

にせよ、人生の裏も知り尽くしていた。かれらには恐らく、長い夜を独り泣きあかした苦い思い出もあったに違いない。『孫子』が、他の兵法書と違って、単なる戦争技術書でなく、闘争を通じて人間の心の動きをしっかりと捉えている、と評価されるのはこのためである。ことばを換えていえば、『孫子』は人間に対する深い洞察と理解をベースにした哲学の書である。これは、著者が喜びも悲しみも知り尽くした人間だからである。
『孫子』の全篇を通じて流れるのは、
●戦争を美化して考えない。
●無理な戦いを避ける。
●変化発展の眼で捉えようとする。
の三つの精神である。
かかるが故に、その説く戦略論は、二千数百年たった今日でも、血の通った処世術としてはば広く利用されている。個々の戦術や戦い方には、すでに陳腐になったものもあるし、現代戦の遂行には使えないところもあるが、『孫子』を人生哲学の指南書、あるいは経営戦略の参考書としてみるかぎり、今なお大いに役に立つ。
単なる兵法技術のノウハウを教える本としてでなく、人生航路の海図、または経営指導のマニュアルとしても読めるところに、『孫子』の人の心を捉えて離さないチャーム・ポイントがあるといってよい。
この本の上梓にさいして、PHP研究所第一出版部の渡邊祐介氏と中ヒトミ嬢にたいへんお世話になった。紙面をかりて、ここに厚く御礼申し上げたい。
一九九〇年 孟秋
松本一男