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さらば東京裁判史観
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歴史
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第一章 戦争責罪周知徹底計画 米国の占領初期の対日方針

『さらば東京裁判史観』
[著]小堀桂一郎 [発行]PHP研究所


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総司令部布告第一号〈日本国国民ニ告ク〉の波紋


驚愕した日本政府

 日本人が近世以来、(こと)安政(あんせい)の開国(西暦一八五四年)以来百年近くの歳月をかけて形成し保有してきた近代の歴史的世界像に、暴力的な改変と歪曲の手が加えられたのは、昭和二十年八月の大東亜戦争敗北・降伏の結果としてである。これが敗戦それ自体よりも日本国民にとってはるかに大きな精神的負傷であり、我々は未だにその痛手から完全には(かいふく)し得ないでいるのだという事情はやがて少しずつわかってくるだろう。

 その傷を負わされた前後の事情を少しく具体的に言えばこうである。

 昭和二十年八月十五日に日本国民はポツダム宣言の受諾による終戦の決断を告げる昭和天皇の詔勅朗読の玉音をラジオ放送を通じて拝聴した(詔書自体の日付は八月十四日付になっている)。降伏文書への調印は九月二日東京湾に進入してきたアメリカ海軍の戦艦ミズーリ号の艦上で行われた。連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサーは既に八月三十日に厚木飛行場に到着し、横浜のホテルニューグランドに入っていたが、〈……本官ノ指揮下ニアル戦勝軍ハ本日ヲ以テ日本国ノ領土ヲ占領セントス〉という〈日本国国民ニ告ク〉と題する総司令部布告第一号が日本政府に内示されたのが、この調印式が行われた同じ九月二日の午後四時であったから、この日を以て公式に、日本国全土が連合国軍(実質的には米軍)の占領下に入ったのだと解してよい。

 この布告第一号の主文第一条には〈行政、司法及立法ノ三権ヲ含ム日本帝国政府ノ一切ノ権能ハ爾今(じこん)本官ノ権力下ニ行使セラルルモノトス〉とあったから、終戦連絡中央事務局の横浜事務局長を通じてこの布告の内容を知った日本政府は大いに驚いた。この第一条の趣旨は占領軍が日本国の領土全般にわたって直接の軍政を施く意志を表示したものと解されたからである。

 ポツダム宣言の受諾が八月九日深夜から十日未明にかけての御前会議に於いて昭和天皇の聖断を仰いで議決された時、日本政府は受諾回答の文言を、〈……対本邦共同宣言に挙げられたる条件中には、天皇の国家統治の大権を変更するの要求を包含し居らざることの了解の下に、帝国政府は右宣言を受諾す〉と結んだ。天皇の法的地位・権能には連合国側から干渉を(さしはさ)まない、という条件を確認した上で日本政府はポツダム宣言を受諾する、という意味である。この回答に対する、アメリカのバーンズ国務長官の名を以て寄せられた再回答の冒頭には現代史研究者達の間で甚だ有名な、重要な文言が置かれている。
〈降伏ノ時ヨリ、天皇及日本国政府ノ国家統治ノ権限ハ、降伏条項ノ実施ノ為、其ノ必要ト認ムル措置ヲ執ル聯合軍最高司令官ノ制限ノ下ニ置カルルモノトス〉というのがそれであるが、この〈制限ノ下ニ置カルル〉という表現は原文(subject to)を素直に解すれば、どう見ても〈従属するものとす〉と訳すベき字句であった。しかしその様に訳してしまえば、天皇の地位が占領軍最高司令官よりも下位にあり、かつ天皇大権も亦占領軍司令官に文字通り従属することになり、日本政府が唯一これだけは譲ることのできない降伏受諾条件だとしていた天皇の地位の御安泰、いわゆる国体の護持が保証されないことになる。それでは殊に陸軍の中に根強い戦争継続派、ポツダム宣言受諾反対派の主張を抑えることができない。そこからsubject toを〈制限ノ下ニ置カルル〉とした歴史的な苦心の曲訳が生れた。

曖昧な訳語から生じた楽天的占領観

 しかし(ひるがえ)って考えてみれば、天皇大権が占領軍最高司令官の下位に立つ、という表現は、少くとも天皇の身柄の御安泰を認めているのでなければ有り得ない表現であるし、一方又バーンズ回答はその末尾の部分で、〈日本国政府ノ確定的形態ハ「ポツダム」宣言ニ(したが)ヒ、日本国国民ノ自由ニ表明スル意志ニヨリ決定セラルベキモノトス〉と述べている。これによれば従来通りの立憲君主制という政治体制の持続に、連合国側は別段異議を呈してくるつもりはない様だ、と読める。

 ところでこのバーンズ回答の中の、日本政府が占領軍最高司令官の権力に従属するという条項は、九月二日に調印された降伏文書の中にもそのままの形で取り入れられ、この条項に日本側が完全に同意していることは、日本国政府と大本営の名に於いてこの文書に署名調印した重光葵(しげみつまもる)梅津美治郎(うめづよしじろう)の責任に於いて明らかなのであるが、そこでも問題の語句は〈制限ノ下ニ置カルルモノトス〉という訳文がそのまま踏襲されていた。このいささか曖昧な訳語が降伏条件の解釈に関して日本政府を少しく楽観的にさせていた気味はあったであろう。

 九月二日午後に手交(しゆこう)内示された布告第一号にしても、これを見て驚いた政府が終戦連絡中央事務局長官たる岡崎勝男(おかざきかつお)を当日の深夜横浜に急派してこの布告を実際に公布することなき様要請し、翌三日重光外相がマッカーサーと会見して、日本はドイツと違って政府が消滅したわけではなく、天皇の権威と政府の適切な処置によって国内の秩序は全く平常通りに保たれていること、従って軍政を施行する必要の毛頭ないことを力説して了承を得た。かくて占領形態の酷烈さを政治的・法的・経済的に明白にうち出しているところの三通の布告を占領軍から直接日本国民に向けて示達することをば思いとどめさせるのに成功した。

 日本政府は終戦の決断から占領開始当初にかけてのこれらの折衝を通じて、事実己が国内秩序維持機能と終戦手続の遂行・処理に就いての能力に或る程度の自信を有し、またそれが駐留したばかりの占領軍になにほどかの印象を与え得たとの自負もあった。総じて敗戦国として戦勝国軍隊による軍事占領を蒙るというこの肇国(ちようこく)以来初めての異常な経験に就いても、比較的楽天的な見通しを懐いたのではなかったかと思われる。

 事実、この昭和二十年九月に始まり、昭和二十七年四月二十八日の平和条約発効に至るまでの六年八箇月にわたる占領期間中、日本国民は後に述べる理由により、米軍の占領政策はそれほど苛酷なものではないとの認識を形成し、記憶することになった。概して寛大なものであったとの評価が一般化した。言ってみれば教科書的認識として定着した。もしもソ連軍に占領されていたら――、或いは少くとも占領軍の中にソ連軍兵士の部隊が、混っていたら――、という様な仮定を立ててみれば、むしろ寛大な方、といった概評は一層説得性を有する様に思われる。

寛大さの裏に隠された不当性と、育まれた敗戦国意識

 しかしながら、占領政策の内容を見るに、被占領国日本の将来がそれほど楽観できるものではないとの予兆はやがて続々と現れてきた。
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