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さらば東京裁判史観
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歴史
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序言 我が表象としての世界

『さらば東京裁判史観』
[著]小堀桂一郎 [発行]PHP研究所


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私たちが「歴史」と呼んでいるもの

 歴史に於いて「生じたこと」と「生じたと思われていること」乃至(ないし)「生じたとして語られたこと」とは必ずしも同一ではない。むしろ両者が実は「別物」であるという場合の方が多いのではないか。だが、「生じたと思われていること」が「生じたこと」と同一であるという証明が不可能であると全く同様に、両者が実は別物だということを実証するのも極めて困難か、端的にはできないことである。「生じたと思われていること」は畢竟(ひつきよう)「生じたこと」の近似値であり、人間が把握しているのは常にその「事実の近似値」にすぎないというべきであろう。

 しかし、ある事件が「生じたとして語られている」ことの内容は、それが事実そのものにどれほど近いか、又遠いのか、その誤差の数値も亦測定困難である以上、人間は取り敢えずはその近似値を事実そのものの価値であると考え、その価値の判断に基づいて行動を決定し、実行に移す。

 実に〈世界は我が表象である〉。そしてこの表象の堆積が、我々が歴史と呼ぶところの人間意識の(多くは言語を以てしての)構築物である。言語を以て表現された歴史像はつまりは人間の表象を写しとったものであり、かくて固定された表象の背後には事実それ自体、いわゆる物自体が隠れているのであろう。だがその「物自体」には人間の手は届かない。彼が物の正体だと思って見ている映像は物の表象であって「物自体」ではない。

 もちろん人間は近似値の把握のみを以て満足することはできず、不可能と知りながら、或いはいつかは到達できるかもしれぬという一縷の望みに惹かれて、歴史上の「物自体」に近づこうとする。物自体への密接な接近を以て、言換えれば近似値の精度を可能な限り高めることを以て、既成の表象に修正を加えようとする。だがそれは、人間の歴史的世界の上に遠く高く離れて存在する超越者の眼から見て真の修正たり得ているであろうか。不確かな近似値的表象を、別の表象を以て置換えるにすぎない、というだけのことではないであろうか。

 それにも拘らず、人間は世界と歴史とに対して懐いている己が表象の正確度を少しでも高くしよう、映像を精密化しようとて、己が有限の精神を緊張させ、努力を傾注する。そこに超越者の眼から見ての人間の悲惨があると同時に又その認識者としての栄光をも見てやることができるのだと言えよう。

 而して本当に悲惨というべきは、人間が世界に就いて己が懐いている表象を、或る外部の力によって人為的暴力的に破壊され、或いは歪曲され、それでいてそのことに気がつかずに、これが現在我が把握し得る最高度の近似値を具えた世界像なのだ、と信じている場合である。世界に就いての人間の表象は即ちその世界に対する人間の反応の根拠となるものなのだから、破損され歪曲された表象に基づいての人間の行動は当然、歪んだり適当でないものになったりすることを避けられない。人間の表象の背後に隠れていて、超越者の眼にしか映らぬところの事実それ自体にてらして見れば、彼の反応と行動はまるで見当違い、危くて見てはいられないものになってしまっている、ということも起るであろう。

 人間の行動が、彼が身を置いている歴史的世界に於いてよくその目的に適ったものである、つまり「正しい」ものであるためには、彼の懐いている世界像がその背後にある「物自体」の姿とそれほどかけはなれたものであってはならない。なるべく正確な世界像を保有していることが、行動の方向を選択し決断を下すという過程にとっての不可欠の前提である。この前提条件が充たされた以上は、人間の行動の成否を左右するのは主としてその意志と能力だ、ということになるだろう。而してこの二つの契機は、人間が意識してそれを鍛え、向上させようと思えばさせることのできる、謂わば意識による支配が可能な領域である。これに対してなるべく正確度の高い世界像を保有するという作業は、到底意識が支配し得るという様な性格のものではなく、意識が常に精一杯の努力をして獲得した、その時代の人間の能力の上限に成立しているものである。そこに、我々がなるべく正確な世界像を把握することの困難さと、それ故に又この作業の意義の重要さが存するのだと言えるであろう。

二十世紀前半の世界像と日本人

 以上、冒頭から(はなは)だ理屈責めな、こちたき議論を展開しかけたものだが、それは現在の我々が、二十一世紀という世界史的時間の新しい節目に踏みこんだ我々日本人が、果して拠って以て行動の決断の基準となすに足るような確乎たる世界像を保有しているのか否かという、かなり重大な問題を検討してみようがための前置きとしてである。

 ここに「世界像」という、平面的・静止的な印象を与える概念を提示したけれども、これは便宜的な使い方であって、もちろん自然科学的・地理学的な世界把握を指しているのではない。時間的・動的な契機の方をむしろ重視した世界像のことであって、その意味ではいっそ歴史像と呼ぶべきかもしれないが、その様に名づけてしまうとそれは又人類の過去の記憶が保存され始めた四、五千年の歴史全体に対する把握の為方を意味する様にも解されてしまうだろう。私がここで問題にしたいのは、具体的に言えば二十世紀前半という約半世紀の歴史的時間の中に込められた我々の世界像であり、とりわけその世界の中に位置して、その同じ時間を共に歩んできた我が日本の国の姿である。この期間に於ける国家として国民としての日本に就いて、現在の我々日本人自身がどの様な表象を形成しているか、そしてそれは実像との間にどれほどの近似性乃至は懸隔(けんかく)を有するものかという疑問の再検討であり、予想される歪みや偏向に対する修正の試みである。
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