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さらば東京裁判史観
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歴史
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第三章 靖国問題が明らかにしたこと

『さらば東京裁判史観』
[著]小堀桂一郎 [発行]PHP研究所


読了目安時間:44分
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甘受すべからざる明白な内政干渉


国際問題化した靖国神社公式参拝
「東京裁判史観」なる一種の反日イデオロギーが如何にして成立し、定着することになったかという次第は前章に見た通りであるが、それではこのイデオロギーが現実の社会で何らかの具体的な現象として姿を現した場合、我々は如何なる形でそれに出会うことになるのだろうか。

 最も目につきやすいところからその実例を挙げて行ってみよう。第一に挙ぐべきは、毎年八月十五日になると決まってむし返され、公人としてか私人としてか、などと愚劣な問答が新聞紙上に報ぜられることになる、総理を始めとする内閣閣僚の靖国神社公式参拝可否の問題である。

 昭和六十年八月十五日に当時の内閣総理大臣であった中曽根(なかそね)康弘氏が靖国神社に参拝し、公人としての肩書を明記して記帳簿に署名した。そして誤ってこれは戦後初めての例であるなどと新聞紙上に報ぜられた。総理大臣の公式参拝は決してこれが初めての例ではない。少々わずらわしいが敢えて記しておくと、吉田茂(よしだしげる)氏四回、岸信介(きしのぶすけ)氏二回、池田勇人(いけだはやと)氏五回、佐藤栄作(さとうえいさく)氏十一回、田中角栄(たなかかくえい)氏五回、ときちんと記録に残されている。それらはいずれも、主として四月、十月の例大祭(れいたいさい)に際しての参拝であった。

 ところが昭和五十年八月十五日、三木武夫(みきたけお)総理が歴代総理として初めて、終戦記念日という日を選んで参拝に赴いた。それは甚だ立派なことではあったが、この時新聞記者の質問に答えて、内閣総理としてではなく三木個人としての私的参拝であるなどという妙に腰の()わらぬ姿勢を示したのが蹉跌(さてつ)の始まりだった。三木氏の三回についで福田赳夫(ふくだたけお)氏の四回、大平正芳(おおひらまさよし)氏の三回の参拝はいずれも私人という資格でなされ、鈴木善幸(すずきぜんこう)氏の八回は公人か私人かの区別を明言しなかった。中曽根康弘氏は昭和五十八年春から六十年夏までの三年間に十回も靖国神社に詣でた人であるが、その十回目の昭和六十年八月十五日に、これまでの曖昧な政府の姿勢に決着をつけようとして、前年七月以来の一年に及ぶ「閣僚の靖国神社参拝問題に関する懇談会」の討議結果である報告書の趣旨に基づいて、戦後四十年に当る記念すべき日である故に、〈内閣総理大臣としての資格で〉と内閣官房長官談話を以て明言した上で参拝に赴いた。


 この所謂(いわゆる)「靖国懇」の報告書に対しては早くから左翼政党並びに一部の市民グループや宗教団体からの誹謗(ひぼう)の声が上がっていたが、それが海を越えて飛火したものらしく、驚いたことには、この終戦記念日の総理の公式参拝に対し、中国政府から突如として不快感の表明がなされるという事態が生じた。八月十五日付の「人民日報」は、日本の世論を紹介するという擬装をとりながら、閣僚の靖国神社参拝は〈日本軍国主義による侵略戦争の害を深く受けたアジア近隣各国と日本人民の感情を傷つけるものだ〉と書き立てた。

 前記の様に、総理の公式参拝はこれが初めてのことではないし、終戦記念日の総理の参拝という点を考えてみても昭和五十年の三木氏以来、ほぼ連年続けられてきた慣行である。このことが明らかにされて中国からの干渉は一旦()んだ様に思われた。ところがこの問題は結局この年の九月から翌年の四月にかけてその余燼(よじん)(くすぶ)り続け、一時的にはまことにとんでもない忌々(ゆゆ)しき事態を生ぜしめることになる。

戦犯は国内では犯罪者ではない

 そもそも中国政府の靖国問題への容喙(ようかい)は型通りの内政干渉である。日本政府としては余計なお世話だとばかりに突撥(つつぱ)ねればそれで済んだはずである。日中平和友好条約の第一条及び第三条には明白に相互の内政不干渉を規定した条文がある。念の為に引いておけば、第一条では、〈両締約国は、主権及び領土保全の相互尊重、相互不可侵、内政に対する相互の不干渉……の基礎の上に、両国間の恒久(こうきゆう)的な平和友好関係を発展させるものとする〉とあり、第三条にも重ねて、〈……平等及び互恵(ごけい)並びに内政に対する相互不干渉の原則に従い……〉と(うた)っている。従って日本政府としては、貴国のこのたびの言分は平和友好条約に違反する、とせめて一言すべきであったろう。ところが、この時総理を初めとして日本の政府閣僚は大真面目に隣国からの内政干渉に耳を傾け、やがて散々に翻弄(ほんろう)されるに至る。それは彼の干渉の動機として、靖国神社には戦犯が(まつ)られている、〈これまでの侵略戦争における東條英機(とうじようひでき)を含む千人以上の犯罪人を祀っているのだから〉(「人民日報」の記事)という一節があったからで、これが不勉強な日本の政治家達の急所を突く一撃となった。

 いったい戦争犯罪人とは何か。この場合靖国神社に合祀(ごうし)された戦犯の霊とは何か。即物的に言えば戦争犯罪裁判によって、死刑に処せられた人、及び獄死した人の霊をいうのだが、この人々は全て講和条約の成立以前に旧敵国の手によって暴力的に生命を奪われたものである。およそ敵対する二国間での戦争状態は、法的には講和条約の発効までは継続するのであって、今次の戦争で言えば、日本側の戦闘行為は昭和二十年の八月十四日付大本営命令で停止し、九月二日の降伏文書の調印を以て戦闘停止が両国間の合意事項となったけれども、国際関係としてみる時はこれ以後もなお戦争は継続中である。戦争中に敵国の手によって殺された人は、我国の立場から見れば全て戦死に準ずるものとして扱われる(因みに宣戦布告に基づく全面的戦争ではない「事変」や「紛争」の中での戦闘行為中の死や刑死もやはり「戦死」に準じて扱われる)。刑死者・獄死者達は戦争犯罪人という実に忌わしい、人聞きの悪い名をつけられているが、この人々は日本の国法にふれたわけではなく、その意味で国内的には決して犯罪人ではない。戦闘中に死んだのではないから通念上の戦死や戦傷・戦病死とは確かに違った性格の死であるが、日本国政府は公的にはこれを法務死(ほうむし)と呼び、靖国神社では殉難死(じゆんなんし)という呼称をとり、世間ではこの方が広く行われている様である。重要なことは、この殉難死の人々は戦死者と同等に見做(みな)されて恩給法による遺族扶助料の受給が可能になっているという事実で、これは政府がこの人々を犯罪者としては扱っていないということの表れである。かつて犯罪を犯したことのある市民は恩給法第九条によれば、〈死刑又ハ無期(もしく)ハ三年ヲ超ユル懲役若ハ禁錮ノ刑〉を受けたことのある者は恩給受給権を喪失することになっているのだが、所謂(いわゆる)戦犯はこれに該当しない。

国会が全会一致で決めた「受刑者の名誉復」

 戦犯が国内的には犯罪者ではない、という認識の成立過程は、この恩給受給権を目安として観察してみるのが最も便利である。

 昭和二十七年四月、平和条約発効と共に日本は独立主権を復したが、後で述べる条約上の事由により、以て直ちに全戦争犯罪裁判の受刑者達を釈放するというわけにはゆかなかった。しかし戦犯釈放運動は独立復後直ぐに日本弁護士連合会を初めとする民間の諸団体から提起されて、ほとんど一大国民運動の観を呈することになり、やがて政府を動かして昭和三十一年から三十三年にかけて全員釈放が実現に至る。一方国会では受刑者の名誉復についての法的手続を考慮し始め、昭和二十八年八月、戦争犯罪による受刑者の赦免(しやめん)に関する決議を第十六国会の衆議院本会議で可決し、その意図の具体的表現として「戦傷病者戦没者遺族等援護法」の一部を改正し、刑死・獄死した人の遺族も一般遺族と同様に弔慰金と遺族年金とが受給できるようにした。当時この法改正を熱心に推進した右派社会党の(つつみ)ツルヨ衆議院議員の厚生委員会での発言に、受刑者の〈英霊は靖国神社の中にさえも入れてもらえないということ〉を遺族達は非常に嘆いている、との熱烈な訴えがあったことは注目に値する。
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