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さらば東京裁判史観
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歴史
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第五章 国家観の再生に向けて

『さらば東京裁判史観』
[著]小堀桂一郎 [発行]PHP研究所


読了目安時間:59分
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偏見から出発した新憲法の思想



 「国民の義務」を軽視している日本国憲法

 前章の末尾で一言言及した日本国憲法の第三章「国民の権利及び義務」第一〇条から第四〇条までの計三十一箇条を通読してみると、その(ほと)んど全条項が実際には国民の権利に就いて述べたものであるという事実を発見して少々驚く。章の見出しを見れば国民の義務に就いてもふれてあるはずだと誰しもが思うのであるが、明瞭に本文に義務の所在を記しているのは第二七条の〈すべて国民は、勤労の権利を有し、義務を負ふ〉と第三〇条の〈国民は、法律の定めるところにより、納税の義務を負ふ〉との二条だけである(第二六条二項の「教育の義務」は親が子女に義務教育を受けさせる義務を負う、と規定したのであるから、これは子供の立場に就いて見れば子供が普通教育を受ける権利を保証したものであるし、第二五条の見出しに存する「国の社会的保障義務」は文字通り国側の負う義務であって、国民の側からすると「生存権」を保障されるという規定になっている)。

 これ以外の大半の条文は(ほと)んど全て、国民の享受する様々の権利、及び積極的意味を有する何ものか()の自由、消極的意味を有する何ものかから(ヽヽ)の自由を保障したものである。

 (もつと)も、それでは大日本帝国憲法の第二章なる「臣民権利義務」を定めた計十五条ではこの関係はどうなっていたかというに、実は明瞭に義務を規定したのはここでもただ二条のみ、即ち「兵役ノ義務」と「納税ノ義務」のみである。他に信教の自由を定めた第二八条に〈臣民タルノ義務ニ背カサル限リ〉という文言があるが、〈臣民タルノ義務〉の内包に就いては規定がない。

 よく考えてみると〈勤労の義務〉というのもへんな規定であり、律令の時代の納税義務の一種であった「(よう)」、つまり国家への労働力提供の義務をいうわけでもあるまいし、勤労は義務づけなくとも国民がそれを以て報酬を得たいと思えば国が勧奨(かんしよう)などしなくとも国民は勝手に働く。大日本帝国憲法に於いてのみならず、世界中の如何なる近代国家にあっても、国民の国家に対する義務といえば納税と兵役との二つが主要なものであって、かつこの二つ以外には特に法を以て規定しなくてはならない様な義務は元来無いか、或いは大して必要がないだろう。

 近代国家の国民の二大義務と思われる納税と兵役とのうち、一方が跡方もなく消えていてそれに代る何事かへの言及も全くないのだから、思えば日本国憲法は近代国家の憲法としては甚だ特異なものである。

憲法制定者達の眼に映った日本像

 それにしても、現行憲法第三章のあのあまりにも賑やかな国民の権利、国民の自由を謳い上げた項目の羅列(られつ)はいったい何としたことであろう。それはこの憲法の草案を六日六晩の突貫作業で書き飛ばした連合軍総司令部民政局の軍人・軍属達、(こと)にこの第三章を担当したらしい「人権に関する委員会」のメンバーに訊いてみなくてはわからぬことかもしれないが、しかし由来、淵源に就いて大凡(おおよそ)の見当はつくのである。

 それはやはりポツダム宣言に関わるのであって、さきにも引いた如くその第六条には〈……日本国国民ヲ欺瞞シ之ヲシテ世界征服ノ挙ニ出ヅルノ過誤ヲ犯サシメタル者ノ権力及勢力ハ永久ニ除去セラレザルベカラズ〉とあり、第十条には〈……日本国政府ハ日本国国民ノ間ニ於ケル民主主義的傾向ノ復活強化ニ対スル一切ノ障礙(しようがい)ヲ除去スベシ言論、宗教及思想ノ自由並ニ基本的人権ノ尊重ハ確立セラルベシ〉とある。

 つまりポツダム宣言の起草という仕事に集約される対日終戦構想に携ったアメリカ国務省の高官達、そのうち昭和二十年七月半ばまで国務長官代理として強い影響力を有していた前駐日大使で政府内随一の知日派であるジョゼフ・グルーの眼には、日本が大正デモクラシー全盛期の政治路線を復活強化させることができるならば、それで好戦的な軍閥の力は抑えられるとの、謂わば楽観的な見通しがあった。そして部下の外交官ユージン・ドゥーマンにその線に沿ってポツダム宣言の草案を書くことを命じた。その発想が第十条に反映し、日本国民にはデモクラシー樹立への志向はあるのだ、政府がそれを抑圧しさえしなければこの傾向は順調に成長するであろう、と言わんばかりの文言となって最終稿にも残る。この発想は第六条の、日本国民は(あざむ)かれ(だま)されて戦争に駆り立てられたのだ、という解釈とも両立する。

 しかし七月上旬に、やがて日本政府にかのバーンズ回答を提示することになるジェームズ・バーンズが新任の国務長官として着任するに及び、グルーの影響力は失われ、立案中のポツダム宣言の内容は日本に対して強硬な顔を向けたものになって行った(この項は片岡鉄哉(かたおかてつや)氏「対日占領は終わっていない」〔「文藝春秋」平成三年八月―十月号連載、後に講談社(プラスアルフア)(文庫『日本永久占領』に吸収〕に負うている。記して謝意を表する)。知日派という部類に属するのでない限り、ポツダム宣言第十条の末尾にいう、日本国民には元来言論・宗教・思想の自由がなく、基本的人権も確立されていない、との偏見に当時のアメリカ国務省高官連が(とら)われていたということも優にありそうである。この種の人々には同宣言第六条の文言の、日本国民は瞞されていた、という判断が知日派の人々の理解とは一段違った、侮辱的な含みを以て捉えられていたのではなかったろうか。

 余計な感想ではあるが、西修(にしおさむ)氏著『ドキュメント日本国憲法』によれば、憲法第三章のあまりにも細かく小賢(こざか)しい国民の権利の諸規定の発案に大きく関わっていたのは、二十二歳のオーストリア人ベアーテ・シロタであった。彼女は戦前東京音楽学校(現東京芸術大学音楽学部)のピアノ科教授を務めていたレオ・シロタの娘であり、五歳で来日し、東京で少女時代を過している。成人してアメリカに渡りカリフォルニアの名門ミルズ大学に学んだ。戦前婦人雑誌の写真ページによく登場し、著者はその甘く愛らしい風貌を今でも記憶にとどめているが、彼女がどういう経緯でこの様な大それた作業に引きこまれ、協力する様になったのかは詳らかにしない。西氏は後年の彼女にインタビューして、彼女が少女時代から自分なりに日本の家族制度や女性の地位についての理解を有していた、という自信をちらつかせた様な答を引き出している。彼女の発案は瑣末(さまつ)すぎて大幅に整理され現在の形になったらしいのだが、甚だ苦々しいめぐり合せというより他ない。

 ポツダム宣言には、分析してみれば戦争中の知日派が押していた筋と、親中国派即ち嫌日・侮日派が主張していた筋とが絡みあったというべき文脈の錯綜が認められるのだが、この文脈を引き継いで日本国憲法の起草に携った米人達の主流は世代的に又学歴的に所謂(いわゆる)ニュー・ディールを奉ずる人々だった。彼等の思考の特徴を簡約して言えば、民主主義と平和主義を全世界に普遍的に妥当する至高の価値として信奉し、その上でかつ人間の知性を過剰に信頼し駆使しての「計画」や「改革」が大好きだということである。

 信念に凝り固まった善意というのは往々にして傍迷惑なものであるが、日本改造の熱意に燃えて始動した総司令部民政局の「憲法制定会議」の真剣さこそ、傍迷惑を通り越して多年の禍の因であった。彼等には日本が、人権思想の未発達な国、デモクラシーの理想による「啓蒙」が必要な段階にある国と映っていたのであろう。戦争中の「玉砕(ぎよくさい)」や「神風特別攻撃隊」の恐怖の記憶がその見方を助長したこともあったであろう。そこで何事につけ「無権利状態」にあると見えた日本国民に、彼等は何はともあれなるべく多くの権利と自由とを配給しておきたいと考えた。又そのことが占領の重大目的であり、やがて東京裁判によって組織的・計画的に推進されることになる軍国主義者の掃討(そうとう)という事業にとっての甚だ有効な前提作業であり、側面からの協力だとも信じたのであったろう。


意図的に引き裂かれた「国家」と「国民」



 「国民と国家は敵対する」という図式の確立

 憲法第三章は日本国民に諸々の市民的権利を大盤振舞の形で配給した。それらの大半は既に大日本帝国憲法が包括的な形で、時には然るべき留保をつけて国民に保証していたものであり、日本人が初めて手にするというわけのものではなかった。ただ細かく一々その名を呼ぶことによって、その様な権利の所在を明らかにし、それを通じて日本人に広く権利一般の所有欲を開発したのだとも言えよう。余計な世話とは言うもののそれは特に罪深い所業でもない。

 (ただ)一つ、実に困ったことをしてくれたというより他ない彼等の過誤がある。それは日本「国民」に「主権」を与えると宣言する一方で、無謀にも日本という「国家」の「主権」を制限してしまったことである。

 幾度か反復して指摘したことであるが、戦勝国アメリカはポツダム宣言とその延長上に展開した東京裁判を通じ、日本の「国家」と「国民」を分断し、この両者を敵対関係におくことによって、今次の戦争に於ける侵略という罪過の責任を国家の方にのみ負わせ、国民は国家に瞞されていた、むしろ被害者の側に立つ者ということにして直接の責罪からは免除しようとした。但し、国家には顔がないのであるから、その国家を壟断(ろうだん)していた一握りの犯罪的軍閥なるものを想定し、彼等個人個人の顔が即ち国家の顔であるということにしてこの一団を断罪する方針をとった。この図式を確立してしまえば、最高の権威者たる天皇とても、国民と同様に瞞されていた側の人にかぞえておくことによって免罪の論理を立てることは可能である。連合軍最高司令官は東京進駐後間もなく昭和天皇と会見してそのお人柄に完全に心服し、天皇をお守りするという方針を固く胸に懐く様になった。そこで、天皇の権威は被占領国の秩序維持のためには百万の軍隊に相当するとの論法を以て、皇位の廃滅を言い出しかねない本国の国務省に対決した。国務省は結局はこの対日戦勝利の最大功労者の顔を立てることに決したが、天皇を裁判にかけろというソ連・オーストラリア・中華民国等の要求を押えるには、天皇も亦軍閥に欺瞞されていた存在だったという説明は十分に有効だった。

 国民も亦被害者だったのだ、との論法で国民の今新たにかき起された怨恨と復讐の情念を戦争中の為政者側に向けてたきつけておくのは、裁判の進行にとっても都合のよいことだし、民政局のニューディーラー達が企画している日本改造計画にとっても、事業を順調に進める上で必要な条件だった。第一、一億の国民を全て軍閥と同様の侵略戦争の責任者だとして何らかの形で断罪するとしたら、これはそれこそ何百万の軍隊を投入しても足りないほどの社会的混乱を惹起(ひきおこ)すだろうし、所そんなことは現実的に不可能である。
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